Ep.18 白い雪

「私はアシュリーじゃない」

 そう言ったはずの自分の声が、まるで知らない誰かの声の様に聞こえた。


 大丈夫だと、そう語り掛ける彼の声が心に染み、目から熱いものが流れた。


 * * *


 森の中をがむしゃらに走った。

 ただただ、走って、走って、走った。


 もうあそこには戻れない。あそこに私の居場所はない。


 生きたい気持ちと、自由になりたい気持ちと、逃げたい気持ちと、救いを求める気持ちと。いろんな気持ちがぐるぐると頭の中で回っていて、どうしていいかもわからなくなって、ただただ走った。


 こんな森の奥にまでも降り積もる雪は、世界を白く覆っていく。でもこの白さは、私の心の陰を覆ってはくれない。

 そのくせに森を覆い道を覆い、行く先をもわからなくしてしまう。でも行く当てがあるわけでもなかった。


 靴の代わりに巻き付けてあった襤褸ぼろ切れは、尖った枝から足を守ってはくれなくて。布に滲む血と突き刺す痛みで、走り続けていた足がようやく緩んだ。


 でも足を止める事はできなかった。痛む足を引きずって、ただただ歩いた。


 どこか遠くから、獣の声が聞こえた。

 いけない…… この血の臭いは夜の獣を呼んでしまう。

 でももう帰る家はない。前に進むしかない。



 ふと。

 目の前にある大木の根元に積もった雪が、不自然に盛り上がっている事に気が付いた。誘われるように膝を付き、雪をかき分けた。


 まず、凍った布が見えた。

 積もる雪を、さらにかき分けた。

 

 二つの、人だったものがそこにはあった。

 一つは大人の男性で、もう一つは男の子。親子だろうか。

 

 雪に隠されて凍った事で、獣にかじられずに済んだのだろう。

 すでに死んでいるというのに、子どもはそれでも立派な服を着て、肩から小さいバッグを下げている。穴だらけですすの匂いのする薄い服を着て、何も持たず、靴すら履いていない自分よりも、ずっと温かそうに幸せそうに見えた。


 だから、そのバッグを盗った。


 バッグに手を差し込むと、底が無いような不思議な感じがした。手に当たった何かを掴んで引き出すと、ずるりと凍っていない服が出てきた。


 大人が背負っていたバッグを漁ると、財布や金目の物と一緒に見覚えのあるカードが出てきた。

 これは…… 私の元に連れてこられた旅の者たちに見せられた事がある。何が書いてあるかは全く読めないが、大事なものなのだとそう言っていた。

 穴の開いていない服を着て、二人分のバッグを背負うと、遺体をそのままにしてまた前に進んだ。


 羽織った上着は、この雪の中には似つかわしくない薄手のものだったけれど、今までの服よりもずっとずっと暖かかったし、深めのフードで顔を隠せたので有り難かった。

 二人分のバッグは少し重かったけれど、何も持たずに彷徨さまよっていた時より、何かを持っているだけで安心できる気がした。これがあればなんとか生きていけるような、そんな気になった。


