Strangeness Undertaker

日向寺皐月

第1話 池女

 暑い、暑い。夏特有の突き刺さる光と、そして生臭い水の臭い。騒々しい蝉時雨に包まれ、フライパンの様なアスファルトを踏みしめる。全身をジットリと濡らすこれは、暑さ故の汗か。或いは――




「と言う訳で、今回のフィールドワークは君の実家の近くだ。よろしく頼むよ」

 夏季休暇が始まると同時に、その女はそう抜かした。俺は全力で拒否した……筈なのだが、気付くと横に座っていたのだ。しかも、ここは指定席なのに。

「新幹線は快適だねぇ」

「煩い。何で着いて来た」

「言っただろう?フィールドワークだよフィールドワーク。あ、次のお弁当取っておくれ。鶏だし巻きのやつだよ」

「あのなぁ……」

 俺は呆れながら、眼の前に山と積まれた駅弁の一つを、隣の良く食べる女に渡す。呆れた食欲と行動力だ。と言うか俺のテーブルだと思うのだが。

 この女の名前は、安堂燈子あんどうていこ。燈子と書いて、「ていこ」と読むらしい。珍しい読みだ。俺と同じ文学部だが、一体何を考えているか分かったものではない。普段から眠たげな瞳を丸眼鏡の奥に隠し、ボサボサの髪とやる気の無い表情が特徴的な奴だ。

 だが。そんな燈子が目を輝かせ、やる気を見せる事がある。それは妖怪や都市伝説等の、オカルトじみた事柄を調査する事だ。普段は洛中洛外関係無しに俺を連れ回し、フィールドワークと称して論文……と思しき怪文書を仕立て上げている。

 俺の名前は万上戒斗まんじょうかいと。何故かそんな女に振り回されている哀れな大学生だ。


―まもなく、掛川です。お出口は左側です―

「おや、そろそろらしいねぇ。早く支度をし給えよ。ほらこれ持って」

「煩いっちゅうの。と言うかお前のだろ」

「細かい男だねぇ。私の非力な細腕にそれを持たせるつもりかい?」

 そう言われ、俺はこの阿呆の食べたゴミを持たされた。何故俺が持たなきゃあならないのかは知らないが、持たないと機嫌が悪くなるので仕方無い。何で俺がコイツの機嫌を取らにゃならんのじゃ。

 そううだうだ言いながら、阿呆と共にホームへ降りる。暑い。それ以外の台詞が出て来ない位に暑い。田舎だからか蝉時雨が煩く、おまけにジメッとした空気が肌に纏わり付く。確かに洛中よりはマシだが、もう少し涼しくならないだろうか。

 ゴミをゴミ箱に押し込み、南口へ。駅から出ると、再び暑さが全身を襲う。クソ、今すぐ気温が20度位下がらないだろうか。と、阿呆が俺のシャツを後ろから引っ張った。

「戒斗君、少し待ってて貰っていいかい?」

「ん?何だ。トイレか?」

 そう聞くと、燈子は小さく頷いてデカいキャリーバッグを俺に押し付ける。重い。何が入ってるんだこれ。そしててってけ走って行ってしまった。全く、本当に俺に着いて来るつもりらしい。置いて先に行ってしまおうかとも思ったが、どうせあの手この手で俺の居場所を特定してくるだろう。俺は溜息を一つ付き、煙草を出して火を付けた。

「しっかし……マジで久々だなぁ……」

 前に帰って来たのはいつ以来だろう。生まれも育ちもここ掛川だった俺ではあるが、大学に入ってから帰った記憶がない。本当に久々だったので、少し安堵感もある。やはり地元は良い。そう思いながら紫煙を燻らせていると、後ろから声がした。

「お待たせしたねぇ。それでは行こうか」

「ん、待たせやがって――あれ?」

 振り返る……が、俺の知っている阿呆の姿は無い。奴め、俺を誂っているな……?

