ユージェニーが成すべきことは

 ユージェニーから見て、ヴィクトリア・リーヴズ・アイラという令嬢は、あまりにも高みにいる女性だった。


 その身の美しさは言うまでもない。黒い髪は艶やかで、紫色の瞳は宝石のように輝いている。けれど、彼女の本当の美しさは、内面から滲み出る矜持と信念によるものだと、皆が分かっていた。


 ヴィクトリアを良く知らない無知な令嬢たちは、彼女のことを悪く言う。美しさのためなら非道なことも厭わない、冷酷な『耽美令嬢』だと。


 けれど、ユージェニーをはじめとした多くの者たちは、ヴィクトリアこそが高貴なる血筋に相応しい才媛さいえんだと知っている。


 あまり表情の動かない彼女が、お眼鏡に適うものを見つけた時だけ笑う。そのあでやかさと言ったら、畏れを抱いてしまうほどだ。


 そんな彼女が、第三王子ギルバートの婚約者であるというのは、当然のことだと誰もが思っていた。


 ポーラ・アーキンが現れるまでは。


 不遜にもギルバートに近づき、その心を奪った平民上がりの少女。


 二人は知っているのだろうか。ヴィクトリアが彼らを見放したとき、学園に通う生徒たちの多くがそれに追従したことを。


 誰も口に出さない。誰も顔に出さない。だが、あの『耽美令嬢』に認められなかったということは、貴族社会で生き残れないことを意味している。それだけの知識、教養、才能が無いのだと、判断されたのだ。


 ちゃんと学んでいる者たちは、分かっている。誰に付くべきなのかを。


 幸運にもヴィクトリアに見初められたユージェニーは、今や学園の中でも上位の権力を持つようになった。


 だが、それに驕ることはない。その力はヴィクトリアあってのもので、ユージェニー自身が何かを成したわけではない。


 だから、ユージェニーはせめてヴィクトリアの力となれるよう、尽くすのだ。そうすることが、恩を返し、彼女を喜ばせる道だと知っているから。



(ヴィクトリア様に美しいと……、かわいいと愛でられるのは、確かに癖になってしまうし)



 あれを独り占めしたいと願うリアムの気持ちが、少し分かってしまうユージェニーだった。






 デラリア伯爵邸に着いたのは、日も暮れかかった頃だった。帰ったばかりのユージェニーは、父に呼ばれて婚約に関する話を聞いた。


 手紙が届いたその日のうちに動いてくれた父には、感謝してもしきれない。



「婚約破棄の申し出については、フィエン子爵は知らなかったようだ。デリックの独断だろうと」



 ヴィクトリアと予想した通り、デリックは暴走しているようだった。またひとつ、失望が重なる。これでフィエン子爵に話を通そうとしていたなら、まだ救いようもあっただろうに。



「何故こんなことになったのか、心当たりはあるか」



 父は困惑しているようだった。もともとこの婚約は、フィエン子爵家からの申し入れにより結ばれたもの。経済的に困窮している領地を救いたいと、土下座せんばかりの勢いでやってきたのだ。


 フィエン子爵は貧しくとも領地のために奔走する良い領主だったし、後継であるデリックもユージェニーに優しくしてくれた。古くから交流が続いていたこともあり、父であるデラリア伯爵は快くその婚約を受け入れたのだ。


 だからこそ、デリックからの婚約破棄は筋が通らない。



「これは、ヴィクトリア様がお調べになっていることなのですが。ポーラ・アーキンという平民上がりの男爵令嬢に、骨抜きにされているようですわ」



 その辺りは間違いない。調べたのはユージェニー本人だ。他にも、ポーラがどこの誰と交友を結んでいるか、この数日で調べられる限りは調べて、先程一覧をヴィクトリアに渡してきたところだ。



