ユージェニーの失恋

 さすがのヴィクトリアも、映像記録のスクロールを一日に何本も作るのは大仕事だった。朝から軽い貧血を起こし、リアムにさんざん心配されながらベッドに押し込まれる羽目になった。当然、学園も休むことになった。


 学園に行くのは無理でも、少し休んでいれば大丈夫だと言ったのに、父にまで「部屋で休んでいろ、無礼者の家はお父様がキリキリ搾り上げておく」と、優しく諭された。


 そのため、仕方なくベッドで本を読んでいたのだが。



「お嬢様、ユージェニー様が訪ねて来られたのですが……」



 ヴィクトリア付きの侍女が、困惑した様子でそう伝えに来た。



「ユージェニーが? あの子が先触れもなしにだなんて」



 その辺りのマナーはしっかりしているユージェニーだ。だからこそ、緊急なのだろうと察することができる。



「応接室にお通ししたのですが、その……」



 リアムが一旦部屋を出て、侍女がヴィクトリアの支度を始める。部屋着を脱がせてもらっていると、侍女がこんなことを言った。



「ずっと、泣いていらっしゃるのです。ですが、ヴィクトリアお嬢様に大事な報告があるからと……」


「どういうこと?」



 ヴィクトリアの知るユージェニーは、そこらの男よりも気が強くてきっぱりとものを言う性格だ。令嬢らしからぬ商人気質も持ち合わせた、強かな女性。けれど自分のできること、やるべきことを理解している聡明さを、ヴィクトリアは美しいと思うのだ。


 そんなユージェニーが、泣きながらヴィクトリアの所に来るなど、ただ事ではない。



「髪はこのままでいいわ。ドレスだけ見苦しくない程度に整えて」



 早くユージェニーに会おうと、ヴィクトリアは侍女を急かす。人と会っても問題ない程度に身なりを整えてから、リアムを連れて応接室に向かった。


 そこには、侍女が言う通り目を真っ赤に腫らしたユージェニーがいた。



「ヴィクトリア様。突然の訪問をお許しください」



 完璧な所作で礼をするユージェニーだが、非礼を詫びるその声も鼻にかかっている。ヴィクトリアは驚いて、ユージェニーにハンカチを手渡した。



「どうしたの、ユージェニー。何があったの?」


「ご……、ごめんなさい。体調が優れないとはお聞きしていたのですけれど、どうしても……。ヴィクトリア様以外に、話せる方がいなくて……」



 わっと泣き出したユージェニーをソファーに深く座らせて、背中を撫でる。リアムに目配せすれば、優秀な従者はすぐにハーブティーを用意してくれた。


 彼女が落ち着くまで待っていると、ユージェニーはまたもや「申し訳ありません」と謝った。



「魔法の使い過ぎで貧血を起こしただけだもの。ずっと休んでいたし、わたくしはもう大丈夫よ。それよりも、ユージェニーの方が心配だわ」


「私……」



 ハンカチで何度も涙を拭ってから、ユージェニーはようやく話し始めた。



「ヴィクトリア様の言いつけ通り、ポーラ・アーキンの交友関係を探っておりましたの。実は、あの談話室で彼女を囲む男子生徒の中に、私の婚約者が混じっていたような気がして……。その疑いを晴らしたかったというのもあって」



 あの時言いかけたのはそのことだったのか、とヴィクトリアは思い出した。確かに談話室では距離もあったし、人が多くて誰がいたのかまでは把握できなかった。



「私の婚約者は、デリック・ノーマン・フィエンです。我がデラリア領の隣にある、フィエン子爵領の後継ぎですわ。婚約の経緯は、以前にお話しした通りです」


「ユージェニーの家からの、資金援助が最大の理由だったわね」


「はい。ヴィクトリア様のお陰で、水害の被害が大きかった我が領地は立ち直りつつあります。ですから、婚約もこのまま継続となると、私は思っておりました。父も、そのつもりで」