「何処に居るんだ阿呆」

「……君の目はビー玉か何かかい?眼の前だよ眼の前」

「眼の前ったって……」

 俺の眼の前に居るのは、こんな田舎に似つかわしく無いお嬢様だ。あのやる気と常識が欠落した狸女は何処にも見えない。と、眼の前のお嬢様が細腕を伸ばし、俺の頬を捻り上げた。

「って痛い痛い痛い!!」

「見えているのに気付かないふりとは……いい度胸しているじゃあないか……!」

 そうお嬢様――いや、燈子は言って手を離す。何て暴力的な女なんだ。と言うか。

「お前……馬子にも衣装だ痛ッ!!」

 今度は脛を蹴りやがった。しかし事実である。さっきまでのこの女は、何時ものボサボサの髪にやる気の無い丸眼鏡。しかし今眼の前に居るのは、サラサラした髪とフレームレスの眼鏡。お洒落さが全然違う。

「君の御両親に会うんだ。それなりの格好と言うものがあるだろう?ほら早く案内し給えよ」

「いや待て待て待て待て」

 会う?俺の両親に?これが??

「聞いてないぞ」

「言ってないからねぇ」

 そう言うなり、燈子は俺とキャリーバッグを引っ張ってタクシー乗り場に向かう。抵抗しようとしたが、全然通じない。この女の腕力はどうなってるんだ。そして俺とバッグをタクシーの後部座席に放り込み、何故か俺の実家の住所を運転手へ告げた。教えた記憶はない。

「おまっ……!何で知って――」

「九段坂君に聞いたのさ」

「あの野郎……ッ!!」

 俺はそう叫んで奴の顔にパンチしたが、元より幻覚なので虚しく宙を通過する。こんな奴に情報を売りやがって……!

 九段坂卓也くだんざかたくや。誰もが認めるイケメンにして、これ以上無い程モテる男。しかし嫌味な奴ではないので男からも人気があり、しかも金持ちで気前が良いと来ている。俺と幼馴染み……と言う程では無いが高校以来の友人……かも知れない。そして。俺が知る限り唯一の――

「流石私の"助手一号"だよ」

 唯一の、安藤燈子の元カレである。


「で、早速だが戒斗君。君の実家の近くに"田ヶ池"って池があるそうじゃあないか。そこについて教えて欲しいんだ」

「田ヶ池……?」

 確かに、そう言う名前の池はある。昔は本当は遊泳禁止だが、こっそり入っては遊んだりした。だが。

「あるにはあるが、お前が興味を示す様な場所じゃあ無いぞ。ごく普通の池で、怪談とか――」

「田ヶ池で怪談って言うと……あぁ、池女の話ですか?」

 俺が阿呆に答えていると、タクシーの運転手がそう口を挟んだ。途端に燈子の瞳に光が灯る。どうやら当たりらしい。何だそれ。

「今から何年前かなぁ……多分十年位前髪なんだけど、田ヶ池で小学生が溺れてたんですよ。で、死んじゃって。それはあの池に棲む池女の仕業だって噂になってね。まぁ、暫くはそんな噂だけだったんだけど……三年位前からかな、その池女を目撃したって話が出て来て話題になったりして。今でも私の孫……小学生になるんですけど、その池女を見たとか見ないとか」

「ほうほう……!」

 身を乗り出す阿呆を引っ張って席に座らせる。しかしまぁ、近所にそんな噂があったのか。初めて知った。

「お姉さん達、雑誌の記者さんとかかい?わざわざそんな所を調べるなんて奇特だねぇ」

 そう言って運転手は笑う。その通り、コイツは奇特な奴だ。そして、それに突き合わされる俺も。

「んで、それを調査するのは良いとして……どうして俺の親に会うつもりなんだ」

 俺がそう聞くと、呆れた様にこの女は溜息を付いた。

「君は単なる阿呆だと思っていたが……そこまで阿呆だとはねぇ」

「どう言う事だこの野郎」

「決まっているだろう?これはフィールドワークだ。つまりれっきとした研究で、費用はなるべく抑えなくっちゃあならないんだ」

「つまり」

「君ん家に泊まる」

 阿呆だ。阿呆だコイツは。

「……運転手さん、悪いけど駅前に戻ってくれません?この阿呆が勝手に泊まるとか言い出して」

「勝手に、じゃあ無いよ。私は既に御両親に一報入れているからねぇ。だから失礼が無い様に着替えたんだよ」

 尚悪いわ。




 そんなこんなでタクシーで二十分程。俺の実家に着くと、本当に連絡を入れていたらしく両親が揃って待っていた。そこであった一悶着は思い出したくもない。何があったのか知りたい諸兄におかれては、彼女と言うものを家に呼んだ事の無い男が女を実家に連れ込めばどうなるか、を想像して欲しい。恐らくそれが答えである。

