隻腕騎士は長髪騎士に惚れられる
長岡更紗
前編
アンゼルード帝国ランディスの街には、隻腕の女騎士がいた。
名を、アイナという。
とある戦闘で利き腕である右腕を失った彼女は、一度は全てに絶望していた。しかしアイナは隻腕ながらもなんとかユリフォード家の騎士に返り咲き、現在を過ごしている。
「おっはよー、アイナさーん」
ユリフォードの屋敷に出勤する際、毎朝声を掛けてくる男がいた。オーケルフェルトに仕える騎士だ。
もうかれこれ六年になるだろうか。初めて会った時はまだ少年という感じが抜けきっていなかったが、今では立派な青年となっている。
アイナは今年、三十二歳となっていた。ちょうど十歳年下のこの男が、眩しく見えて仕方がない。
「おはよう、サイラス」
「時間あるなら、髪の毛結ってあげるよー?」
「ああ、お願いするよ」
サイラスは初めて出会った時、アイナの髪の状態を見て声を掛けてきたのだ。「髪の毛結わせて?」と。
唐突な申し出に目を白黒させていたら、「いいからいいから」と手櫛で髪を解かれ、両サイドを編み込んでアップにしてくれた。
片手でしか髪を結えないアイナは、いつも緩めの一つ括りだったので、きっと見かねて結ってくれたのだろう。
いつもと髪型が違う。それだけでアイナはその日、明るくなれた。なにも変わってはいないが、違う自分になれたような気がしたのだ。
その日からサイラスは会う度に声を掛けてくれ、急ぐ時でない限りは髪を結ってくれている。同じ騎士職ということもあり、会話はいつも弾む。いや、彼が弾ませてくれるのだろう。サイラスには会話の才能がある。
この日もサイラスは、アイナの髪を丁寧に編み込みながら話しかけてくれた。
「アイナさん……なにかつらいことでもあった?」
「どうしてそう思う?」
「髪に元気がない」
そう答えたサイラスに、アイナはプッと笑った。
「髪に元気なんかあるのか?」
「なんとなくね。ほぼ毎日こうしてアイナさんの髪を触ってるんだから、わかるよ」
サイラスは自分の高く結い上げられた髪を、さらさら流しながら言った。
彼のライトブラウンの髪はとても長く、腰の辺りまである。にも関わらず手入れは毛先まで行き届いていて、その辺の女の髪なんかよりキラキラツヤツヤ輝いている。
「アイナさんって僕になんにも言ってくれないよね。僕ってそんなに頼りない?」
「そんなことないよ。サイラスにはいつも力をもらってる。すごく……すごく、助かってる」
実はアイナは、前日にひとつの決別を終えていた。十代の頃からずっと好いていた男との、ズルズルとした関係を断ち切っていたのだ。
前を向きたい。幸せになりたい。
そう思って別れを決断させたのは、このサイラスの存在が大きかった。
サイラスは過去に何度か「僕と付き合って」とアイナに言ってくれていた。その度にのらりくらりと逃げていたが、彼の言葉を今は前向きに考えられる時に来ている。
「アイナさん。僕はいつでもアイナさんの力になるから」
「ありがとう。サイラスとのこと……前向きに考えてみるから、少し待っててくれないかな」
アイナがそう伝えると、サイラスは驚いたように瞠目している。
「え……アイナさん、それ本当に?」
「ああ、もう少し気持ちが落ち着いたら……ちゃんとサイラスと話をしたいって思ってる」
アイナの言葉に、サイラスはグッと言葉を詰まらせている。
初めて「付き合ってほしい」と言われたのはいつだったか。
確かサイラスがオーケルフェルト騎士隊の班長に、最年少の十九歳で昇進した時だったから、三年前だ。
それから一年に一度くらいのペースで同じことを言われている。
「アイナさん、約束だよー?! あーもう、行かないと時間ないな」
「ちゃんと約束したよ。だから行っておいで」
「うん、じゃあ行ってきます! アイナさんも仕事頑張って!」
そういうとサイラスは早足で去っていく。アイナはその後ろ姿を、眩しいものを見るように見送っていた。
それから二週間ほど経って、アイナは休みの日にサイラスと会うことになった。
実は今まで、朝以外の時間に彼と会ったことがない。サイラスに食事に誘われたことは何度もあったが、アイナの好きだった人がちょくちょく家に遊びに来てくれていたため、留守にしたくなくて断っていたのだ。