 再びユージェニーの声が詰まって、ヴィクトリアはハーブティーを勧めた。


 一度お茶を飲んで落ち着いたユージェニーは、カップの中に大きなため息を落とした。



「デリックを信じたかった。けれど……、領の経営が怪しくなった頃から、彼の手紙が素っ気なくなったのは感じておりました。学園でも、避けられておりましたし」



 政略結婚なのだから仕方がない、とユージェニーは自嘲の笑みを浮かべる。



「そもそも貴族の結婚とは、そういうものですもの。ただ私は、それでも、デリックと結婚できるならそれでもいいと……」



 婚約者に恋をしたのだと、話していた。


 政略結婚が当然の貴族社会では、例え想い人ができたとしても、その相手と結婚できる可能性はほとんどない。だからユージェニーは、彼女が語っていた通り幸運だったのだ。



「それでいいと、思っていたのに……」



 ユージェニーの目から、大きな雫がぼたぼたと落ちる。



「デリックは、ポーラ・アーキンと下町で遊んでいました。彼のことはよく知っているから分かりますわ。あの女に心を奪われていると」



 ユージェニーの声に憎しみの色はない。ただただ悲しみに暮れるだけだ。


 ヴィクトリアはユージェニーの肩をそっと抱き寄せた。



「正直なところ、私はデリックから愛されてはおらずとも、婚約者として、将来の妻としての情はもらっていると、思っていました。そして、情があれば愛も育つだろうと。ですが……、デリックにはきっと、その情すらなかったんだわ」



 そこでユージェニーが取り出したのは、皺の付いた手紙だった。インクが滲んでいる部分もあるのは、きっと泣きながらこれを読んだからだろう。


 開いた手紙には、一方的に婚約破棄を突き付ける内容が記されていた。第三者の立場で見ているからか。文面からは、相手がユージェニーをひたすら見下しているようにしか読み取れない。


 ポーラを愛したから君とは結婚できない。まさか、そんな馬鹿げた理由が通る訳がないだろうに。


 第一、ポーラはギルバートと恋仲であるはずだ。ユージェニーとデリックの婚約が無くなったところで、ポーラに向いた愛は成就しない。


 ヴィクトリアは手紙をテーブルに置いて、ユージェニーの頭を優しく抱き締めた。


 声を上げて泣きじゃくり始めたユージェニーに、普段の落ち着いて冷静な淑女の姿はない。信じていた婚約者に最悪の形で裏切られ、傷ついたただの女の子だ。



「……かわいそうに」



 子供のように泣くユージェニーを撫でて、ヴィクトリアは微笑む。



「私は……、デリックと結婚して、共にフィエン領を盛り立てていくのだと、そう思っていました。もっと領地の勉強をしろと、口うるさく言ったのがいけなかったの? それとも、学園の成績が、デリックよりも良かったから?」