 ただ歩いて、歩いて、歩いて……

 広い道が見えたところで、意識は遠のいた。


 * * *


 ガタンと大きな揺れと共に、わずかに体が跳ねて目が覚めた。

 ガタゴトとリズム感のある音と、知らない人たちの話し声が聞こえる。すぅと息を吸うと、湿った木と埃の匂いがした。


 そっと目を開けると、どうやら馬車に乗せられているようだ。嗅いだ匂いは、荷台と自分にかけられた毛布のものだったらしい。

 目の前で座り込んでいたおばさんが、私に気が付いた。

「ああ、目が覚めて良かったよ。調子はどうだい?」

 優しくかけられたはずの言葉に、体がすくんだ。

 知らない人が怖かった。いいや、知らない人だからではない、自分以外の人が怖かった。


 じっと体を丸めて口を閉ざす私に、おばさんは一方的に話しかけた。私は道端で倒れて、雪に埋もれかけていたのだと。偶然に通りかかったこの馬車に拾われたらしい。

 名前は何か、どこから来たのか、大人と一緒ではないのかと、周りの大人たちに次々に尋ねられたが、ただ黙って首を横に振った。


「こんなに幼い子供が、雪の中で一人で倒れていたんだ。きっとつらい事があったのだろう」

 そっとしておいてあげようと、誰かが言ってくれた事で、私への追及は止んだ。



 馬車が町へ着くと、私をどうするかで大人たちが相談をはじめた。

 大人たちに、バッグに入っていたあのカードを見せると、冒険者の出入りする建物に連れて行かれた。


 私の住んでいた小屋よりもずっと広い部屋で、枯草の山よりもずっとふかふかな椅子に座らされた。

 やたらと体の大きい怖い顔のおじさんがどっかりと正面に座ると、何をされるかわからない怖さで体が強張った。

 怯えた私に気付いたのだろう。優しそうなおねえさんがおじさんを強い口調で立たせて席を代わり、おじさんは頭を掻きながら少し離れた席に座った。


 ここでもまた、おねえさんに名前や故郷を訊かれたが、その度に首を横に振った。自分の名を呼ばれた事は一度もない。自分の住んでいた森の名前も知らなかった。

 じっとうつむく私に、またおねえさんが優しく問いかける。

「お父さんは……?」

 黙って、また大きく首を横に振った。


「……そうか……」

 おじさんが、苦い顔をしてそっと呟いた。


「1週間前にこの町でクエストを受けた記録が見つかりました。宿に照会したところ、宿帳に彼の連れていた子どもの名前も書いてありました」

 部屋に入って来た男性が、そう言っておじさんに紙を渡した。それを読んだおじさんが、誰かの名前を読んだ。

 その日から、私はアシュリーになった。



 唯一の肉親を亡くした冒険者の子供という事になり、町の有力者の家に下働きとして預けられた。

 何年かすると、ここの大人たちも私に痛い事をするようになった。そんな体をしているお前がいけないんだと、そう口々に言われた。

 でもここでは少なくとも、温かい布団はあったし温かいご飯を食べる事ができた。

 あの頃の様に、冷たくて固い床で寝る必要もなければ、ゴミ捨て場を漁って見つけた固いカビたパンを齧る必要はない。それだけでも自分には十分だった。


 しかも初めて学校に行く事ができた。

 今まで文字を読んだことも書いた事も無かった。少ない数なら指を折りながら数える事が出来たけれど、複雑なものは無理だった。でもここでは色んな勉強をさせてもらえた。

 生きる為だった。ただ生きる為だけに、必死だった。


 学ぶうちに、世間の事を知るうちに、あの時の怖い顔のおじさんは冒険者ギルドのギルドマスターだと知った。

 あの時自分が持っていたのが冒険者カードだった事も知った。

 そして冒険者になれば、一人でも生きていける事を知った。

 そして…… 自分のされている痛い事が、何かを知った。


 ここにもずっとは居られない。

 15になってすぐに冒険者になり、その家を出た。


 * * *


 それから、ずっと一人だった。

 誰かと一緒に居られるだなんて、考えた事もなかった。


 何度か、誰かと組んで依頼を受けた事はある。

 でも、大抵の男たちは依頼以外の目的で私に近づこうとした。

 人目につかない森に入れば、私の体に手を伸ばそうとする。

 もしくは依頼成功の祝いだと言って、交わす杯で私を潰そうとした。

 一人で依頼人の所に報告へ行き、その足で寝室に引きずり込まれた事もある。


 その度に払って、逃げて、逆に酔わせ潰そうとした。

 でも払う事も逃げる事も逆らう事もできず、諦めた事も少なくはなかった。


 こうでもしないと、私に生きるみちはないのだろうか。

 冒険者になれば、まっとうに生きていけると思ったのに……


 悔しかった。生きていける様に、ただがむしゃらに鍛錬を積み、強さを求めた。

 ただ、生きていきたかった。


 * * *


 彼の声が、私の名を呼んだ。


「私はけがれているんだ」

 そうだ。私は自分を穢す事でしか、生きる手段を持っていなかった。

「だから――」

 そう言い掛けた私の口を、彼の唇がふさいだ。


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(メモ)

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