 わちゃわちゃと騒がしい両親を追い出し、見た事無い程猫を被った燈子を客間に押し込んで暫くの後。俺は何も変わって居ない自分の部屋でベッドに寝転がっていた。滅茶苦茶疲れた。何だこれ。実家に帰ると言うイベントはこんなにも疲労するものなのか。

 クーラーの為に締め切っている室内でも、蝉の鳴き声が騒がしい。そう言えば夏休みはこんなもんだったな。そう思って居ると、スマホが鳴り出した。表示には元凶の男の名前が。

「やっほ〜、元気してる?」

「お前を殺す」

「お〜、怖い怖い」

 そう言って笑うのは、燈子に俺の家の住所と連絡先を教えた男。つまりは九段坂である。

「どう言うつもりだテメェ。情報漏洩は死刑だぞ」

「何処の軍隊だそれ。仕方無いだろ、教えなきゃ僕ん家のプリンを全部食べ尽くすって言うんだから」

 俺の情報はプリン以下なのか。

「で、どうよ」

「お陰様で一悶着あったぞ阿呆」

「あっはっは、そりゃ良かった」

 良くねぇ。全然良くねぇ。

「で……何の電話なんだ」

「いや、楽しんでるかなって」

「楽しんでる風に思えるか?」

「うん。声のテンション高いし」

 思わず枕を投げてしまった。んな訳あるか。あの安堂燈子だぞ。

「ま、それは冗談でね。どうよ調査の話は」

「まだ調査してない。と言うかそれもお前の差金か?」

「まぁね。面白い話は無いかって聞くから、ついさ。って言うか、お前知らなかったの?」

「……知らん」

 九段坂も知っていた……と言う事は、この辺りだとメジャーな怪談なのか。俺が知らなかっただけらしい。しかし近所の池なのに、俺だけ知らないとは……妙な話だ。

 そう思っていると。

「おーい、戒斗くぅん。そろそろ行こうじゃあないか」

 そんな事を言い、燈子がノックして来た。全く、もう少し休ませて欲しいのに。

 取り敢えず九段坂との通話を切り、服を軽く整えて外へ。そこには、期待に胸を膨らせまくっている表情の燈子が。そこまで調査したかったのか……


 問題の田ヶ池までは、歩いて数分。日差しがアスファルトに反射してクソ暑い。しかも、だ。

「……なぁ、何で俺がこの重すぎるキャリーバッグを運ばなくっちゃあならないんだ……?」

 俺は何故か燈子が持って来た、あのキャリーバッグを運ぶ羽目になっていた。

「決まっているだろう?私の細く貧弱なおててにそんな重いものを持たせるつもりかい?女の子はお砂糖とスパイスで出来ているんだよ」

「そんなの椎名林檎だけだろ。大体お前、駅まではこれ持って来痛ェ!!」

 また脚を蹴りやがった。と言うか本当に重いなこのキャリーバッグ。何が入ってるんだ。

「ん?おやおや」

 そんなこんなで田ヶ池展望デッキに到着する直前、俺より先に行っていた燈子が何かに気付いた様に階段を駆け降りた。おいこら、置いていくな。

 燈子の向かった先に居たのは、小学生高学年位の男の子だった。しゃがんで視線を合わせる燈子を前に、少年は帽子の下に緊張した表情を見せる。

「やぁ、少年。少し話を聞いても良いかな?」

「……あやしい人と話しちゃあいけないって言われてるからヤダ」

 おお、なんて賢い。燈子を一発で怪しい人だと見抜いた。大学だと見抜けない奴も多いのに。と、一瞬顔を強張らせた橙子は、ゴソゴソとポケットの中を漁る。

「そっかぁ……じゃあ、これで怪しくないだろう?」

 取り出したのは飴玉。まさかそんなものに騙される少年では「わぁい、お姉ちゃんありがとう!」騙された。騙されたぞこの少年。

「でもあやしさは消えないし、知らない人だから話はしないからね」

 そう少年は言って、燈子から掠め取った飴玉を舐める。なんて強かな少年だろう。なんだか小刻みにぷるぷるしている燈子が面白いので笑って居ると、少年は俺を見て少し首を傾げた。そして。

