宝くじんせい

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宝くじんせい


 男は動揺していた。当たった。当たってしまった。どうしよう。いや嬉しい……、のかも正直よくわからない。新聞の端っこに載ってる数字の羅列と、財布から引っ張り出してきたクシャクシャの紙切れに刻まれた14ケタをもう一度よく見比べる。2ケタ×7つのうち、5つが一致していた。ということは4等が当たった。まさか当たるとは。これっぽちも思っていなかった。

──4等のは……

 男は新聞の小さな字を追っていく。実年齢にしてはいささか早い老眼がひどく煩わしい。やっとの思いで当選人生一覧を見つけた。

 

・4等…………男、32歳、独身、年収3000万円、目黒区目黒本町3丁目ラ・ナポリージュ22階2201


 男は愕然とした。4等の人生は男より一回りは年下であるにも関わらず、年収は3倍以上だ。

 男は埼玉の郊外に住み、一応は持ち家があるがローンがあと20年は残っている。毎朝ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られながら一時間半ほどかけて通勤している。これから息子が大学、娘は私立の高校に進学するから、学費がグッと重しになる。妻との関係はあまり良好とは言えない。

 それに比べてどうだろう、この4等の人生は。まだまだ若く、十分すぎるほど稼ぎがあって、都心に住み、それになにより独身だ。さぞかし自由な人生だろう。仕事に関して記載はないが、まぁおおかたベンチャー企業の社長か何かだろう。適当に部下に仕事を放り投げて、帰りたいときに帰れて、とりあえず叱責しておけばいいんだろう。男の上司がまさにそうだから、手本には事欠かない。

 そこまで妄想して男は踏みとどまった。いやいや、何を考えているんだ。この人生を捨ててしまったら妻と二人の子どもはどうなるんだ。別に死亡するわけでもないんだから、家のローンは消滅しないだろう。そうなったら妻のパート勤務だけでは到底、家計を支え切れない。つまり、息子が大学に行くのは難しくなるし、娘の学費だって払えるかどうか怪しくなる。そんなのは流石にダメだろう。誰かに怒られるわけではないけれど、自分の中にある確かな責任感が男を踏みとどめた。3人の人生を投げ出して自分だけ楽な人生に逃げるなんて許されない。

 やっぱり捨ててしまおう。そうしてなかったことにして、また明日からこの平凡な人生を歩もう。男はそう考え、もともとクシャクシャだったアタリ券をさらに握りつぶした。そのままごみ箱へと放り投げようとしたが、ふとその手が止まった。いや、当選人生を受け取らないにしても、たまたま気まぐれで買ってみただけの宝くじで4等が当たったんだ。300円の券を3枚、たったの900円で年収3000万になれるチャンスを得たんだ。その豪運の証拠は記念に残しておこうじゃないか。

 男はもはや紙屑同然となっていたアタリ券を丁寧に広げ、シワが薄くなるように両手でよく揉んでから机の引き出しにそっとしまった。



「あれ、もう夕飯は済ませたのか」

 男が居間に降りると、妻はソファに寝そべりながらYouTubeでVTSを観ていた。息子は予備校だろう。リビングテーブルには学校推薦で早々に高校を決めてしまった娘がいて、携帯を見ながら肉じゃがをつまんでいる。その対角の席に男の分の夕飯があったが、ラップもかけられないで長い時間放置されたせいか、湯気の一つも立っていなかった。

「できてたなら呼んでくれてもいいじゃないか」

 男は不満を隠すどころか、ありありと声にのせた。妻はチラと男の目を向けただけで一言、「ああ、居たの」と呟いた。

 憤りやら悲しいやらで男は何も言えなくなり、そっと席について箸を取った。ほとんど八つ当たりに近いかたちで娘を睨む。

「おい、ご飯を食べているときに携帯見るな。行儀悪いぞ」

 男の注意を受けて、娘は途端に顔をゆがめた。

「はぁ? うっさいんだけど。てかアンタだって朝ごはん食べてる時スマホいじってんじゃん。人のこと言えなくない?」

「あ、あれは忙しくて、仕方ないんだよ」

「なら私だって忙しいんだよ。いちいちつっかかってくんな」

 これ以上の会話を拒否するかのように、娘はイヤホンをつけて男のことを無視した。男は行き場のない鬱憤だけが溜められた気がして、乱暴に肉じゃがをかきこんだ。なんで俺だけこんな思いしなきゃならないんだ。働いて養ってるのは俺なのに!

