山内くんの呪禁の夏。
二宮酒匂
序
第1話 恩犬と火事と夏のはじまり
僕を救った犬を救うためパパは火のなかに行った。
兵庫県姫路市、七月二十六日の朝。
(うそだ。もう玄関が燃えた)
青ざめた山内くんは路上にパジャマ姿で立ち尽くし、炎上する築四十年の木造アパートを見つめている。持ち出してきた自分のランドセルを抱きしめて、かれはあえぐような声を漏らした。
「パパ……」
同じように路上に避難しているアパートの住人たちも、口々に「なんだよこの火事……」「いくらなんでも火の手が早すぎるでしょ」と口々にうめいている。
(玄関はほんの今しがたまでまだ燃えてなかったじゃないか。だからパパは飛び込んだのに、あれじゃ……あれじゃパパは玄関から外に出てこれない……)
白い煙に、どす黒い煙。パパが突入していったばかりの玄関は、朝の空を塗りつぶす勢いで煙を吐いている。そして煙幕を押しのけて、のたくる炎の触手が奥からあふれだしはじめていた。
「非常階段からいけ、いまのバイクの男を連れ戻すんだ!」
現場指揮をとっている消防団員が、怒鳴るような声で部下に指示している。だがその部下は同じく大声で答えた。
「非常階段側も火勢が強くて突入できません!」
「なんてことだ……いくら木造の建物でも、簡単に燃えすぎだぞ! こうも段ボール箱を燃やすように火が速くてたまるか」
罵る防火服姿の消防団員は、突然ふりむいて、山内くんたちアパート住民に非難をぶつけてきた。
「なにを考えているんだ、さっきの人は! 火事場にバイクで突っ込むなど」
山内くんはぎゅっと唇をひきむすんだ。体が震えた。
(あなたたちが
のどから出かかったがのみくだす。これはパパの信念の問題だ、言ってもわかってもらえない。それに素人目にも火の勢いはすさまじい。消防団が自分たちの命を賭けた突入を行わなかったからといって――それも客観的には寝たきりの老犬であるプディングのために――責めることはできない。
「プディングはほんまにいい犬なんです」
かわりに目を真っ赤にして訴えたのは、プディングの飼い主である田中さんというおばあさんである。
「人を何度も助けたんです……賢くて勇敢なんです」
「だからといってねえ、犬ですよ! しかももう歳をとってて足も動かないんでしょう、犬くらいこうなったらあきらめるのが当然でしょうが。代わりの犬を飼えばいいでしょう」
「寝たきりなのは、一年前に人間の赤ちゃんを車から助けて代わりに下半身を轢かれたからなんです。あんな犬ほかにおりません」
朝早くから路上に避難しているアパート住民たちがむっつりと消防団員を見つめる。「ああ、その犬だったんですか……」新聞にも載ったその事件のことは知っていたのだろう。消防団員はたじろいだ様子を見せる。だが、それでも理解できないとばかりに首を振った。「いくら役に立った犬だからって……せっかく人の犠牲者は出さずにすむところだったのに!」かれは言い捨てて救出活動に戻っていった。
ミニチュア・ダックスフントの血が濃い雑種犬であるプディングは、田中さんの亡くなった孫娘の忘れがたみである。本来ならこのアパートはペット不可であったが、管理人に特例を認められプディングは飼われていた――認められるに至ったのは鋭い鼻と利口さを活かし、さまざまな手柄をあげたからだ。管理人の奥さんが紛失した宝石を発見した。住民女性の部屋にひそかに侵入しようとしたストーカーに吠えかかってお縄に持ち込んだ。誘拐された子供のにおいをたどって発見したときに、完全に住民に認められた。
なおその誘拐された子とは、山内くんのことである。
(あの六年前の誘拐事件のときは、プディングが僕のところにパパを連れてきてくれた……でも、その借りのためにパパはいまあそこに行ってしまった)
黒煙をぶすぶすと吐くアパートの窓に人影が見えないかと、山内くんは目を凝らした。残念ながら煙の奥に見えるのは踊る凶暴な火だけだった。
(――え)
見たものに違和感を覚え、山内くんははっとして見なおす。
つかの間、窓から見えた火がほんとうに踊りまわっているように見えたのである。それは真っ赤で、人の形をして、でたらめに手足を振り乱していた。
しかし、再度視線を向けたとき、その不吉なものは見えなくなっていた。
嫌な汗が背筋に伝うのを感じた。