「その程度で、婚約を? それも、ユージェニーからならまだしも」



 父はますます困惑して眉を下げた。



「ええ。その上このことで、デリックは罪に問われる可能性が出てきているのです。お父様、私はもうデリックに心はありませんわ。この婚約破棄、受けてくださいませ」



 ユージェニーは、学園で起こっていることをかいつまんで説明する。父は唖然としていたものの、すぐに目まぐるしく頭を回転させ始めた。



「なるほど……。いや、分かった。お前は素晴らしい動きをしてくれている。このままヴィクトリア様のお力になりなさい」


「分かっておりますわ」


「婚約の方も、お前に瑕疵が付かないように片付けておく。学園では、できるだけデリックと会わぬように」


「ヴィクトリア様もそうおっしゃって、しばらくはずっと傍に控えさせていただくことになりましたの」


「そうか、さすがのご慧眼だ。だがユージェニー、無理だけはしないようにな」



 デリックとの婚約破棄は、恐らくかなり難航するだろう。水害でかなりのダメージを受けたとはいえ、デラリア領は元来裕福な土地だ。やがて穀物の生産は戻るだろうし、その間はヴィクトリアのお陰で、生地や銀細工の商いで繋ぐことができる。フィエン子爵家にとっては、婚約をなかったことにする方が損だ。


 しかし、ヴィクトリアの近くにいるユージェニーが、今のデリックと繋がっていることは、デラリア伯爵家にとって不利益だ。この先は父の交渉力に期待しようと思う。


 デリックとの婚約については、自分にできることはこれまでだと、ユージェニーは少し肩の荷が下りた気分だった。






 デリックとは会うなと父に言われ、ヴィクトリアにも一人きりにならないよう計らってもらい。


 それなのに、登園直後にデリックと遭遇するのは一体どういう巡り合わせだろう。


 幸いなことに、ヴィクトリアが馬車でユージェニーを迎えに来てくれたため、隣にはヴィクトリアとリアムがいる。二人きりで顔を合わせることは避けられた。だが、デリックの方も一人ではなかった。



「デリック君どうしたの?」



 すべての元凶とも言えるかもしれない、ポーラ・アーキンがいた。


 硬直してユージェニーたちを見つめていたデリックは、名前を呼ばれて我に返る。



「ああ、いや。なんでもないよ」



 ポーラに向けられた柔らかい微笑みは、ついこの間まではユージェニーに向けられていたものだ。僅かに胸が痛んだが、それ以上に怒りの方が勝った。


 婚約者として、大事にされていると思っていた。まるでいったい何が本当のデリックだったのか、今となってはユージェニーには分からない。



「やあ、ユージェニー。元気そうだね」



 それは嫌味か、と悪態をつきそうになった。



「……フィエン子爵令息。あなた、こちらにおられるヴィクトリア様のお姿が見えませんの? 許可なく口を開くなんて、なんて無作法な」



 思った以上に冷たい声が出て、デリックが動揺したのが分かった。



「それに、私は伯爵令嬢。あなたから婚約の破棄を言い出した以上、私に対しても無礼な口は許しません。名前も呼ばれたくありませんわ」



 貴族として当然のことを、ユージェニーは言っただけだ。なのに、デリックが何かを答える前に、ポーラが大きな声を上げた。



「ユージェニー様までそんなことを言うんですか!? あたし、あなたは話の分かる人だと思ってたのに!」


「……あなたにも言っていますわよ、アーキンさん。無礼な発言は許さなくてよ」


「無礼、無礼って、そんな風に人を脅す方が失礼だと思います! 自分の言動がどう見られるか、考えたこともないんですか?」



 ユージェニーは思わずヴィクトリアを見た。普段と変わらない美貌が、ちょっと遠くを見ているような気がする。


 ポーラはこんなにも話が通じない相手だっただろうか。


 もはや恐怖すら覚えて、ユージェニーはポーラを上から下まで眺め回した。本当に同じ人間かどうか疑問を覚えたのだ。


 そして、彼女の纏うドレスや身に着けた宝石類が、あまりにも高価なものばかりであることに気付いた。これまでの比ではない、最高級の品々ばかりだろう。ただ、ヴィクトリアは選ばないような、ゴテゴテと飾り付けの多い下品なデザインだが。


