第14話 火呪
日中の暑気をひきずり、ことに寝苦しい夜だった。布団から山内くんは身を起こした。寝起きのぼんやりしたまなざしを廊下側の障子に向ける。
(……しまった。おしっこ行きたい)
かれは十妙院家に泊まるようになった最初の夜以来ずっと、夜中にトイレに行かずにすむよう細心の注意を払っていた。脱水症状の危険があると知りつつ、就寝前にあまり水を飲まないようにしていたのである。
だが、この日の夕食は濃い目の味付けで、かれはついついいつもより水を多く飲んでしまっていた。その報いがいま尿意となって迫ってきている。
膀胱が張って徐々に目が冴えてきた。山内くんは嫌そうに障子戸を見つめた。今夜はさいわいにしてなにかが覗いたりはしていないが……
十妙院家のトイレは、なぜか家の中ではなく、屋敷の母屋から離れた庭にある。そこまでは闇を行かねばならなかった。
(……紺を起こそうかな)
ついてきてもらおうと、山内くんは首をめぐらした。
少女の寝息が響くとなりの布団へ。暑いのか紺は上掛けをはねのけ、若干寝乱れた姿で眠っている。彼女を起こそうとして、山内くんは伸ばしかけた手を宙で止めた。
考え直したのである。
(ひとりでトイレに行くのが怖いから、わざわざ起こしてついてきてもらうって……よく考えなくても恥ずかしい。小さな子じゃあるまいし)
しかも、紺はいちおう同い年の女の子だ。
……迷ったが、山内くんは思い切ってひとりで立った。
(素早く行って帰ってくれば、たぶん大丈夫)
音を立てないように、暗い廊下を小走りに渡る。山内くんは縁側から
十妙院家のトイレは、金がかけられている。まず外見からして、茶室かと見紛うばかりの立派さ。屋根は茅葺き、壁は黒塗りの板で、周囲をツツジの生け垣が囲っている。中の床は
個室は二畳の床面積で、家庭のトイレとは思えないひろびろとした空間となっている。しかもその個室がふたつある。建物内部で公衆トイレのように男女の使用個室が分けられているのだ。
しかし今夜の山内くんには、このトイレの広さがかえって落ち着かない。
小用を足しながらかれはぶるりと震えた。
(ここのおトイレ、いやに綺麗で、静かすぎるし)
静謐で清浄な雰囲気なのだ。怖ろしいものが潜むわけではないが、この空間にはまた別の不自然さがあった。空気の色が違うのがかれには見えている。
気を紛らわせようと山内くんは別のことを考えた。
(思えば、かなり早く平気になっちゃった。あの部屋で寝るのが)
紺が横で寝ていることに慣れた。時たまではあるがなにかが部屋をのぞきに来ることにも……慣れはしないが、眠れる程度に意識から閉め出せるようになった。
……が、のぞきに来る者のことを思い出したとたん、再度の震えが身に走った。
(早く戻ろう)
ことを終えて山内くんは寝巻の前を直す。
外に出たとき、かれの視界の端をなにかがふわりと飛んで横切った。
「うわ!? ……あ。な、なんだ……蛍か」
闇のなかにちらちらと赤い点が一つ。庭から屋敷にかけて、どこに止まるか迷うようにさまよっている。
(このあたりだと蛍(ほたる)はいまの時期珍しいなあ)と考え――
とつぜん、山内くんは顔面と背筋を硬直させた。思い出したのだ。
蛍の光は緑だ。赤ではない。
池の横で、ぴたりと宙で赤い光点が静止した。山内くんに見られたと気づいたかのように。
人魂だろうか? じりじりと後じさる山内くんに見せつけるように、光点はとつぜんふくらみはじめた。くるくる回りながら火を発する。回るたびに大きさが増していく。ゴルフボールくらいの大きさに、野球のボール並みに、ソフトボール大に……もはや光点ではなく火球といってよいそれは、ついに人の頭程度にまで大きくなった。
そして、人の頭状の球体から、胴体が生えはじめた。
(ちがう、人魂でもない……!)
