Ⅳ 苦い思い出

 今の街に越してくる前の話である。僕はある日、通勤途中に女性の霊を見かけた。その数日前にこの駅で人身事故があったと聞いていたのでその事故で亡くなった人の霊なのだろう。ホームのベンチに腰掛ける彼女の姿はベージュのコートの襟から長髪を片側に垂らした姿で、たたずまいがとても美しい人だった。ただ当然僕はその霊を眺めるだけだった。というのも小さい頃からの経験で、霊と関わる事は自分に苦しみを招く事だと僕は知っていた。


 こちらが霊の存在に気付いているとさとられない限り、霊から干渉を受ける事はなかった。しかし霊に気付かれてりつかれると様々な干渉を受けた。ひたすら後をついて回られたり、手を掴まれてその手が痺れたり、時には胸が締め付けられて気分が悪くなる事もあった。しかしいずれの場合も数日もしくは週数間でりついた霊はどこかに行ってしまった。これらの経験から中学生ぐらいからだろうか、僕はどんなに気になる霊を見掛けても気付いた事をさとられないよう振舞ふるまった。その甲斐かいあってか成人してから霊にりつかれる事は無かった。


 その日以降、通勤時にその美しい女性の霊を決まって駅の同じホームのベンチで見かけるようになった。最初はさとられないよう泳がす視線の中、切り取るようにその姿を垣間かいま見ていた。しかしそうして何日かが過ぎるうちにこの女性の霊が周りに全く興味を示さず、ずっと一点を見つめていることに気付いた。僕は毎朝電車を待つ間、その美しい女性の霊を見つめる事で癒され、安らぎを得るようになっていた。そしてその霊を見つめる時間は一瞬から数秒、そして数分とだんだん長くなっていった。そんなある日、事態は急変した。


 その日は雨で風も強く、傘がうまく差せないような天候だった。何とかいつもの駅までたどり着いたがダイヤが乱れ、電車は大きく遅れていた。駅のホームは人でごった返しており、電車を待つ人波に押されるまま気が付くと僕は例の女性の霊のすぐ横にまで辿り着いていた。

 普段は用心して少し距離を取るようにしていたが今日は間近と言っていい距離だった。電車はまだ来ない。ここ最近の観察からこの女性の霊は盗み見ても気付かれないという安心感があった。僕は美しい彼女の横顔を堪能した。長いまつ毛、頬から顎にかけての美しいライン。僕はその美しい女性の霊に完全に心を奪われていた。

 その時だった、彼女の首がゆっくりと回り、僕と目線を合わせるとにっこりと微笑んできた。驚愕と共に僕は顔から一気に血の気が引くのを感じた。驚いた表情を見られたとは思ったが、慌てて彼女から視線を外すとただ電車が来るのを待っている風を必死で装った。普段は感じない心臓の脈打つ音をこめかみに直に感じた。幸いにもそのタイミングで電車がホームに滑り込んで来て僕は電車に乗り込んだ。しかし電車の中から彼女を見ると彼女は真っ直ぐ僕を見ていた。電車が動き出すと視線を僕に固定したまま彼女の顔が電車を追った。僕は背中に冷や汗が流れるのを感じていた。

 

 暴風雨の中、時々後ろを気にしながらやっとの事で僕は自宅に辿り着いた。帰宅途中から体調が悪化していくのが気掛かりだった。ひどい悪寒おかんがして歯が〝ガチガチ〟と鳴った。雨に当たったせいで風邪をひいたかと思ったがそうでない事がすぐに分かった。視線を感じて居間の窓を見ると、そこに駅にいた女性の霊の顔があった。

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