ヴィクトリアの不安

 植物園から戻り、ユージェニーは客間に下がった。ヴィクトリアもリアムを連れて、自室で息をついていた。



「お父様はいつ頃お戻りかしら」


「夕飯前とのことです」


「なら、今日の報告はその後ね。話があるということだけ、すぐ伝わるようにしておいて」


「かしこまりました」


「ハーバートの調査はどこまで進んだのかしら。商人としての動きが無い代わりに、足取りも掴めないとは聞いているけれど」


「昨日の報告以上には何も」


「そう。今日の様子からすると、貴族であることは確定ね。わたくしの身分を知った上であのように振る舞ったということは、それなりに高い身分なのでしょう」



 外出着から着替えることもせず、ヴィクトリアは考え込む。


 弟を返してもらう、と宣言していた。予想はしていたが、ハーバートはリアムを弟だと確信しているらしい。


 ヴィクトリアも、二人に何も関係が無いとは思わない。あまりにも顔立ちが似すぎているし、銀の髪も赤い瞳も、どちらも珍しい色彩だ。血縁関係が無い方が不自然だろう。


 今のところ、リアムはハーバートに名乗っていない。だがこの地方でヴィクトリアは有名だし、その従者の素性も知れ渡っている。調べるのは簡単だろう。


 リアムはスラム街で拾われ、魔力を宿していたことからバルフォア伯爵家の養子となった。従者としての雇い主はアイラ公爵家だが、そもそも彼の身分を保証するのはバルフォア伯爵だ。


 ハーバートが、アイラ公爵家ではなくバルフォア伯爵家に直接話を持ち込んだ場合。それも、偽りのない本来の素性で圧力をかけてきたとしたら。もし、それができるほどの相手だったら。


 たとえば、帝国の皇族に連なるような家の人間だったとしたら。


 帝国との情勢は不安定だ。周辺の国は沈黙の下で焦りを抱えているだろう。今の薄氷のようなバランスを、アイラ家が崩すわけにはいかない。


 もちろんすべては憶測だ。この予想がまるっとひっくり返る可能性も十分にある。


 だが、国や領地の安全と、リアム一人を天秤にかけた時。ヴィクトリアが選ぶ方は、間違いなくリアムではないのだ。


 ヴィクトリアとしては、リアムを手放したくないと願っていても。次期アイラ公爵としては、選んではならない道がある。


 ぎゅっと唇を噛み締めた時、伸びてきた指先が口に触れる寸前で止まった。



「お嬢様。そのように噛んではなりません」



 リアムが膝をつき、案じるようにヴィクトリアの顔を覗き込んでいた。


 触れない指先が、僅かな隙間を残して、唇の形に空を撫でる。労わるように。



「傷がついてしまいます」



 ゆるゆると力を抜いた口元が熱い気がした。その熱に浮かされたように、ヴィクトリアの胸にしまい込まれていた言葉が零れ落ちる。



「わたくしは、リアムを手放したくないわ」


「はい」


「ねえ、リアム。……本当の家族が恋しい?」



 結局のところ、ヴィクトリアが危惧していたのはこれだった。


 国同士の折衝など、どうとでもなるのだ。帝国の不穏な噂はあくまで噂で、対外的には沈黙を貫いている。仮にハーバートが帝国の人間だったとして、今の時点で王国との国交を揺るがすような取引を持ち掛けては来ないだろう。王国と帝国は友好国なのだから。


 帝国、あるいは他国の密偵という疑惑もあったが、今日の時点でその疑惑は薄れた。密偵ならば、あれほど分かりやすい態度を示したりはしないだろう。もっとうまく素性を隠し、ヴィクトリアとの接触も慎重になるはずだ。


 だから、きっとハーバートは生き別れの弟を探しに来ただけなのだ。それだけが目的とも思えないし、弟のことを隠れ蓑にしているのかもしれないが、そこまで考えだすときりがない。


 ヴィクトリアにとって重要なのは、そうやって求められたリアムがどう感じているか、だった。



「どういった経緯であなたがスラムにいたのかは分からないわ。けれど、こうやって探されているということは、少なくとも家族には望まれていたということ。リアム、あなたの本当の家族や……、本当の名前を」


「私はリアム・バルフォアです」



 ヴィクトリアの言葉を遮り、リアムは強い口調で言い切った。



「私の家族はバルフォア家の皆で、私の名前はリアムです。お嬢様がくださったのです。ほかにはありません」



 だが、その声は掠れて震えている。浅く速い呼吸が繰り返される。


 形の良い眉が悲痛なほど寄せられて、目元は強張っていた。縋るように絡みつく視線が訴えてくる。捨てないでくれ、と。


 ヴィクトリアは首を振った。どうにか絞り出した言葉は、彼と同じように震えていた。



「違うのよ。そうじゃないの。わたくしは……。もう、二度とあんな思いをしたくないの」



 ほんの数週間前のことだ。幼い頃から共にあった従者を、一時的ではあるが奪われた。あの時は永遠にリアムが戻って来ないのだと思っていた。


 胸に刻まれた傷は、まだじくじくと痛んで血が滲んでいる。



「リアムがあの男を望んだとしても、きっとわたくしは許さないわ。そんなことはないと、分かっているのに。不安で仕方が無いの。無理やりにでも縛り付けたくなる。けれど、そんなの、……ギルバートと同じよ」



 魔法の契約でリアムを奪い、不条理な主従契約で強引に縛り付けた、元第三王子。ヴィクトリアは、かつての婚約者のようにはなりたくなかった。


 そんなものは、ヴィクトリアの求める美しさではない。



「リアムは、わたくしが相手ならいいと言うのでしょう。知っているわ。あなたがわたくしに、すべて捧げてくれていることなんて。だけど……、それを喜んでしまう自分が恐ろしいの。いつかわたくしが、あなたの心なんて無視する、傲慢な主人になってしまったら。あるいは、恋しさのあまりリアム以外のすべてを犠牲にしてしまったら。今でさえ欲張りなのに、道を踏み外してしまったらどうなるの?」



 自分の欲望のままに振舞う暴君は、美しくない。けれど、ヴィクトリアがいずれそうならない保証はどこにもない。


 失うことも恐ろしい。だが、その恐ろしさに負けて周囲が見えなくなる方が危険だ。


 自分の心さえ完全には把握できない。リアムを疑っているわけではないのに、不安が溢れて止まらない理由も分からない。



「ヴィクトリアお嬢様は、これまでも、これからも、ずっとお美しいです」


「未来のことなんて分からないわ」


「私がお傍についています。お嬢様が道を外れることなどありえませんし、万が一にも道を踏み外すことがあれば」



 リアムは、ヴィクトリアの口元に添えた指先をそのままに、そっと顔を寄せた。


 決して触れない指越しに、吐息と唇が重なり合う。



「一緒に堕ちましょう。どこまでも」



 ヴィクトリアはゆっくりと目を閉じて、そして開いた。


 吐き出されたリアムの息を丸ごと飲み込んで、晴れやかに笑う。



「ならば安心ね」



 すぐ近くにあるリアムの頭を両手で撫でて、ヴィクトリアはソファーから立ち上がった。



「その万が一を引き寄せないためにも、わたくしは美しくなければ。弱音なんて吐いている場合じゃないわね」



 リアムはこれ以上ない忠誠と愛を示してくれた。ならばヴィクトリアは、主人として、恋人として、それに応えるだけだ。



「着替えるわ。準備をお願い」


「はい、お嬢様」

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