「あ!思い出した!万上さん家のデクノボーじゃん!」

 そんな風に叫びやがった。

「……ぷっ、あっはっはっはっ!!」

「よーしよーし良い度胸だクソガキ池に叩き落してやる」

 笑い転げる燈子を無視し、クソガキの頭を掴む。大人をからかうとどうなるか教えてやる。と、その顔にはなんだか見覚えがあった。

「デク……じゃなくて兄ちゃんわすれたの?まぁおれもわすれてたんだけど」

「……あ、もしかして斜向いの長野さん所の明人か?」

「そーそー!」

 何となく思い出して来た。俺が最後に見た時より身長も伸びてガタイも良くなり、何なら声変わりも一寸してるから分からなかった。

「んで、この変な姉ちゃんだれ?彼女……ではなさそうだね。デクノボーだし」

「おうこのクソガキまだ言うか」

 やっぱり一回くらい痛い目に合わせなきゃ駄目だこれ。そう思っていると、変なお姉ちゃん改め燈子が笑いを堪えながら明人に話し掛ける。

「なぁ少年。この池に出ると言う"池女"……何か聞いた事が無いかい?」

「お、兄ちゃんも池女見に来たの?」

 兄ちゃん"も"、と言う事は。

「明人、知ってるのか」

「当たり前じゃん。有名だよ、この辺りだとね」

「ほぉう。そうかいそうかい。では詳しく聞きたいねぇ」

 そう言うと、燈子はキャリーバッグを開けて折り畳み式の椅子やカメラ、謎の乳白色の板とかを取り出した。何だその板。石っぽく見えるが……まさか異常に重かったのはそれが原因か。と言うか。

「……燈子、お前……着替えは?」

「……………………忘れたねぇ」

 阿呆だ。コイツ本当に阿呆だ。俺は少し頭が痛くなる。と、燈子は気を取り直した様に録音機を取り出してスイッチを押した。

「で、少年。詳しく教えて欲しいな。君の知っている限りの事をね」

「まぁ、アメ玉の恩もあるし……しゃあ無いなぁ」

 このクソガキ……


 それから暫く。俺達は明人の話を聞いていた。聞いた限りだと、噂の出展は十年程前の事故の後で目撃情報は二〜三年程前から。池女の被害は全く無いが、夏のこの時期に目撃情報がよく出るらしい。姿は髪が異常に長くて顔が見えず、服装は恐らく白いワンピース。手が長くて緑色をしていて、出て来る時には生臭い水の臭いがする。そして。

「で、おれは池女を見に来たんだ。クラスでもヨースケとかコータとかが見たって言っててさ」

「成程ねぇ」

 そう言って、燈子は録音機を仕舞った。その表情は楽しげで、こんな場所で無ければ普通に見える。

「所で君は、ここで泳ぎたいとか思ったりするかい?」

 燈子がそう聞くと、明人は全力で首を横に振った。

「いやだね。だって池女いるし」

「そうかいそうかい。偉い偉い」

 満足気にそう言い、燈子は明人の頭を撫でた。そしてデッキにカメラと白い板をセットする。三枚もあるその板は、置く度に重たい音がした。

「何してんだ?」

「ん?簡単だよ。結界を張っているんだ。多分、これが有効だと思って用意したのさ」

 コイツが一体何を考えているか分からないが、今までの経験上燈子の判断にミスは無い。と言う事は。

「…………本当に出るのか?」

「目撃情報がこうもあるんだ。用意はして損はない、だろう?取り敢えず暫く待とうじゃあ無いか」

「………………炎天下だぞ?」

 俺がそう聞き返すと、燈子は日傘を取り出して開いた。しかし俺達の分は無い。呆れた奴だ。とは言え、こうなった燈子を引き離すのは至難の業……と言うか不可能だ。なので。

「おい、明人。お前は帰れ。そうなったら、そこの阿呆は死んでも動かない」

「おれも見るまで帰らないからな」

 そう言うなり、燈子の日傘の影に潜り込む明人。全く、やれやれだ。

「分かった分かった。じゃあコンビニ行ってくるから欲しい物言え」

「戒斗君。私は麦茶で頼むよ」

「おれはコーラ!あ、兄ちゃんおれのチャリ使っていいよ!」

「はいはい」

 そう返して見ると、デッキの入口にそれなりに高そうなMTBが置いてあった。一丁前に良いのに乗りやがって。それを走らせて五分程でコンビニに。中はクーラーがしっかり効いていたので極楽の様だ。取り敢えず麦茶とコーラ、それからおにぎりやサンドイッチをカゴに入れて行く。

