鬼ノ名

柴山ハチ

鬼ノ名

 緑の深い山の奥に、崩れかけたような古い屋敷が苔に覆われながら建っていた。夜の闇は深く、屋敷の部屋に置かれた行燈の灯りが窓から蛍の光のように光っている。それを目印にするかのように、一つの人影が音もなく屋敷に近づいていた。人影が一歩踏み出すと、周囲で鳴いていた虫のたちがぴたりと口を閉ざし、辺りが静寂に包まれていく。風で揺れる葉のざわめきだけが侵入者の来訪を告げていた。

 

 庭に面した障子が音を立てて外から開かれた。

 布団に横になっていた家主の草太は物音に気付いたのかかすかに身じろきすると、障子の方へ視線を向けた。

障子の隙間から覗かせたのは、赤い衣を纏い黒髪を垂らした美しい女だった。年齢は一見しただけでは分からないが肌は瑞々しく、伏し目がちな黒々とした瞳で部屋の様子を窺っている。家主が起き上がる気配がないと分かると障子を開き、衣擦れの音とともに敷かれた布団に擦り寄った。

 侵入者は草太の手を取り、脈を測った。

「おや、まだ死んでいませんね。ここの主人はそろそろ寿命だと聞いて伺ったのですが」

「誰だ」

 草太は掠れた声で尋ねた。

「名乗るほどのものでは」

 侵入者がうっすらとした笑みを浮かべてそう言うと、草太は顔を顰めた。

「なんだ、物取りか? ここには何もないぞ。あれ、お前……」

続けて言葉を紡ごうとするも、急な咳に苛まれ身を二つに折った。それをただ見下ろしている侵入者を見上げながら家主は息を整えた。じっと侵入者の頭上を見ると、息を吐いて震える声で言葉を紡いた。

「鬼か」

「えぇ。よく分かりましたね」

「角が生えている。それに歯が常人より鋭い。子どもの頃に一度、見たことがある」

「それは珍しい体験をしましたね。よくご無事で」

「危うく食われるところだったけどな」

 草太は力を振り絞り、布団の上に座った。浅く呼吸をしながら鬼を注意深く観察するように見ている。

「その日から、俺は鬼だけを描いてきた」

 鬼が見渡すと、部屋の中には至る所に紙が散乱しており、そのどれもが頭に角を生やしていた。

「酔狂なことで」

「訳がある。ところで、お前も俺を食べに来たのか」

「さて、どうでしょうね。暇を持て余しているだけかも知れません」

「死にかけの人間に構うほど鬼は暇なのか」

「我々は寿命が長いので。そうだ、その訳とやらを聞かせてはもらえませんか。夜は長い」

 鬼は手を伸ばして開いたままになっていた障子の隙間を閉ざした。行燈の火が揺らめき、部屋の中に二人分の影が揺れる。

 草太は膝の上に拳を置き、じっと鬼を見つめた。鬼は微笑をたたえ、沈黙を守っている。草太は最初緊張した面持ちだったが、襲ってくる様子がないとわかると、少し姿勢を崩し表情を和らげた。

「そんなに聞きたいのなら話そう」

全く立ち去る気配のない鬼に根負けしたのか、草太は遠くを見るような目つきをして話し始めた。

「あれは十数年前のことだった。俺はまだ子どもだったが、口減らしのため村から奉公先へ連れて行かれる途中だった。他にも同じように連れて行かれる子どもが何人かいた」

「よくある話ですね」

 肩から垂れ下がった髪をいじる鬼に草太は口を尖らせた。

「この先は珍しいと思うぞ。子ども連れでは一日に進める距離は知れている。道中、日が暮れてしまった。野宿することになったが、そこで鬼の集団と出会った」

 そこで草太は言葉を切った。眉間に皺を寄せ、無意識に膝の上に乗せた手が衣を掴む。

「大人は皆、鬼に食われた。子どもは見逃してくれるのかと思ったが、そうじゃなかった。連れて行かれたのは、鬼の住む屋敷だった」

「鬼の巣というやつでしょうね。基本鬼は単独行動を好みますが、一部の鬼はまとまって住むものたちがいるのです」

「そうだったのか」

「派手好きというか、宴が好きな鬼たちですね。夜な夜な酒の肴を探してうろついています」

「お前は?」

「一時期身を寄せたこともありましたが、肌に合いませんでした」

「確かにあんたは見たところ、宴好きと言った風情でもないな。ともかく俺たちは一つの部屋に入れられ、日が経つにつれ、一人、また一人と鬼に連れられ姿を消していった。食事や身の回りの世話はしてもらえたが、おそらく消えた仲間は食われたんだろうと怯えていた」