胴体と四肢をそなえて庭に降り立ったそれは、赤く燃える人型のなにかだった。
火の色に塗られたマネキンか、皮を剥がれた男のようだ。
それは首をめぐらせて山内くんを見た。目鼻ははっきりしなかったが、にもかかわらず山内くんは見つめられていると確信できた。
そいつは山内くんのほうに向き直った。その足元で、踏みつけられた草が煙を立てて燃えた。
(こ……こいつ……)
山内くんはあえぐ。燃えるそれを見たことがあった。
この町にくるきっかけになったアパートの火事で、窓の奥でこいつが踊るように動いているのを見たのだ。あのときは一瞬しか見えず、見間違いかと思ったのだが……
燃えるそれは二歩三歩と距離を詰めてきた。顔をひきつらせ、山内くんは同じだけ後ろに下がった。一人で部屋から出たことを、真剣に後悔していた。
とつぜん、大声の指示が聞こえた。
「トイレに逃げこめ、山内!」
寝巻姿の紺が、縁側を駆けてきた。彼女はひらりと庭に飛びおりながら叫んだ。
「そいつは形をとった呪詛だ、触ったら焼き殺されるぞ! トイレの敷地には防衛用の結界を張ってある、そこに避難しろ!」
紺が怒鳴るあいだにも、燃える呪詛は腕をひろげて山内くんに迫ってきていた。抱きつこうとするかのように。
考えているひまはなかった。山内くんは身をひるがえして、出てきたばかりのトイレに駆けこんだ。だが紺のことが気にかかった。あわただしく山内くんは戸をまた開ける。
君も逃げてと叫ぶために顔を出したとき――……
弦楽器のような澄んだ音が、夜を震わした。
とたんに、燃える呪詛の表面にさざ波が走った。そいつは立ち止まった。
母屋のほうから、口早に詞(ことば)が聞こえてくる。
楓さんの声だと山内くんは気づいた。
「
呪詛にじりじり距離をつめている紺が、山内くんに視線をちらりと投げて言った。
ふたたび弦の音が響くと、燃える呪詛は今度ははっきりと揺らいだ。音を嫌がるようにぶるぶると震え、頭部を右へ左へ振った。その姿はいまやぶれていた。
さらに、弦の音に続いて、屋敷の屋根に止まっていた蝶たちが、いっせいに舞い降りてきた。古い式神――鬱金(うこん)色をした蝶たちは、人型の呪詛に群がって突っ込んでいった。
蝶たちは次々と燃えた。
しかしただ燃やされているわけではなかった。蝶が一匹飛びこむたびに、獣のように呪詛は頭を振った。蝶たちは獲物を足止めする猟犬なのだ、と山内くんは気づいた。
そして、紺が進み出た。
「火事を引き起こす呪詛だなんて、危険にもほどがあるだろ。てめーを放ったふざけた術者に即刻叩き返してやる」
目を細めて低い声でうなった彼女は、右手の中指と人差し指をそろえ、
「吾が心の臓は秘なり、軻遇突命護り座すなり!」
指を唇にあてて、声高に吟じる。くちなわ様事件のときと同じように、彼女の唇からほとばしる炎が、彼女の腕にからみついていく。
しかし、
「惑ふならあるじにかえれ
「え……きゃあああ!? やめなさい紺! 呪詛返しは駄目!」
紺が宙に指で切りつけようとした瞬間に、楓さんが動転した声をあげた。
「えっ」
ぽかんとした紺が術をぎりぎりでやめて母屋をふりむく。
彼女らに隙ができたその瞬間、燃える呪詛は内側から弾けた。
山内くんは度肝を抜かれた。大量の火の粉となって舞った燃える呪詛が、最後にトイレをめがけて殺到したのである。
扉の隙間から出していた顔に、猛烈な熱風が迫るのを感じた。山内くんは悲鳴をあげたが、トイレの建物の前で火の粉の嵐は急激に失速し……あっけなく風に吹き散った。
「術の解析もしないうちに叩き返してどうするの! 捕らえないと、どこの術者が送ってきた呪詛なのかわからないままじゃない!」
大弓を手にして庭に現れた楓さんが、紺をがみがみ叱っている。
「だって、『あんな迷惑なもの使うやつは、いっぺん自分で味わってみやがれ』って思っちゃったんだもん……」
失敗したと自分でもわかっているのだろう。紺は珍しくしょんぼりと肩を落とし、怒られるままになっている。
楓さんは一度怒りをリセットしようとしてか、目を閉じて眉間を揉んだ。
「紺。呪詛返しの術は強力で効果が速いわ。でも、身を護るためほかに手がないときしか使ってはいけないと言ったでしょう。
呪詛を返すと相手の術者は死ぬのよ、けっして低くはない確率で。――自業自得だからいいじゃないかなどと考えていたら、もう一生あなたに術は使わせない。
あなたはその齢で、人殺しになっていたかもしれないのよ」
涙目になった紺が一言もなくいよいよ縮まる。怒鳴られていた先ほどまでより、静かに諭されているいまのほうがよほど堪えているようだった。
たぶん、よその家の躾(しつけ)に首をつっこむのは余計なことだったろう。それでも山内くんはおずおず口を挟まずにいられなかった。
「あの……でも、紺のおかげで追い払ってもらえましたから」
「……あれが消えたのは、呪詛を放った術者が、自分で術を解いて散らしたからよ」
楓さんはため息をついた。
「紺が呪詛返ししようとしたのが伝わって、危険を悟ったのでしょう。ただ、術の根っこから解除したみたいだから、しばらくはあのような術はかけてこられないはず……ふたたびあれだけの呪詛を仕立てるのは手間も時間もかかるでしょうから。
ところで、あれに見覚えはあるかしら?」
「はい。あります」
姫路で起きた火事のときにあれを見たことを、山内くんは話した。
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