約束をしたその日、アイナが準備を済ませて待ち合わせ場所に向かうと、既にサイラスの姿があった。
どうやら私服の時の彼は、髪を結わないらしい。長い艶やかな髪を垂らして、惜しげもなく披露している。
サイラスはこちらに気付いて、嬉しそうに手を上げてくれた。
「アイナさーん!」
「ごめんねサイラス。待たせちゃったかな」
「三年もこの時を待ってたからなー。このくらいは大したことないよ?」
「それは……悪かったね……」
「あはは、アイナさんのそんな顔を見られただけで十分だよ。さ、髪見せて」
そう言うと、サイラスはいつものように髪を結ってくれた。この、彼に髪を触れられる時間がとてつもなく心地いい。
「アイナさんの髪、長くなってきたね」
「ああ、そろそろ切ろうかと思ってるよ」
「ええ?! また切っちゃうの?! もったいないなー」
「片手だと色々大変だから」
「髪を洗うくらいなら、いつだってお手伝いするよ?」
「それだって、毎日ってわけにはいかないしね」
「毎日だって僕は構わないよ」
そう言ってサイラスは「できた」と背中をポンと叩いてくれた。
「じゃ、どっか食べに行こうよ。まだご飯食べてないでしょ? どこがいい、アイナさん」
「ああ、私は腕を失ってから八年間、どこにも食べに出たことはないんだ。テイクアウトはするけどね。わからないからお任せするよ」
「え!? 八年間、ずっと?」
「物によっては見苦しい食べ方になってしまうから、ついね」
「あ、分かった。じゃあ今日は僕が食べさせてあげるよ。久々にお店で食べて。いいところがあるんだ」
サイラスについて行くと、狭い路地の一角に『ラティエ』というお店があった。
勿論、アイナは初めて来るところだ。こんな所にお店があることも知らなかった。
「おばちゃん、こんちわー! ちょっと早いけど、いい?」
「いらっしゃい、サイラス。構わないよ、適当に座っておくれ」
「ありがと、おばちゃん。アイナさん、入って入って!」
カウンター席しかない小さなお店に足を踏み入れると、サイラスに『おばちゃん』と呼ばれた女性がこちらを見た。互いの姿を確認した瞬間、瞠目し合う。
「あ、アイナかい!?」
「マーサさん? お久しぶりです」
「え? 知り合い?」
見知った顔に挨拶を交わすと、サイラスが驚いたようにアイナとマーサを見比べている。
「マーサさんはオーケルフェルトの屋敷で料理長をしてた人だよ。独立してたなんて知らなかったな」
「オーケルフェルトの? どうしてアイナさんがオーケルフェルトの料理長を知ってるの?」
「おや、サイラスは知らないのかい? アイナは元々オーケルフェルトの騎士だったんだよ。八年前に腕を失わなければ、今頃は班長だっただろうさ」
「それはどうかな」
アイナは自嘲するように笑って席に着いた。アイナはオーケルフェルト騎士隊に二十四歳まで在籍していたが、その時はまだ平隊員だったのだ。
現在はサイラスを始め、若い内から班長になるような優秀な人材が多い。なのでもし利き腕があったとしても、彼らに押されて班長にはなれなかっただろうと思う。
「おばちゃんがオーケルフェルトで料理長してたことも、アイナさんがオーケルフェルトの騎士だったことも、全然知らなかったよー。どうして言ってくれなかったの」
「言うほどのことじゃないだろ?」
「言うほどのことじゃないしね」
マーサとアイナが同時にそう言うと、サイラスは少し眉間を寄せた。
「もしかしてそれって、僕以外の班長には周知の事実?」
「そうだね。私が料理長を辞める時はあんた以外の班長はみんな入隊してたしね」
「アイナさんも?」
「どうかな。私が辞める時にもみんな入隊してたはずだけど、私の存在を知ってる今の班長なんて、リックバルドとリカルドくらいじゃないか?」
「……ふうん。じゃあアイナさんは、シェスカル隊長のことも知ってるんだ?」
「ああ、まぁ……私とリカルドは、元々シェスカル班だったからね」
実は、現在のオーケルフェルト騎士隊の隊長であるそのシェスカルこそが、アイナの想い人だった。つい最近までずっとズルズルと関係を続けていた相手である。なんとなくだが、それをサイラスには知られたくなかった。