「人の子を攫うとしたら、まぁ、そうでしょうね」

「あぁ。そして、俺が最後の一人になった。俺は世話係の鬼の隙をついて、部屋から逃げ出した。でも屋敷は広くて逃げても逃げても同じような部屋が続いていた。そしてある部屋に入り込んだところで、別の鬼に見つかった。俺はきっと元の部屋に戻されるか、食われるんだろうと思った。だがその鬼は俺を逃してくれた」

「酔狂な鬼もいるものです。酔っていたのでしょうか」

「仮面をつけていて顔は見えなかったが、やつはこう言ったんだ。俺を見逃す代わりに、似姿を描いて我が名を世に広めろと。もし怠れば、お前を迎えに来て食ってやるとな」

「なるほど。名を恐れられるほど、我らは力を増しますからね」

「しかし顔が分からないのでは描きようがない。俺は想像で色んな顔を描いた。美しいもの、醜いもの、男、女、はたまた獣の顔」

「獣」

 鬼は笑った。

「それが一番近いのかもしれません」

「でも鬼は人型だ。やはり皆、お前のように人の顔をしているのか」

「見た目はそうかもしれませんが、その本性は獣ですから。人のように作物を育てたり商いをするわけでもなく、ただ奪うだけ。人を食うことで腹を満たし、いくばくかでも力を得ようとする生き物です」

 鬼は牙を剥き出して笑みを浮かべ、草太ににじりよった。草太は目を見開き、一瞬怯えたようなそぶりを見せたがぐっと堪え、鬼を見据えた。

「逃げないのですか」

「神が与えた最後の機会だ。これで本物の鬼を描くことができる」

 草太は鬼に土下座をした。

「頼む、お前を描かせてくれ。そうすれば亡骸はくれてやる」

 鬼は呆気にとられた顔で瞬きをした。

「そこまで頼むほどのことですか」

「俺にとっては大事なことなんだ」

 頭を下げる草太を見下ろしながら、鬼はため息をついた。

「わかりました。いいでしょう」

「本当か」

 ぱっと顔を上げた草太に鬼は渋々といった様子で頷いた。

「しばらくの間、この時間に来ることにします」

「助かる」

 草太は歯を見せて笑った。

「変わった御仁ですね。死にかけているというのに、そんなに絵が大事ですか」

「死にかけているから、何か残したいんだ」

「鬼には分からない感覚です。人よりも長い時間を生きる分、何かを成し遂げたければ己の生の中で完結できるものですから、後世に残そうという発想が薄いのかもしれません」

「そうなのか」

 草太は何かを考えるように腕を組んだ。

「なぁ、鬼にはどうすればなれる?」

「なろうと思ってなるものではないのです。気がつけば、そうなっていた」

「あと百年あれば、俺ももう少しましな絵が描ける気がしたんだが」

「産まれ直した方が早いでしょう」

「辛辣だな」

「転生は人の特権です。活かした方がいい」

「本当にそんなことできるなら、次はもう少し画才に恵まれたい」

「また鬼を描くつもりですか」

「どうだろうな、鬼は一生分描いた気がするからなぁ。大人しく観音様でも描いているのかも」

「あまり想像できませんね」

 鬼は笑った。

「では今日はそろそろお暇しましょう。また明日の夜」

「きっと来てくれ。待っている」

 草太の言葉を背に受け、鬼は夜の闇の中へ溶けていった。


鬼と草太は夜ごと語らった。語る内容は互いの来歴についてが多かったが、鬼は合いの手を入れる方が性に合っているのか、気づけば草太の方がいつもいくらか多めに話していた。その日の夜も、草太は紙に筆を走らせながら修行時代についての話をしていた。

「三年の間、俺は山に篭った。最初は絵を描くには体力作りからとかなんとか言われて、畑仕事ばかりやらされていたけどな。他の弟子もいたが、みんな次々にやめていった。それでも食いついて、師匠の描くとこを見て描き方を覚えたんだ。そしたら師匠も認めてくれて、ちょっとずつ教えてくれるようになった」

