ハーバートの宣戦布告
ユージェニーの希望で、植物園に案内することになった。
「一度行ってみたかったのです!」と目をキラキラさせるユージェニーはかわいらしい。
アイラ領都の植物園は年々規模を大きくし、既に元あったスラム街の面影はまったくない。道も周囲の建物も整備され、領都の中でも活気にあふれた一画となっている。
植物園の入り口にアイラ公爵家の馬車で乗り付け、リアムのエスコートで降りた時だった。
周囲の人混みから、さっと銀髪の男が抜け出してきた。
「またお会いできてよかったです。先日は大変失礼いたしました、アイラ公爵令嬢ヴィクトリア様」
深く頭を下げるハーバートに、ヴィクトリアは目線を向ける。
「わたくしは本日、友人と個人的に遊びに来ただけです。商談ならば父に申し出を」
警戒されているのはわかっているのだろう、ハーバートは引かなかった。
「無礼を承知でお声をかけさせていただいています。この顔でお分かりのことと思いますが……。あなたの従者と、話をさせていただきたい」
「ならばなおのこと、父に話を通してください。彼はわたくしの従者であり、護衛です。わたくしから離れることはありませんし、わたくしが友人との時間を削って貴殿に付き合う理由もありません」
ここでハーバートは僅かに顔をしかめた。その反応で、推測が間違っていなかったと察する。
彼は商人などではなく、もともと身分の高い人間なのだろう。自分の要望が通らないことに慣れていない。顔立ちからして、女性に邪険に扱われる経験も少ないはずだ。
ヴィクトリアを見返すハーバートの視線に、怒りと侮蔑の色が僅かに混じっている。さりげなく懐に手を伸ばしたリアムを制して、ヴィクトリアは目元だけでうっすらと笑んだ。
「正式な手続きを踏んで欲しい、と言っているのです。身分を偽る人間の言葉を、いったい誰が真に受けると言うのでしょう。その顔がいったいなんだと? わたくしの従者にそっくりなようですが、わたくしが便宜を図る理由になるとでも思ったの?」
さすがに、ここまで言われるとは思っていなかったのだろう。黙り込んだハーバートを無視して、ヴィクトリアは離れて様子を伺っていたユージェニーに頷く。
改めて植物園に入ろうとしたが、大声で呼び止められた。
「ヴィクトリア嬢!」
ハーバートは、それまでの殊勝な態度を脱ぎ去って、堂々と胸を張って立っていた。通りを行く人々が吸い寄せられたように立ち止まってハーバートを見つめている。
「正式な名乗りは、またいずれ。これまでの無礼はお詫びする。だが……」
ヴィクトリアを、そしてリアムを見つめた男は、力強い声で言い切った。
「弟は返していただく」
ヴィクトリアも負けじと睨み返す。だが、次に口を開いたのはリアムだった。
「俺には年の離れた兄が三人いるが、貴様のような兄を持った覚えはないな」
ヴィクトリアを庇うように立ち、リアムはじろりとハーバートを見据える。
「商人ハーバート。お嬢様の侍従とて、俺も伯爵家の令息だ。口の利き方には気を付けろ」
リアムに促され、拒絶された男の反応を見ることなく、ヴィクトリアたちは植物園に入った。
「珍しいですわね。ヴィクトリア様も、リアム卿も」
気を取り直して花を眺めていると、ユージェニーがそう呟いた。
「何が?」
「お二人があそこまで攻撃的になることが、ですわ。確かに少し失礼ではありましたし、ヴィクトリア様のおっしゃるように、用があるなら正式に申し込むのが筋ではありますが」
ほんの僅か、咎めるような口調だった。ヴィクトリアはふっと肩の力を抜いて、ゆるく微笑む。
「言い過ぎたかしら?」
「そうですわね。ヴィクトリア様らしくありませんでしたわ」
「気を付けるわ」
ささくれ立っていた心が、静かに落ち着いていくのが分かる。
ラベンダーの花にそっと指先を添わせて、ユージェニーは言葉を続けた。
「リアム卿を取られることを心配なさっているのでしょうが、あちらにしてみれば、行方不明だった血縁者の手掛かりでしょう。あまり邪険にしては、悪印象を持たれますわよ。間違いなくリアム卿を囲い込むのならば、こちらの非はすべて潰しませんと」
「囲い込むって」
ころころと笑うヴィクトリアに、ユージェニーも口元を緩めた。
「あの怪しげな男、確かに我が王国の貴族ではありませんね。商人にも見えませんでした」
「でしょう? わたくしたちは、帝国の人間ではないかと疑っているのだけれど」
ヴィクトリアたちの住むタディリス王国の隣には、軍事力で名高いイザリア帝国がある。遠い昔には幾度か戦争もしていたが、何代か前の王が和平を結び、今のところは友好国として付き合いがある。
ただ、帝国は近頃国力の増強に努めているという噂もあり、周辺国は静かに緊張を高めているのが現状だった。
今はまだ、穏健派のクリストフ皇太子と、次期軍務大臣であるエルベール・フォルジュが水面下で睨み合い、帝国の上層部は沈黙を貫いているという。皇太子を支持する派閥の方が多いとは聞くが、武闘派のエルベールを後押しして甘い蜜を吸おうとしている者も少なくはない。
そして、ヴィクトリアがこれほどまでに帝国の内情に興味を持っているのは、タディリス王国の中でも一番広く帝国に接しているのが、アイラ領だからだ。
もし、次期軍務大臣エルベールが武力による制圧に踏み切った時、真っ先に被害を受けるのはアイラの民だ。それだけは避けなくてはならない。
「帝国の……。それならば、警戒はやむを得ませんが。余計に気を付けなくてはならないのでは?」
「ユージェニーの言う通りね。次はもっとうまくやるわ」
たとえハーバートが帝国の人間であろうと、そうでなかろうと。
リアムを弟と呼び、ヴィクトリアから引き離すと宣言した以上、戦うことになるのは目に見えているのだから。
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