「なーんか僕だけ除け者感あるなー」
「サイラスは若い上にアンゼルード帝国の人間じゃないんだから、仕方ないんじゃないのかい?」
マーサの言葉にアイナは目を丸めた。サイラスが帝国外の人間だったなんて初耳だ。
「サイラスはアンゼルード人じゃなかったんだ」
「あれ? 言ってなかったっけ? 僕はフロランス聖女国出身なんだよ。十六の時にアンゼルードにやってきたんだ」
「へえ……全然知らなかったな」
「同じだよ。僕もアイナさんのこと、全然わかってなかったんだし。これから一緒にわかっていこうよ。ね?」
サイラスの言葉に、アイナはコクリと頷いた。彼のことをもっと知ってみたい。そうすれば、サイラスを好きになれるかもしれない。シェスカルを忘れられるかもしれない。
そして……幸せになれるかもしれない。
アイナは幸せになりたかった。
もう誰かを不幸にして生きたり、罪悪感に苛まれながら生きて行きたくはなかったのだ。
自分を好いてくれているサイラスとなら、上手くいくかもしれない。
アイナは夢を見たかった。白馬に乗った王子様と……とまではいかなくとも、普通に幸せになれる夢を。
しばらくすると、マーサが料理を出してくれる。サイラスはアイナのためにステーキ肉を一口大に切ったり、片手でも食べやすいようにパンの上に野菜を乗せてくれたりと、甲斐甲斐しくアイナの世話をしてくれたのだった。
***
それからのアイナとサイラスは、週に三度のペースで会うようになっていた。
互いの休みが合う時は必ず。それ以外の仕事の日でも、夕食を一緒に食べたりしている。
「今日はアイナさんの家に行ってもいい? 一緒に夕飯作って食べようよ」
ある日、サイラスにそう言われてアイナは了承した。一緒に買い物をして同じ家に帰る。
何だか気恥ずかしさと嬉しさが入り混じった、幸せな気分になれた。もしも結婚したら、こんな事が日常になるのかもしれないと夢想してしまって。
「アイナさん、いつもどうやって料理してるの?」
「慣れれば皮くらい片手でも剥けるし、狙いを定めて包丁に勢いをつければ、丸い物も真っ二つに切れる。どうしても押さえが必要な時はこうして顎を使って……」
「うわーーっ! 危ないよ、アイナさん!! 僕がするから!!」
実演しようと野菜の上に顎を乗せて包丁で切ろうとすると、サイラスに止められてしまった。
「包丁は僕が使うよー。 アイナさんは炒めるのお願い!」
結局包丁は取り上げられ、アイナは言われた通りにフライパンを持って炒めることになった。サイラスは手際よく野菜を切っている。
「手馴れてるね、サイラス」
「まぁ、六年も自炊してればねー」
「そういえば、一人でフロランス聖女国から出てきたのか? ご両親は?」
「聖女国にいるよ。僕だけ家を飛び出してきたからね」
そう言いながらサイラスは、切った野菜をフライパンに放り込んだ。アイナはそれを炒めながらサイラスを見上げる。
「どうして国を出たんだ?」
「アイナさん、知ってる? フロランス聖女国って、女性上位の国なんだよ。トップの人間は『聖女様』で女性しかなれない。政治をするのも全員女性。そんな彼女らを守る騎士も女性。宗教は最古の聖女を崇めるフローレン教。あの国では男がどんなに努力しても、絶対に上には行けないんだ。そういうシステムだから」
サイラスは塩と胡椒をパラパラと振り入れ、「代わるよ」とフライパンを持ってくれた。
ジャッジャッという小気味良い音が響いて、フライパンの中の野菜が踊る。
「僕の髪が長いのも、国の風習が理由だよ。男はね、教会からの祝福を受けられないんだ。だから女のふりをして祝福をもらわなきゃいけない。だからフロランス聖女国の男の未成年者は、全員が長髪だよ。成人後も長髪にしてる人は多いけどね。まぁ僕も今さら短くはできないって感じかな」
「だから髪を編むのが上手いのか」
「あの国では誰でも編めるよ」
「それでサイラスはちょっとオネエっぽいんだな」
「え!? 僕ってオネエっぽい!?」
アイナの言葉にサイラスは傷付いたようにカパッと口を広げている。
「いや、ごめん。なんとなくそんな感じがしただけだ。言葉遣いのせいかな?」
「うわぁ、ショックだなぁ。僕、れっきとした男だよ?」
「わかってるよ」