(この……火事は)
「いくら考えてもおかしい火事や」
ちょうどそのとき、横の会話が漏れ聞こえた。アパートの管理人のおじさんが、別の住民に、まくしたてる勢いで愚痴をこぼしていた。
「一階の物置あったやろ? あそこから出火したんや。五号室の吉塚さんに通報されてわしが駆けつけたんやけどな、そんときには戸の隙間から煙をぶすぶす噴き出しとった。そこから建物全体に火が回るのがあっちゅう間やった。中にガソリン撒いて火ぃつけたんでもなければ、ここまで火の勢いが強くなるとは思えへんわ」
「管理人さん、ほんまに放火やないんか、それは」
「鍵がかかってわし以外だれも入れない物置やぞ。長いこと開かずの部屋になっとったんや、あそこは! 火の不始末すらありえんわ! ああ嫌や、気持ち悪うてかなわん」
吐き捨てる声を聞いて、山内くんはいよいよ強く牙笛を握りしめた。肉食獣の犬歯の先端が、かれのてのひらに食いこんだ。
(やっぱりこの火事自体、また僕が呼び込んでしまったものかもしれない)
突発的な事件や原因のわからない事故は、山内くんの人生につきまとうものだった。そういった不気味な出来事が、これまでひんぱんにかれの周りで起きてきたのだ。
(でも今度のこれは度が過ぎる。同じアパートの人たちを巻き込んでしまうなんて。僕こそが責められるべきなんじゃないだろうか?)
くらくらした。自分が煙を吸ってしまったかのようだ。
立ち尽くしているかれへと、田中さんがすすり泣きながら声をかけてきた。
「ごめんなあ、山内くん……私がいつもどおりプディングを散歩に連れて行っとれば……お父さんに助けに行ってもらうこともなかったのに……」
気を取り直して、山内くんは田中さんに向き直った。
「いえ……僕も、避難のときプディングが残ってることを確かめなかったから……」
(
自己嫌悪で山内くんはため息をついた。半ば無意識で、牙笛をまさぐる。パジャマの胸元に下げた、獣の牙を加工したその笛を。
牙笛――この不思議な笛がひとりでに鳴ったとき、山内くんはすぐにその場を離れるようにしている。そうやって災いを避けてきたのだ。
しかし今回は、その反射的な行動が裏目に出ていた。
朝の早い田中さんは、明け方ごろに姫路城周辺の遊歩道を散歩するのが昔からの日課だった。そして彼女は、自分が外出するときいつもプディングを抱いて連れて行く。だから山内くんたち住民も、朝の火事であわてて避難したとき、田中さんとプディングの姿が見えなくてもさほど心配しなかったのである。火の手が上がる前に、田中さんが出かけるところをちらりと見た人がいたのだ。
しかし住民が知るよしもなかった。老いた近頃のプディングは起きるのが遅くなることがあり、田中さんはその場合愛犬を寝かせておいてひとりで散歩に行くのだなどとは。今日がたまたまそういう日であった。
戻ってきた田中さんは燃えるアパートに駆けこもうとして、消防団とアパート住民に押さえこまれた。田中さんをはがいじめにしたのは、通勤中だったのをUターンして戻ってきた山内くんのパパだった。そして結局、泣き崩れる彼女を間近で見ていたパパ自身がバイクにまたがったのである。
『あの犬は何度も俺たちを助けたからな』燃えるアパートへの突入前、パパはそう言った。『一度くらいはこちらがあの犬を助けるのが筋だろうさ』と。
しかしパパは山内くんの同行ははねつけた。僕もいっしょに行くと山内くんが衝動的に声をあげたとたん、返ってきたのは『阿呆!』の怒声である。ちょっとみんなこいつ見といてもらえますか、とまわりの住民に念を押すやいなや、パパはバイクを発進させて消防団の封鎖線を突破したのだった。
「馬鹿親父っ……!」
小声で罵り、かれはランドセルをきつく抱きしめた。
(僕を孤児にしたら一生恨んでやる)
山内くんは憎しみに変わりそうなくらいに強くパパのことを案じた。それから顔を上げ、田中さんに首をふって断言した。彼女と自分自身を安心させるべく強い口調で、
「パパならプディングを連れてすぐ帰ってきますから。だから謝るのはやめてください」
そういいながらも内心、山内くんは息をつめてもう一度願った。
(死んだらいやだパパ)
次の瞬間だった――その願いに応えるように、アパートの二階の窓が砕け散った。
火の粉と轟音をともなって。