「あなたは何も悪くないわ」


「でもデリックは、私が彼を立てないのが悪いのだと」


「婚約者に立ててもらえないほど、情けない男が悪いのよ」


「でもそれが、私に求められていた役目でした」


「実力もない者を無理におだてても、その先には破滅しかないわ」



 ユージェニーは顔を上げる。そして、嫣然と微笑んでいるヴィクトリアを見て、耳を赤くして盛大に拗ねた。



「ヴィクトリア様、酷いわ! 私がかわいそうだからって楽しんでらっしゃるでしょう」


「楽しんではいないわ。かわいいとは思っているけれど」


「リアム卿もそうですが、ヴィクトリア様のそれだけは悪趣味だと思いますわ!」


「うふふ、強がっているのね、ユージェニー。そんなところもかわいいわ」


「せめて今は隠すとかしてくださらないかしら! リアム卿も恨みがましい目をしないでくださる!? あなたのご主人様を取ったりしませんわ!」



 ひとしきり泣き、怒ったユージェニーは、リアムが淹れ直したハーブティーを飲んでようやく落ち着いた。


 まだ少し、拗ねてはいたが。



「なんだか馬鹿らしくなりましたわ! 泣くのはこれで最後にいたします。婚約破棄も結構。次期領主としての自覚が足りない男など、こちらから願い下げですわ!」



 テーブルの上の手紙をバン! と叩いて、ユージェニーは真っ赤な目を吊り上げる。



「以前のデリックは、もっと優しくて私を大切にしてくれました。ですが、好きな相手ができた途端に婚約者をないがしろにするのなら、政略結婚の相手としても、……愛する将来の夫としても。私は彼を認めるわけにはいきません」



 一瞬だけ声に涙が滲んだが、ユージェニーはすぐにそれを振り払った。



「デラリア伯爵はなんと?」


「今朝手紙が届いてすぐに相談しましたが、フィエン子爵に確認を取ると。驚いていましたわ」


「ということは、婚約破棄が正式に決まったわけではない……。ご子息が暴走している可能性もあるわね」


「ありえますわ。デリックは子爵の言うままに動くことを、厭うていた節がありますから。もしかしたら、この婚約も最初から乗り気ではなかったのかも」



 ヴィクトリアは少し考えて、ひたとユージェニーを見据えた。先程までの笑みはそこにはない。空気が変わったことを察して、ユージェニーも自然と背筋を伸ばした。



「ユージェニー。わたくしはギルバート殿下との婚約解消を目指しているけれど……、もしかするとポーラ・アーキンとの関わり次第では、それだけでは済まなくなる可能性が出ているわ」



 昨日、ヴィクトリアに絡んできた令息たちは、身分制度に対する嫌悪感を見せた。それは、以前ポーラが口にしていたのと似た思想だ。


 彼らがポーラに影響されているという推測は、間違っていないだろう。問題は、ギルバートがどこまで関与しているか、だ。


 彼も貴族の暮らしぶりに対する疑問を口にしていた。もし、ポーラと一緒になって下位貴族たちを扇動しているのなら。


 それは、元平民の世迷言では済まなくなる。


 ギルバートが関与している証拠はない。限りなく怪しいが、状況証拠だけでは王子である彼を糾弾することはできない。



「ギルバート殿下とポーラ・アーキンがどうなるかは、今後の調査にかかっている。けれど、もし彼らを罪に問うことになった場合、ポーラと関わっていた者たちも連座となるでしょう」


「それは……、デリックも、ですわね」



 ギルバートが何をどこまでやらかすか。そして、ヴィクトリアが証拠をどこまで掴めるか。それによって今後が決まる。



「ええ、そうね。ユージェニー、あなたはどうしたい? デリック・ノーマン・フィエンを」



 ユージェニーは言葉に詰まった。ここで間違う人間ではないと、ヴィクトリアは信じている。彼女の気高い美しさを。



「……ヴィクトリア様。もし罪を犯したならば、それは償うべきです。彼が声を聴くべき相手を間違えたのならば、それは罪ですわ」



 貴族として生まれ、生きるからには。



「ヴィクトリア様の思うように。私は父と、ヴィクトリア様の決断に従います」



 それが、恋をした相手を破滅に導く言葉だとしても。迷いなく言い切ったユージェニーに、ヴィクトリアは笑顔を咲かせた。



「さすがはユージェニー、あなたはとても美しいわね」


「おやめください。今はちょっと複雑な気分になりますわ」



 本当に複雑な表情で眉を下げたユージェニーだが、すぐに小さく笑った。



「ですが、ありがとうございます。私の気持ちを発散させてくださったのですわよね?」


「あら、わたくしはいつものように、美しいものを愛でただけよ?」


「ふふふ。そのような発言はリアム卿に嫉妬されてしまいますから、お控えくださるとありがたいですわ」



 振り返ると本当にリアムがじっとりとした目をしていて、ヴィクトリアははしたなくも声を上げて笑ってしまった。

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