「それはよかったですね」

「師匠は厳しくて。全く遊ぶ時間なんてなかった。そんな中、俺は空いた時間に鬼の絵を練習した。けどな」

 草太はずいと鬼に詰め寄った。

「修業を終えて一番初めにもらったのは、観音様を描く仕事だった」

「描いたのですか」

「描こうと思えば描けたのかもしれない。でも俺は鬼を描くために絵を修行したんだ。そう言って俺は師匠の元を去った」

「その師と言うのも気の毒ですね」

「阿呆を抜かせ。描きたくないものなんて描けるか」

「仕事の中にはやりたくないことも含まれるものです」

「あいにくやりたいことだけやって今まで食えている」

「それが不思議なのです。どうして鬼の絵で生活が成り立っているのですか」

「俺の絵を気に入ってくれた金持ちがいてな。十枚描いたらそのうちの一枚くらいは買い取ってくれたから今日までなんとかやってこられた」

「なんともまぁ、割に合いませんね」

「割に合う仕事をしようと思うのなら、大人しく観音様でもなんでも描いてたさ」

 草太は筆を走らせながら鬼の方を見た。

「あんたは普段、何してるんだ? 見たところ暇そうだが」

「これでもなかなか忙しいのですよ。人を食ったり、他の鬼に出くわさないようにしたり」

「他の鬼に会うと不都合があるのか?」

「争いごとを避けるためです。それに鬼は一人でも生きていけますから」

「便利なものだな。いつから鬼になったんだ? やっぱり元々は人なのか? どんな風になるものなんだ?」

「鬼になった時のことはあまり覚えていません。ですがその後のことはよく覚えています」

 ぽつり、と鬼は言葉をこぼした。

「考えていたことは、とにかく腹が減った、それだけです」

「腹が減るのは辛いよな」

「えぇ。食べても食べても埋まることのない虚無感。それに一生苛まれるのが鬼なのです」

「虚無感、ねぇ。没頭できる趣味やらなんやらがあれば気が紛れるだろうが。話し相手になる仲間や友人はいないのか」

「知人はいますが、友と呼べるものはいないですね。鬼の巣で暮らしたこともありましたが追い出されました」

「じゃあ俺が友になってやろう」

「死にかけの人間風情が?」

「お前には十分だろ」

「ふふっ、心外ですね」

 鬼は楽しそうに笑った。

「そういえば、あなたに友はいないのですか」

「山に引きこもっていれば、自然と疎遠になる。師とも袂を分かった。普段人に会うのは駄賃を払って家のことをしてもらっている村の婆様くらいだな」

「友が必要なのはあなたの方では?」

「そうかもしれん。久しぶりにこんなに話をした」

「珍しくしおらしいですね。ずっとそうしててください」

「言っていろ」 

「絵の進み具合はどうですか」

「芳しくはない。けど進んではいる」

 丸めた失敗作と、卓の上に置かれた一枚の紙を指差した。

「白紙ではないですか」

「その裏には数多の習作がある」

 青年は卓の横に積み上がった紙を指差した。そのうちの一枚を取り上げて鬼はしげしげと眺める。

「これから傑作が生まれるんだ」

 得意げな草太に鬼は苦笑した。

「いつになることやら」

「そういえば、お前名はなんという」

「今までお前とだけ呼んでいたではないですか。それではご不満で?」

「違う。お前の名をこの絵の題名にするだけだ」

「私の名を?」

「これは思い出の中の鬼じゃない。目の前にいるお前を描いたものだ。お前の名がふさわしい」

「名乗るほどのものじゃありませんよ」

 鬼はゆるりと首を横に振った。


 二月ほど過ぎた日の夜、鬼が草太のもとを訪れるといつもは灯されている明かりが消えていた。真っ暗闇の中で、鬼は手探りで草太のもとへ近づいた。

「ソウタさん、寝ているのですか」

 鬼は草太の額に手を当てた。

「ひどい熱じゃないですか。水を汲んできますね」

 鬼が離れようとすると、縋るように草太は鬼の袖を掴んだ。けれど目は固く閉ざされており、草太の意識はない。

草太は熱に浮かされながら夢を見ていた。


 燃える松明に照らされた飛び散る血飛沫。まだ暖かい血を頭から浴びて草太は呆然と立ち尽くしていた。

「見ろ、子どももいるぞ。持って帰ろう」

「こんなご馳走にありつけるなんてな」

「今宵は宴だ」

牙を剥き出し、派手に着飾り仮面をつけた男や女が高笑いを上げながら、大人たちの首をへし折り、はらわたを引き摺り出している。その頭には皆一様に尖った角が生えている。

鬼だ。

草太は熱に浮かされたかのようにつぶやいた。鬼が、鬼がいる。

鬼たちはひとしきり殺戮を楽しむと逃げ惑ったり泣き喚く子どもたちを易々と捕まえ、自分達が乗ってきた荷車へと押し込んだ。荷車を引く大男の頭にも角が生えており、腕の血管を浮立たせながら森の中を引っ張っていった。