棚から皿を取り出すと、サイラスは出来上がった野菜炒めを乗せた。
そして今度は魚を捌き始め、見たこともない茶色い調味料で味付けをしている。
「まぁこの国の人から見ると、僕みたいな男は不甲斐なく見えるみたいだね。でも聖女国では女性を褒め称えるのは当然の行為なんだ。みんな自分を産んでくれた母親を心から尊敬しているし、そう教育もされる。女性は全員が聖女フローレンの化身だから、敬うべき存在なんだよ」
魚をグツグツと煮詰めながら、サイラスはそう話してくれた。
彼は自分の国を卑下している様子は全く見られない。恐らく、国に誇りを持ってはいるのだろう。
「僕は自分の国が嫌いなわけじゃないよ。でもあそこにいても、僕は騎士にはなれない。なれたとしても、下っ端の下っ端で上には上がれない。だから僕は、自分の力を最大限生かせられる場所を探して、ここに辿り着いたんだ」
「そうだったのか」
サイラスはご飯を皿の右半分によそうと、出来上がった魚を左半分に乗せている。
「出来上がり! 食べよう、アイナさん」
そう言って彼は祈り始めた。食前の儀式というやつだろう。
「今日も糧をお与え下さった聖女フローレン様と、この糧を得るに至った全ての女性に感謝します。これより食を共にするアイナに聖女の祝福を。確かに」
滞ることなくそう言い終えて、サイラスはスプーンを手に取り、魚とご飯を混ぜ始めた。アイナもそれを真似て同じように混ぜる。魚の骨は全部取ってくれてあるので食べやすそうだ。思えば魚料理など、ずっとご無沙汰だった。
一口それを頬張ると、不思議な香りと味が口の中に広がる。
「これは……初めて食べる味だね……」
「ミソっていう物だよ。聖女国は東方の国と国交があって、ちょっと不思議な調味料が手に入るんだ。たまに母親に送ってもらってるんだけど、口に合わなかった?」
一口目を食べ終わり、二口三口と食べ進める。めちゃくちゃ美味しいという物ではなかったが、なんだかもうちょっと食べてみたいと思わせる味だ。
「なんだか……癖になりそうだな、この味は」
「でしょ!? 良かったー。きっとすぐ慣れて、この味の虜になっちゃうよ。今度はこれでスープを作ってあげるね。すごく美味しいんだ」
「へぇ、スープ? 楽しみにしてるよ」
アイナの言葉に、サイラスは嬉しそうに笑っていた。
そんな彼の姿を見ていると、アイナの体の中から幸福物質が生成されるのを感じる。
サイラスと一緒にいれば、きっとこんな気持ちをずっと味わえるに違いない。
それは、アイナが長年求めて止まないものだった。
夕食を終えて片付けを共に済ませると、サイラスは玄関の方へと向かっていた。
アイナの家に来たいと言った時点で、もしかしたらそういう展開もあるかもしれない……と期待のような覚悟のようなものをしていたので、少し拍子抜けではある。
「今日はありがとう、アイナさん! また遊びに来てもいい?」
「ああ、もちろん」
「じゃあまた明日ね。おやすみ!」
「おやすみ、サイラス」
そう言って彼は出て行った。キスもなにもなかった。
そしてなにもなかったことにショックを受けている自分に驚く。
アイナはいつの間にか、彼とキスしたいと思ってしまっていたのだ。そんな感情をこんなに早く抱くようになるとは、思ってもいなかった。
「サイラス……」
アイナはその日、サイラスのことで頭をいっぱいにしながら、枕を抱き締めて眠った。
その日から彼は、アイナの家を訪ねてきて夕食を共に作ってくれる。
そんな幸せな日々が続いていた、ある日のことだった。
オーケルフェルトで騎士をしていた時の友人、リックバルドと偶然街で出会ったのは。
「おお、アイナか?」
「リック! 久しぶりだね。元気?」
「まぁな。ユリフォードで騎士をしていると聞いてはいたが、中々会う事もなかったな。最近シェスとはどうなっている?」
「どうもこうも……会ってないよ」
そう答えると、リックバルドは不思議そうな顔をした。
「お前はシェスと結婚するものだと思っていたが」
「そんなの、できるわけがないよ。そんなこと……シェスに申し訳ない」
シェスカルはアイナに憐憫の情を抱いていただけに過ぎないのだ。互いに幸せになるためには、別れが必須だったとアイナは思っている。