 それらを担いでまた五分。灼熱の蝉時雨を抜けて、二人の居るデッキに戻る。と、二人はずっと動かず池を見ていた。良くもまぁ、飽きもしないで。取り敢えず二人にご注文の品を渡し、俺はキャリーバッグを椅子代わりに座る。燈子が少し睨んできたが、買い出しをしたのは俺だ。これくらいしても罰は当たらないだろう。

 それから暫く。蝉の鳴き声と近くの工事の音以外は何の音もしない。風も吹かずに水面は穏やかだ。汗が滝の様に吹き出し、肌という肌が痛くて溜まらない。だが誰も喋る事無く、ただ黙って水面を見ている。そんな沈黙を破ったのは、燈子の呟きだった。

「……なぁ、少年。君は池女を見たことが無いんだったね?」

「うん。ダチには見たことあるやつがいるけどな!」

「じゃあ、出て来る時にどんな感じになったか聞いてるかい?」

「えっと……たしか、なぜかセミの声がしなくなって、なまぐさいニオイがして……」

 その刹那。あれだけ聞こえていた蝉の声が一瞬で聞こえなくなった。そして、生臭い水の臭いも。更に暑い筈なのに、冷たい水に入った様な感覚に包まれた。これは、俺も燈子も経験がある。つまり――

「――燈子!!」

「ああ、話したら出て来たみたいだねぇ」

 俺は立ち上がり、明人を後ろに。燈子は座ったままカメラを構え、満面の笑みを浮かべた。あぁ、あの顔。あの顔に騙されて、何度酷い目に合わされた事か。

「来たよ、二人共」

 その声に合わせる様に、池の中程の水面が揺らめいた。それは徐々に此方に近付き、ゆっくりとその姿を表す。

「――ひっ」

 俺の後ろで、明人がそう声を上げた。無理もない。俺だって、こう言うものを初めて見た時は悲鳴を上げたのだ。情けない話だが、燈子が居なければ気絶して居ただろう。

「ふふっ、あはははは!見てご覧戒斗君!出て来たよ、お目当てが!!」

 楽しげに笑う燈子。その視線の先には、上半身を水面から持ち上げた怪異が居た。話に聞いていた通り、確かに池女と言う名前が相応しい見た目をしている。シャッター音が響くのは、燈子が撮りまくっているからだ。

 池女は此方を目指す様に、ゆっくりゆっくり近付いて来る。と、その長い長い髪の向こう。その奥にあるであろう瞳に――"見られた"。そう言う感じがしたのだ。全身が総毛立つ。だが、何だか視線を外し難くなって…………

「戒斗君。そこまでだ。君、魅入られたね?」

 そう言われて、俺は自分がかなり池に近付いていた事に気付いた。あの白い板を踏み、手摺へ身を預けている。止めてくれなければ池に落ちていただろう。

「……悪い」

「ふぅむ。興味深いな」

 燈子はそう言うなり、俺を剛腕で引き込んだ。その腕力なら、このキャリーバッグは持っていて欲しかった。

 えらく頭が痛むのは、果たして夏の暑さのせいなのか。池女はデッキのすぐ眼の前まで近付いた。生臭い水の臭いが強くなり、それだけでクラクラとしてくる。滅茶苦茶背が高い池女は、此方を睥睨する様に俺達を見渡した。そして、その長い腕を伸ばして――

「大丈夫、結界があるからね。珪藻土だよ。水をよく吸うんで、水に纏わる怪異除けになるんだ」

 デッキの此方側に、その腕は届かない。あの白い板――珪藻土を嫌がる様に、腕を引っ込めたのだ。そして此方を名残惜しげに見ると、そのまま沈みながら帰って行った。蝉が鳴き出したと同時に汗が吹き出す。それは暑さでは無く、寧ろ恐怖から来るもので。