たどり着いた先は大きな屋敷だった。黒々とした森の中に佇む屋敷は所々傷んでいる。けれど中には明かりが灯り、楽しげな笑い声と音楽が聞こえていた。

「皆、土産がある! 人の子だ」

 荷車から降りた鬼たちは子どもたちを引っ捕らえ、中へと引きずっていく。屋敷の中では仮面をつけた大勢の鬼たちが酒を煽り、肉を食らっていた。

「人の子ですって」

「なんとまぁ」

「人の子の肉は久々だなぁ」

 口々に歓声をあげ、鬼は子どもを取り囲んだ。

「こんなにたくさん」

「一度に食うにはもったいないな」

「そうだ、分けて食おう」

「そうしよう」

 鬼たちはその場で見張り役を決めると、子どもたちを屋敷の奥へ連れ込んだ。通された先は広い座敷で、その真ん中で互いに身を寄せ合い子どもたちは怯えていた。

 やがて座敷の卓に宴のご馳走が運ばれてきた。

「まずは食え」

 鬼はそう言って料理を置くと、襖の向こうで仁王立ちをして子どもたちを見下ろした。初め恐る恐る卓を見ていた子どもたちは、鬼に凄まれ一人また一人と卓の上の料理に手をつけ始めた。

 草太は直前まで全く食欲はなかったが、皿を前にすると腹が鳴り、気がつくとかきこむように米を貪っていた。村での生活は貧しく、腹一杯食えたことがあったのかすら思い出せない。

 草太ははたと箸を止めた。卓の中央に置かれた大きな皿にはタレのかかった肉料理が盛られている。切り身の断面は赤く、完全には火が通っていないようだ。

 急な吐き気を覚え、草太はえづいた。箸を置き、廊下へ駆け出す。

「おい、お前どこへいく!」

 戸口に立っていた見張りの鬼が慌てたように草太の首根っこを掴んだ。

「厠へ行きたい」

 草太が青ざめた顔を向けると、鬼は舌打ちをした。

「こっちだ」

そのまま草太を引きずるようにして鬼は厠へ向かった。

「逃げようなんて考えるんじゃねえぞ」

 草太は黙って厠の扉を閉めた。移動するうちに吐き気は収まっていたが、今度は涙が溢れ出てきていた。

「うっ、うぅ」

 着物を噛んで嗚咽を殺しながら、鬼に食われた大人たちのことを思い出していた。鋭い爪と牙で引き裂かれ、湯気のたつ臓物を撒き散らしながら悲鳴をあげる光景。死体は赤い肉片へと変わり、鬼の腹に収められていった。きっと自分も同じ運命を辿るのだろう。

「おい、早くしろ」

 扉の向こうで痺れを切らした鬼が怒声を上げた。草太は震えながら顔を袖で拭い、扉を開けた。鼻を啜る草太に鬼は顔を顰めた。

「きったねえガキだな」

 鬼は再び草太の襟を掴むと引きずるようにして元の部屋まで運んだ。畳の上に草太を放り出すと、音を立てて襖を閉じる。

部屋の中の子どもたちの多くはまだご馳走に食らいついている。草太は部屋の隅の壁に寄りかかるようにして座り、膝を抱えて顔を伏せた。


 皆が食事を終えると、再び見張りの鬼に連れられて廊下をぞろぞろと歩いた。着いた先は石張りの床にたらいと桶がいくつか置かれた広い部屋で、たらいには並々と水が注がれていた。

「お前らここで身体を洗え。いいか、手抜くんじゃねえぞ。洗い終わったらそこの布で拭いて新しい衣に着替えろ」

 鬼の指差す先には布が乱雑に置かれており、その横には死装束のような真っ白な衣が積まれている。

「とっとと服を脱げ」

子どもたちはのろのろとたらいに向かい、服を脱いだ。桶で水を掬い体にかけたが、氷水のような冷たさに小さく悲鳴をあげるものもいた。

「ぐずぐずするな!」

 鬼が一括し、子どもの一人を掴むと頭からたらいに押し込んだ。水の中で声にならない悲鳴をあげながら子どもはもがいていたが、溺死する寸前で引き上げられた。

 顔を紫色に染め、咳き込み水を吐き出す子どもを遠巻きにしながら、他の子どもたちは冷水を浴びた。草太も心臓が止まるような思いで身体を洗い終わると、服を着替えた。


 夜、眠りにつく前になるとようやく気が緩んだのか、啜り泣く声が部屋の中に充満した。

「これからどうなると思う?」

「怖い」

「帰りたいよう」

「お母さん」

 口々に布団の中で囁きあい、嘆く声を聞きながら草太は必死に目を瞑った。これは夢だ。悪い夢なんだ。きっと目が覚めたら、俺はまだ家にいるんだ……。

 