 男は全く味わわないで無理やり胃に押し込んだ後、無言で自室に向かおうとした。その背中に妻が声をかける。

「ちょっと、お皿片していってよ。何度も言っているでしょ、流しに入れといてって。全然やってくれないじゃない」

 ため息を伴う妻の言い回しに男はいよいよカチンときた。

「うるさい! 俺は働いてるんだぞ、毎日毎日お前たちを養うために。やりたくもないのに! それに対する感謝もないのか⁉」

 妻は男のいきなりの大声に目を丸くしたが、しだいに目を細めていった。

「それとこれとは関係がないじゃない。それに私もフルタイムでパートしているわ。それなのに家事のすべてを私に押し付けているのはあなたでしょ。感謝すべきなのは! あなたでしょ!」

「家事なんか…………、大変でもなんでもないだろ」

「はぁ⁉ あなたに、何がわかるの! ロクに手伝いもしないで! 私が頼んだ庭の掃除も3ヶ月は放置してるじゃない。そもそも、私が働かなきゃいけないのだって……」

 妻の顔が卑屈にゆがんだ。

「あなたの稼ぎが悪いからでしょう…………?」

 男は思わず拳を振り上げて、そばの壁を殴ろうとした。が、穴を開けてしまったら修理費が一体いくらかかるのか。固く握った手はむなしく宙に浮いた。男は逃げるように居間を飛び出て、自室のドアを乱暴に閉める。そして引き出しにしまった例のアタリ券を取り出した。



  ×当選人生を受け取った場合


 男は後悔していた。激しく後悔していた。なぜ自分はあのとき、引換をした? 血迷っていた。もっとよく考えて、宝くじ屋に向かう足を止めて、もとの人生にちゃんと向き合えばよかった。

ああ、俺は一生この苦しみを抱えて生きていくのか。


 アタリ券を握りしめたまま、車で店があるショッピングモールに向かっていた。モールの外観が見えてきて、自然とこれから受け取る人生に胸が躍る。駐車場に車を止めて、モール内を歩いた。店はもうすぐそこだ。

 そのまま何の躊躇もなく店に駆け込んだ。周りに構える他の専門店には一切の眼もくれず、窓口にアタリ券を叩きつけた。バックルームで閉店業務をしていた店員が目を白黒させながら表に出てくる。確かこの券を買ったときに対応してもらったスタッフだった気がする。ありがとう、あんたのおかげでこのクソみたいな人生から逃げられる。

「えっと、お客様……、どうされましたか。あ、これ、最近結果が発表された回のやつですか?」、

「そうだ、4等が当たった。今すぐ当選人生を受け取りたい」

「4等! おめでとうございます。うんと、ではまずこちらで確認させていただきますので少々お待ちを。……、それと、今すぐのお受け取りですか?」

「だからそう言ってるじゃないか。できないのか?」

「できないことはないですが……、まぁ、ひとまずは当選番号の照合からですね」

 スタッフは面倒くささを隠しきれていない営業スマイルを残してバックルームへと消えた。

 5分ほど待たされた後、例のスタッフが緩慢な動きで現れた。

「お待たせいたしました」

 男はかなり気が立っていたが、怒鳴っても意味はないと思って黙ったまま頷いた。

「こちらの方でも照合が取れましたので、お客様は正式に4等当選者となります。まずはおめでとうございます。それで、当選人生の受け取りは即時というご要望でしたが……、本当によろしいんですね?」

「何度言わせるんだ。何か都合が悪いことでもあるのか?」

「いえ、いえ、そういうわけではないのですが。お客様の元の人生、まぁつまりお客様ご自身の人生ですね、本来ならば時間をかけてそれを辻褄が合うように調整するのです。そもそも最初からいなかったようにしたり、または。今回はそういった細かい調整ができないので、かなり粗い改変となってしまうのです。それでもよろしければ、ご案内します」

「よくわからないが……、どうせこの人生は捨てるんだ。どうだっていい」

「かしこまりました。ではこちらに御署名を」

 スタッフが差し出した書類のサイン欄に名前を書き殴った。内容は全く目を通さなかったがどうでもよかった。これで、違う人生が始められるんだ。まずはなにをしよう? 稼ぎは十分あるんだ。今まで手が付けられなかったうんと高いワインでも飲もう。仕事は適当にこなして、終わらない分は部下に押し付けよう。独身なんだから、何の負い目もなく風俗にだって行けてしまう。 

 ああ、楽しみで楽しみでたまらない!


 バカだ! あのとき家族のことをもっと真剣に考えておけばよかった! 家に帰っていれば、元の人生を歩んでいれば、こんなに苦しくはなかった。そうに決まっている。あの後からしばらくは上手くいっていたんだ。予想の通り当選人生はとあるベンチャー企業の社長で、毎日が自由だった。帰りたいときに帰れたし、都会の喧騒を下に見ながら飲むワインは美味かった。仕事が終わらない部下を適当に怒鳴り散らせて、ストレスが溜まることもなかった。買ってよかった、逃げてよかった、こんなにも素晴らしい人生があるなんて、と浮かれている自分がいた。

 だが長く続かなかった! すぐに経営が傾いた。俺が適当な仕事をしていたからじゃない。そもそもその前からかなり危うい経営状態だったんだ。考えてもみれば、宝くじの景品に出されているような人生が完璧なわけがなかった。出品には本人の同意が必要で、つまりは行き詰ってしまった人生を丸投げできてしまうシステムだった。会社は俺がこの人生を始めて2ヶ月も持たずに倒産した。莫大な借金だけが残って、あっさりとアタリの人生は崩れ去った。