 俺は思わずへたり込んだ。何回経験しても、消して慣れないこの恐怖。見れば明人も同じ様に座っていた。そりゃそうだ。あんなものを見せられて、元気な奴など――

「ふぅむ……興味深い。実に興味深いねぇ」

 居た。ここに。カメラを片付け、キャリーバッグに詰め込んでいる女が。その表情は思考中でありながら、あんな存在を見れたワクワクで一杯と言った所か。

「ほら、戒斗君。何を座っているんだい。早く手伝い給えよ」

「……はいはい、分かった分かった……」

 どうやら燈子には、恐怖と言う概念はないらしい。全く、やれやれだ。


 その日はそのまま家へ帰り、あの怪異の事を調べた。と言うか、写真からああでもないこうでもないと意見を言い合い、結果なんの成果も無いままに終わった。それはそうだ。なんせ資料が少な過ぎる。

「……どうにも、噂は昔からって訳じゃあ無いらしいね。本当に事故から後の様だ」

「その事故ってのは何時なんだよ」

 俺が聞くと、燈子はあり得ないものを見る目をしていた。

「君……近所なんだから知ってて当然じゃあ無いのかい?」

「覚えてる訳ねぇだろ阿呆」

 正確に何年前とか分かってるならいざ知らず、無作為に昔の記憶を引っ掻き回しても出て来る理由が無い。と、燈子はまた驚いた表情を見せる。そして手を口元に当て、俯き長らボソボソと小さく呟き出した。燈子の考える時の癖である。

 こうなると、基本何を話し掛けても通じない。面倒だが……まぁ良い。何時もの事だ。俺は何やら考えっぱなしの燈子を放置し、自室に帰ろうとした。と、背後から燈子の声が。

「……戒斗君。この近くに図書館はあるかい?調べたい事があってね」

「ん?あぁ、すぐそこに大東図書館がある。今日はもう閉まってるから、明日送ってやるよ」

「それは有り難い。後、君は一時までに掛川駅に行ってくれ給え。九段坂君に私の着替えと、それからまぁ……色々とね」

 なんだ。お使いか。とは言え、確かに車を回させるのは厄介だ。と言うか燈子が免許を持って居るとは思えない。

「ん、分かった分かった。お前を図書館に置いたら行ってきてやるよ」

 俺はそう言って、燈子の居る客間を後にした。一瞬映った燈子の顔が何かを言いたげだったが、まぁ気の所為だろう。


 その日。俺は夢の中で走っていた。暑い暑い夏の道を。なんだか見覚えのある道を走っていた。必死で、前回で。一体何なのか分からないが、飛び起きた俺は汗と涙に濡れていた。




 次の日。俺は親の車で燈子を図書館に送り、その足で駅に向かった。とは言え集合にはまだ早い。ので車を駐車場に停め、カフェで一服する事にした。

 暫く優雅な時間を過ごしていると、窓の外からノックの音が。見ると、ジャニーズに居そうな爽やかイケメンが笑顔を浮かべている。俺は無視してバーガーを食べた。と、そのイケメンは慌てた様に入口から入って来る。

「ちょいちょい、戒斗さんや。僕が見えてない感じ?」

 あー、このバーガー旨い。噛む度に肉汁が溢れ出る。別添のピクルスのまぁ良く合う事。

「もしもーし、もっしもーし!!戒斗さん!戒斗様!戒斗閣下!」

 ポテトはポテトで塩気と油がベスト。これ以上無い程にコーラとマッチして、食欲が進む進む。

「……無視するなら、お前の初恋の話を燈子にしちゃうぞ?」

「分かった。話をしよう」

 あんなクソ恥ずかしい話をされたら、恐らく一生ネタにされ続けてしまう。それだけは勘弁だ。

 と言う訳で眼の前に座るイケメンは、全ての元凶で俺の幼馴染である九段坂だ。ニコニコと爽やかな笑顔を浮かべ、俺を楽しげに見ている。と、眼の前に奴の注文のバーガーが置かれた。俺はそのトレーからポテトを奪い、むしゃむしゃと食べてやる。不満気な表情に変わったが、お前のせいでこんな目に合ったのだ。

「んで、持って来たんだろ?荷物」

「そうそう。はいこれ」

 そう言うと、九段坂は俺に背負っていたリュックを渡して来た。どうしてコイツが橙子の服を持って居るのか。それは橙子が大学に住み着いており、しかも九段坂の家に同棲していた……と言うか、今も帰るとたまに居るらしい。野良猫か。