下で見上げている者たちの目が点になる。火をふりきって飛び出してきたのは大型二輪の青い車体。炎の尾を引いてロケットとなったバイク。
スズキ・イナズマ一二〇〇。パパの愛車。
周囲でガラスの破片を乱反射させ、パパは朝日に輝きながら飛んだ。
そのままアパート前にある姫路城の堀に放物線を描いて突っ込んだ。
どぱーんと派手に水しぶきが上がる。
「うわあああ!?」
絶叫して山内くんはランドセルを投げ捨てた。コンクリートでかためられた堀端へと走る。
どきどきしながら堀をのぞきこむと鯉が三、四匹浮いてきた。バイク墜落に巻き込まれた衝撃で気絶したらしい。
藻と白い魚腹がぷかぷか浮かぶ水面に、海坊主のごとくフルフェイスメットの頭部が現れた。続いてざばあと水を分けながら巨体が上がってくる。内側から筋肉で弾けそうな黒いライダースーツ。
山内くんのパパ。元ヤンキー。現在は珈琲の美味さで評判の喫茶店のマスター。身長二メートル体重一○二キログラム。やや細身で背丈も同年代小学六年生の平均しかない山内くんとは、親子にすら見えないマッチョマン。
それでも山内くんのたったひとりの身寄りである。
「プディングは生きてるぜ。だが、だいぶ煙吸ってるからすぐ獣医んとこ行ったほうがいいな」
パパの野太い声が響く。パパは腹に巻きつけた大きなポーチから息絶え絶えの老犬をつかみだし、岸にかかげた。わっと歓呼が湧き、山内くんのそばに来ていた管理人のおじさんがあわててプディングを受け取る。田中さんが手に顔を埋めて嗚咽し、まわりの住民たちが動物病院へのタクシーを手配しはじめた。
岸によじのぼったパパは、水したたるメットを脱ぎもせず、がははと笑った。
「消防団の連中は『堀のせいで消防車が燃えてない部分に寄せられないから、はしご突入ができん』とかなんとか言ってたが、こっちは堀のおかげで助かったぜい」
「こっ、この、なにをのん気にっ!」
山内くんはふだんおとなしい子だが、このときは感情がたかぶっている。かれはパパの腹に正拳突きを叩きこんだ。
「さんざん心配させておいて……!」
不覚にもじわっと涙がにじむ。
拳は厚い筋肉の壁に受け止められただけだったが、安堵の涙のほうはパパをひるませたらしい。気まずそうにパパは山内くんを見下ろして詫びた。
「すまんな。プディングを助けるにゃ今すぐ突っ込むしかねえと思ってよ」
涙をぬぐいながら山内くんは首をふる。
「助けに行くこと自体は別に怒ってなんかっ……」
(パパは本物のバカだし、よその人が今日のこと聞いたら馬鹿にするかもしれないけど)
それでも山内くんにとっては、パパはヒーローなのだった。
「ま、無事だったんだから。それより家もバイクもなくなっちまったな。どうするかねえ」
頭を掻いてパパは言った。黒焦げになりつつあるアパートを見ながら。
拳を引いて、山内くんは苦渋のこもった声を出す。
「あの、パパ……この火事、僕のせいかな?」
「違う。何を言ってんだおまえ」
「パパはそう言ってくれると思ってた。でも管理人さんがさっき話してたんだ。出火原因に心当たりがないんだって。
こういうの、僕のまわりでよく起こるじゃないか。
僕……やっぱり、もういちどどこかでお
パパはしばし無言だった。「それも考えるとなると」かれはようやく言った。
「こりゃ、ちっと実家のほうに身を寄せるしかねえなあ……あの土地にはおかしなことの専門家みてえなのがいる。俺の後輩だが」
「え? 実家あったの……もしかして『あの町』にあるの? 行くの?」
山内くんは驚いた。パパは墓参り以外では「あの町」には帰りたがらない。実家が残っているなどと山内くんは聞いたこともなかった。
だが、今回パパは腹をくくったようだった。
「どうせしばらく寝泊まりするところも必要だしな。盆にはちと早いがいったん、俺の田舎に行こう。現金とカードは持ちだしてきたんだろう?」
「うん……あ、その前にパパ、消防団の人にめちゃくちゃ怒られると思う。ほら、あっちからずかずか歩いてくる」
ありゃだいぶカッカきてんなあ、とパパが情けない声を出した。
かくして小学六年生の夏休み序盤。
山内くんは、家を失ってパパの故郷の田舎へ身を寄せることになった。
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