 俺が住むところもなく道端を彷徨っていると、向こうから妻が歩いてきた。ずいぶん羽振りのいい格好をしている。

「おい! なぁ、俺だよ! お前の夫だ! なぁ、助けてくれ! この前は悪かったからさ」

 男が藁にもすがる思いで妻の肩をつかむと、そんな夫に対して彼女はひどく戸惑った様子だったが、みるみる顔をゆがめた。

「何、言っているんです。うちの夫は数ヶ月前に交通事故で死にました。あなたが誰だか全く存じ上げませんが、やめてください。思い出すだけでも忌々しい。本当に死んでくれて清々しましたよ。おまけにローンは無効になったし、保険金で当分家計は安心ですから」

 

 結局俺の手元に残ったのは、今まで以上に苦しくどうしようもない人生だけだ。

 ああ、本当に、こんな人生もらわなきゃよかったんだ。



 ×当選人生を受け取らなかった場合

 

 男は後悔していた。激しく後悔していた。なぜ自分はあのとき、引換をやめた? 血迷っていた。何も考えず、宝くじ屋に駆け込んで、人生を変えてしまえばよかった。

 ああ、俺は一生この苦しみを抱えて生きていくのか。


 アタリ券を握りしめたまま、車で店があるショッピングモールに向かっていた。モールの外観が見えてきて、自然とこれから受け取る人生に胸が躍る。駐車場に車を止めて、モール内を歩いた。店はもうすぐそこだ。

 ふと、男の足が止まった。通路の真ん中で立ち尽くしてしまう。宝くじ屋の隣には時計修理の店がある。7年ほど前、あそこで妻からもらった腕時計を直してもらったことがあった。思い返せば、あのときは家族みんなでモールに遊びに来ていたんだったか。まだ息子も娘も小学生で、可愛かった。妻との関係も良好だった。なぜ上手くいっていたのか、今と何が違うんだ? 子どもたちは小学生といえど、流石に今よりも手がかかった。なんとなくまだ『子育て』の延長にあったころだ。あの頃、俺は今ほど仕事が忙しくなくて余裕があったんだ。家事の手伝いも良くしていた気がする。新築の家を買ったばかりだったが、子どもたちの学費はほとんどタダだったから、妻も自分の小遣い稼ぎ程度のパートしか入っていなかった。

 そうだ、余裕があったんだ。またあの頃に戻ることができたなら、この人生を捨てることなんてしなかったのに──

 いや、まてよ。考えろ。今の俺は本当に余裕がないのか? 仕事は本当に昔より忙しいのか? ほとんど毎日定時に退勤できている。土日に仕事が入ることはごく稀だ。娘に指摘された通り、朝食を食べながらのスマホは無意味なネットニュースを眺めているだけだ。やろうと思えば、庭の掃除だってさっさとできたはずだ。俺はどうにかこうにか理由をつけて、面倒なことから逃げていただけだったんだ。

 そもそもいつ俺はこのくじを買った? 二週間前の休日だったはずだ。そのときも家族四人でこのモールに来たじゃないか。昔と違って各々自由に行動したが、行きと帰りは俺が運転する車だった。それなりに会話もしたし、それなりに笑い合った。

 男は肩の力がふっと抜けるのを感じた。なんだ、まだまだ俺は、俺たちは家族としてやっていけるんじゃないか。軋轢はあるし、すぐさま円満家庭になれるわけでもない。けどだからと言って逃げるほどでもない。

 まずは夕飯の皿を片付けることから始めよう。その後は庭の掃除をしよう。いや、妻に謝るのが先か? 男は握りしめていたアタリ券を躊躇なく近場のごみ箱に捨てた。もはやただの紙屑だった。とりあえず、早く帰ろう。


 バカだ! あのとき家族のことなんて思い返さなければよかった! 家に帰らなければ、違う人生になっていれば、こんなに苦しくなかった。そうに決まっている。あの後からしばらくは上手くいっていたんだ。妻に謝罪して、向こうからも謝罪をもらって、次の日には庭の掃除もしたし夕飯の皿だって水につけておいた。これからは家族に対して誠実に向き合おう、そんなことを思っている殊勝な自分がいた。

 だが長く続かなかった! 人間、そんなに簡単には変われなかった。一週間は我慢できたがその次の週からは面倒になった。だんだん家事の手伝いをしなくなったし皿を食卓に放置するようになった。それを妻にして指摘されても腹が立つだけになった。また妻は俺に冷たくなって、互いが互いを糾弾する無意味な口論ばかりするようになった。相変わらずローンは残っているし、毎日満員電車に乗って会社に行っている。給料は特に変わっていない。息子と娘の学費の支払いが始まる。

 

 結局俺の手元に残ったのは、今までと何も変わっていない平凡で苦しい人生だけだ。

 ああ、本当に、こんな人生さっさと捨ててしまえばよかったんだ。



結(起)


 男はある日思いついた。そうだ、もう一度宝くじを買えばいいじゃないか。今度は3枚と言わずもっとたくさん買えばいい。一回じゃ当たらなくたって、また買い続ければいつか当たる。一度当たったんだ、いつかまた当たるに決まってる。そうやって今度こそこのハズレの人生を捨ててやる。


 買わなきゃ。買わなきゃ変えられない。

 ああ! 誰のでもいいから、早く人生をくれ!


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