「んでどうよ」

 九段坂はバーガーを上品に頬張りながら、笑顔でそう聞いてくる。イケメンは何しても映えるからお得だ。俺はコーラを飲み干し、氷を噛みながら答えた。

「そりゃお前、何時通りだ。相変わらずアイツが俺を振り回して――」

「あー、違う違う。お前だよ、戒斗。お前はどうなんだ?マジで覚えて無いの?」

「覚えて無い……って、何をだよ」

 そう言うと、九段坂は眉を顰めて眉間を揉んだ。

「…………あー、成程。そう言う感じかぁ……」

 そして溜息と共に、ソファへ身体を投げ出す。

「………………僕はさ、君とは高校からの幼馴染って訳だけと……」

「…………?」

 何を今更。

「……小学生の頃、近くの池で事故があったって言って無かった?」

「あぁ、言った。それが今回燈子が調査してる田ヶ池で――」

「じゃあ、もう一つ聞くけど」

 そう言うなり、九段坂は真面目な表情を浮かべて俺を見た。コイツも橙子と並ぶ位には頭が良い。だから何か分かったのかも知れない。

「何だ」

「お前、自分の小学生の時の卒業アルバムの集合写真、見せてくれたよな。覚えてるか?」

「それは――――ッ!!」

 その瞬間、俺の脳裏で答えが出た。暑い暑い夏のあの日。俺が全力で走っていた理由。あの夢の答えが――

 どうして忘れていたんだ、俺は。どうしてそんな重大な事を。どうして。

「悪い九段坂!俺、行ってくる!」

「うん、思い出したみたいだね。橙子によろしく」

 そう言う九段坂を置いて、俺は慌てて車に飛び乗る。そして、橙子が居る図書館に向かった。




「その顔……真相に辿り着いたって所かな」

 図書館に迎えに行くと、既に燈子は外で待っていた。

「……あぁ。九段坂に言われて思い出した。お前は何してたんだ」

「私は新聞のバックナンバーを調べていたよ。だがまぁ、ふぅむ…………やはり、彼の方が詳しかったねぇ」

 橙子はそう言いながら助手席に乗り込む。

「……俺が、覚えてさえいればだ」

「気にしなくて良い。それより、田ヶ池に行こうじゃあないか。全てを終わらせにね」

 終わらせに。つまり、燈子は全て分かっていたのだ。分かっていて、そして……"俺"が自分で思い出すのを待っていたのだ。そうしなければ、池女を"終わらせる"事が出来ないから。

 最初から簡単な話だったのだ。俺が小学生の頃、その事件が起きた。俺のクラスメイトが、田ヶ池で溺れたのだ。そして俺は、俺は――

「戒斗君、到着したよ。ほら、降り給え」

 橙子に揺さぶられて、俺は自分が田ヶ池公園に車を停めている事に気付いた。ぼんやりにも程がある。

「……悪い」

 車を降りると、ジメジメとした暑さが身体を包み込む。見ると、橙子は九段坂に渡されたバックを漁っていた。そして、ガチャガチャのカプセルに入った白い玉を見て、ニヤリと笑みを浮かべる。