「俺が言っていいことだとは思わないが……シェスにはそのつもりがあったと思う。アイナが望むなら、俺が橋渡しをしてやっても構わんが」
そんな言葉を聞いてしまうと、嬉しくもあり悲しくもあった。しかしリックバルドの言葉に、アイナは首を横に振って答える。
「いや……いいんだよ。私と一緒になっても、シェスは幸せになれない。だから……いいんだ」
「そうか。まぁ無理強いはせんが……誰か他にいい男でもいるのか?」
「ああ、まぁね」
「ほう? 誰だ?」
当然のように聞かれ、アイナは少し尻込みしたが答えることにした。もしサイラスと正式に付き合ったり結婚したりとなったりするなら、サイラスの同僚であるこの男の耳にも入ってしまうのだ。
「リックの同僚だよ。オーケルフェルト騎士隊班長の……サイラス」
「なに?」
リックバルドの眉間が驚くほど寄せられた。ペンの一本でも挟めそうな勢いである。
そんな彼の反応に、何か悪いことでも言ってしまったかとアイナはたじろいだ。
「アイナ、あいつのことを知っているのか?」
「どういう意味で?」
「あいつは女と見れば見境いのない、シェスカル以上の女好きだぞ。しかも処女好きで、オーケルフェルトのメイドが何人も毒牙にかかっている。お前、あんな奴に引っ掛ったのか?」
「……え?」
アイナの目は点になった。
今リックバルドが言った言葉は事実なのだろうか。アイナはそんなこと、考えもしなかった。
優しくて気さくで楽しい男という認識しかなかったのだ。しかも三年も前から自分のことを好いてくれているのだからと、アイナはサイラスを一途で真っ直ぐな男だと勝手に思い込んでいた。
「それ、本当の話?」
「本当だ。俺の妹も粉をかけられた。アイナも気をつけろ」
「……そう」
アイナはそこからどうやって家に帰ったのか覚えていない。
ただ驚いたことに、頭に石を打ち付けられたかのようなショックを受けていた。サイラスの存在がアイナの中で思った以上に大きくなっていたのだろう。
胸が痛み、涙が少し滲んだ。
「……遊ばれてたのかな」
まだなにも手を出されていないのなら、遊びですらもなかったのかもしれない。
よくよく考えれば、十歳も年の上の女を真剣に好きになるだろうか。声を掛けてきたのだって、アイナの髪型を見かねたというだけだ。特に彼は聖女国の出身のため、女性に優しくするのが身に付いていただけだろう。
毎朝毎朝気にかけてくれたのも、最近では食事を作りに来てくれるのも。
隻腕の女に同情していただけだったのかもしれない。
「その気もないくせに、優しくすんのは罪だよ……」
アイナはその瞳から、ぽとりと涙を落とした。
シェスカルにしてもサイラスにしても、優しすぎる。
でも、同情なんていらなかった。
自分のことをただ心から愛してくれる人が、欲しかった。
そうしてアイナが塞いでいると、トントンと扉がノックされた。きっとサイラスだ。分かってはいたが、開ける気力が起こらずにそのまま立ち尽くす。
「アイナさーん? いないの?」
その声が聞こえると同時に、ドアノブが回された。鍵の掛かっていない扉は簡単に開かれる。
「あれ、いた。どうしたの、アイナさん。待ち合わせ場所に現れないから心配したよ?」
部屋の中に入り覗き込もうとしてくるサイラスを避けるように、アイナは顔を背けた。
「なんかあった? 気分でも悪い? 食べられそうなら今日は僕が作るから、座るか寝るかして……」
「いらないよ」
ピシャリと拒否を示すと、サイラスの気持ちが沈むのが分かる。
「熱でもあるの?」
「触らないで!」
額に触れようとしてきた手を思いっきり跳ね除ける。サイラスは驚いたような顔をしたが、すぐに取り繕ったような笑顔を見せた。
「そっか、ごめん。誰にだって機嫌の悪い日はあるよね。じゃ、僕は帰るよ。また明日ね」
そう言ってサイラスはあっさりと帰って行った。面倒な女だと思ったのかもしれない。
でも、これでよかった。優しくされたらますます勘違いしてしまうだけだ。
今なら傷が浅くて済む。抜け出せなくなってズルズルと付き合うだけの関係は、もう嫌だった。
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