 ギルバートはこの短期間に、どれだけの金を彼女につぎ込んだのだろう。



「アーキンさん」



 ヴィクトリアが声を発したので、ユージェニーはすぐさま下がった。



「な、なんですか」


「わたくしの友人に対する非礼な言動、決して見過ごせませんわ。己を顧みることができないのは、あなたの方ではなくて? フィエン子爵令息もですわ。ユージェニーとデラリア伯爵家を裏切っておいて、随分と厚かましいこと」



 ヴィクトリアの美しい顔で冴え冴えと見据えられるのは、どれだけ居心地が悪いだろう。ユージェニーは絶対にごめんだ。


 だが、ポーラは違った。



「友達って言いながら、そんな風に人を従えてるヴィクトリア様がおかしいんです。本当に友達だったら、身分なんて関係ないでしょう?」


「あなたには理解できないようですが、友達だからこそ身分を大切にするのです。人目のあるところでは、特に」



 もしユージェニーが、「ヴィクトリアの友人」という立場を笠に着て傲慢に振る舞えば。それはユージェニー自身の評判を落とすだけだ。


 けれどポーラは不可解そうな顔をしただけだった。



「そんなことないわ。だって人の付き合いに上下関係があるなんて、おかしいもの」



 ヴィクトリアはため息をつく。


 ユージェニーはそっと視線を送ってから、ヴィクトリアに進言した。



「言葉を理解できないなら、この時間は無駄でしかありませんわ。ヴィクトリア様、もう行きましょう」



 ギルバートも、デリックも。何故この娘に心酔しているのか分からない。話すだけで疲れるのに、同じ時間を過ごすなど、考えただけでも拷問のようだ。


 そうね、と頷いたヴィクトリアが歩き出す。ユージェニーもそれに続こうとして、手首を掴んで止められた。



「まだ分からないのですか、フィエン子爵令息。放しなさい」


「僕に未練があったら可哀想だと思って様子を見に来たんだけど、そうでもなさそうで安心したよ」



 デリックはそう言って笑う。どこまでもユージェニーを馬鹿にしたいらしい。


 手を放してくれないので、ユージェニー自ら振り払う。



「ええ、そうね。あなたは私に必要がないと分かったから」



 ヴィクトリアを見習ってそう言ってみたが、思いのほかデリックのプライドを傷つけたらしい。デリックはきつく眉間に皺を寄せた。



「必要が無いのは君の方だよ」


「私が?」


「そうだよ。だって君は、僕を助けてはくれないんだろう?」


「……は?」



 何を当たり前のことを、とユージェニーは思ったが、デリックは違った。



「ポーラは、貧しい暮らしを強いられてきた僕に共感してくれた。そして、僕たちのように不遇な状況にある人を助けたいって言ってくれたんだ。洪水だかなんだかで経済支援を切ったばかりか、ヴィクトリア嬢と知り合っても、僕を救ってくれなかった君とは違ってね」



 めまいがした。何故こんな男のことが好きだったのだろうと、過去の自分を嫌悪するくらいに。


 ヴィクトリアの言う『醜さ』が、心の底から理解できた。



「ヴィクトリア様の言う通り、あなたは本当に醜い人ね」


「なんだと!?」


「二度と私に話しかけないで。顔も見たくないわ」



 手紙にあったように、ポーラに心が移っただけなら、傷つきはしたがまだ受け入れられた。人の心が不変でないことくらい、ユージェニーだって知っている。


 だが、本来デリックがやらなければならない責務を、人に押し付けたいだけだと言うのなら。それは婚約者だったユージェニーにも、それどころかポーラに対しても、最低な行いだ。


 腹が立って仕方がなかった。もう一言だって会話をしたくない。


 ――もしこの時、デリックの発言を問い詰めていれば。


 そう後悔することになるなんて、ユージェニーは予想もしていなかった。

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