「流石は九段坂君だ。私の要望通りのものを作ってくれた」

「何だよそれ」

「先ずは、君の話を聞かせて貰いたい」

 橙子はそう言って、池に面した手摺を背に俺を見る。その瞳は何時もの眠たげなものでは無く、力強いものだ。俺は頷き、口を開く。

「……俺は、ここで起こった事件を"知って"いる。いや、"当事者"だ」


 山口。そう、アイツの名前は山口啓太だ。六年生の時のクラスメイトで、俺の友達だった。今思い出した。

 俺達はあの日、暑いからとこの田ヶ池に来た。そして……入ったら駄目だと知って居たのに、この池で泳いだんだ……

 暫く泳いだ後、俺は家に忘れ物……そう、確か借りてたゲームを返す約束で、それを思い出して取りに帰ったんだ。山口はその時は、普通に泳いでいたのを覚えている。

 で……俺がここに戻って来た時に、山口は池の真ん中辺りで……その、溺れていたんだ。必死で手をバタつかせて……それで、俺は、俺は――――


「それで君は、大人を呼びに向かった……と。成程、概ね新聞の通りだね」

 そう橙子は言って、目を伏せた。あぁ、あぁ。なんて事をしたんだ、俺は。あの時、助けに池に入っていれば。

「俺は、アイツを見捨てた――」

「それは違うよ」

 橙子の鋭く、強い否定。それに殴られた俺は、思わず顔を上げる。その視線の先には、俺の目をしっかりと見据える橙子の瞳が。

「仮に。仮に君が助けに池に入ったとしよう。すると、新聞には死者二名と出ただろうさ。溺れた人間を助けるのは大人でも一苦労だ。子供なら尚更ね」

 そう言い、燈子は池の方を見る。凪いだ水面が鏡の様に輝き目に眩しい。気づけば、また蝉の声が聞こえなくなっていた。

「いいかい、確かにこれは君が池女発生のトリガーだ。だが、事故は君のせいじゃない。それは間違えたらいけないよ」

「でも……」

「池女の事を最初に言い出したのは自分だ、かな?それはその通り。でもね、その山口君が死んだ理由が池女と言う訳でも無ければ、山口君が池女になったと言う訳でもない。重要なのは、君が思い出したと言う事だよ」

 池の中心部。水面が盛り上がり、池女が顔を、身体を現す。池女の向かう先は、当然ここで。

「……俺が事件の事を思い出したら、何だって言うんだ」

「池女の目的は、何だと思う?」

 池女の目的。そんな事考えた事無かった。

「……食べる為に、誰かを引き摺り込む……?」

「いいや?違うね」

 燈子はそう言い、首を横に振る。そして、俺に向き直って答えた。

「"この池で泳がせない"事だよ」

「――え」

「聞いただろう?明人君の話を。"池女が怖いから泳がない"って。それが重要なんだ」

 確かに。確かに明人はそう言った。

「……まさか、怯えさせるのが目的……?」

「その通り。"一つ"はね。もう一つが、君にあの事故を覚えてて貰う事だ。君が覚えていれば、この池で泳ぐ危険を広められるだろう?だが、君はここ数年ここに来なかった。だから、君が言い出した"池女"をになって目撃させる事にしたんだよ」

 子供がこの田ヶ池で泳がない為に。あの事故を再び起こさない為に。そうか。だから俺を狙ったんだ。その恐怖を俺に思い出させる為に。

 燈子の真後ろまで近付いた池女は、俺をジッと見つめる。だが、見つめるだけ。何もして来ない。燈子を引き込む事も、俺に手を伸ばす事も。とすれば――

「だから。だから引導を渡せるのは、"君"だけだ。この池女と縁があり、そして池女を誰よりも知っている君が、引導を渡すんだよ」

 そう言うと燈子は、手にしていたあの白いカプセルを渡して来た。中身は少し粉っぽい。

「吸水ポリマーだ。それを圧縮して丸めてある。流石九段坂君。私の第一助手なだけあって、要望を全て叶えてくれたよ。いやぁ、持つべきは理工学系の友人だね」

「……これを、どうすれば」

「その特製吸水ボールを、池女に押し付ければ良い。池女は"水への恐怖"と言う概念から生まれた怪異だから、水を奪う事が弱点だ」

 成程、簡単だ。俺は柵へ近付いて、生臭い池女を見た。その髪の奥にある顔には、今どんな表情があるのか分からない。だが。

 池女は俺を見て、そしてゆっくりと頭を下げた。まるで、引導を自ら受け取るかの様に。コイツは、俺が事故を思い出したから役目を終えたのだ。

「……今までありがとう。それから、忘れてすまない」

 俺は手を伸ばし、カプセルに入った吸水ボールを池女の頭に押し付けた。その瞬間。池女が水面に光る太陽の様に輝いて、そして――

「……引導、渡せたじゃあないか」

 燈子はそう言って、俺の手の上で重さを増したカプセルを見る。俺はその言葉を聞き終えた辺りで、ふらりと倒れてしまった。

 俺の意識が飛ぶ直前、夏の暑さと蝉の声が俺を包んだ。あの夏の日と同じ様に――


 その後の話。

 俺は気付くと、自室のベッドに寝ていた。どうやら燈子は免許を持っていたらしい。若干気恥かしいさはあるが、正直有り難い。

 それから、俺は山口の墓参りに行った。何年も忘れて悪いと思いながら手を合わせる。隣に女を連れた俺を見て、アイツは何て言うか。それを考えたら、少し笑えた。

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Strangeness Undertaker 日向寺皐月 @S_Hyugaji

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