 草太たちが連れてこられてから一月が経った。鬼は二、三日に一回部屋にやってきては子どもを一人選び、連れ出していった。一度部屋から出て帰ってきた者はいない。それが何を意味するのかは、皆口にせずとも分かっていた。

 豪華な食事でも、日に何度も出されれば珍しくはなくなる。草太は次第に食欲を無くし、ただ黙りこくって部屋の隅に寝転がっていた。それを見た鬼は死にかけていると思ったのか草太を連れて行くことはせず、比較的顔色の良い子どもを選んでは部屋の外へと連れ出した。やがて気がつくと部屋の中には草太一人だけになっていた。


 誰も帰ってこない。

 次は俺の番だ。


 草太はもはや涙も枯れ、嘆く気すら起こらなかった。よろよろと襖に近づき、寄りかかるようにして座った。外の物音は何も聞こえない。

静寂に身を委ねるうちに、底まで落ちた気力が、鞠が跳ね上がるように上がってくるのを感じた。

 見張りがいない?

 草太は襖を少し開き、廊下を見た。薄暗い廊下に人影はない。

 物音を立てないようにそっと襖の隙間を広げ、草太は廊下に出た。やはり鬼の姿はない。はやる心を抑えながら、忍足で廊下を進んだ。

 けれどいくらかも進まないうちに、先から話声が聞こえ始めた。その声は徐々に近づいてくる。

「あと何匹残ってるんだ?」

「確か、一匹かそこらだったかな」

「今月はよかったなぁ。あんなに一度に子どもが手に入ることなんてそうはない」

「毎月こうなら嬉しいんだがな」

 草太は震えながら手近にあった部屋の襖を開き、中に人影が見えないのを確認すると滑り込んだ。ピシャリと締めた襖の向こうを、いくつかの足音が通り過ぎていく。

 草太は廊下に戻る勇気が湧かず、部屋の向こう側の襖を開いた。そこは隣の部屋につづいており、畳が敷かれ卓が一つ置かれているだけで何もない。

 草太は隣の部屋へ続く襖を開いて前へ前へと進んだ。次々に部屋を開けたが誰もおらず、出口も見つからない。代わり映えのしない景色が続く中で、夢でも見ているのではないかと怪しんだとき、すぐ近くで物音が聞こえた。

 咄嗟に身構えると、卓の向こうで身体を起こす人影が見えた。面をつけているが頭の上に生えた角で鬼だと分かった。

 声もなく固まった草太にその鬼は尋ねた。

「お前は人間?」

 高くも低くもない、中性的な声が部屋に響く。

「そう、だけど」

 掠れる声を紡ぐ草太に鬼は首を傾げた。

「名前は」

「草太」

「ソウタというのですか」

 鬼は立ち上がり、草太に一歩近づいた。身体を覆うようにして肩にかけた布のせいで体格はわからないが、腰に剣を差しているのがちらりと見えた。

「良き名ですね。年は幾つですか?」

「七歳」

 草太はじりじりと後ずさりながら考えた。今すぐに走り出せば逃げられるだろうか?

いや、この距離だと間に合わない。 

「そうですか。今食えば肉は柔らかいでしょうが、もう少し大きくなってからの方が食いでがあって良いですね」

「俺、食べられるの」 

「鬼は人を食べるものです」

「ここから逃げたいんだ。お願い助けて」

 意を決して命乞いをする草太に、鬼は淡々と答えた。

「お前を逃したところで、私にはなんの益もない。それどころか、皆から非難されるでしょう。他人に何かを求めるなら、それ相応の対価を払うのが筋というものです」

 鬼は草太を上から下まで眺めた。

「とはいえ、お前は何も持っていなさそうですね」

 草太は自分の服の袖や懐に手を入れたが、何もなかった。仕方なく部屋の中を見渡すと、卓の上に紙と墨が置かれているのが目に入った。草太はそれに飛びつくと、紙に仮面をつけた鬼の姿を描いた。そしてまだ墨の乾かぬうちに紙を取り上げると、鬼に手渡した。

「これをくれるのですか」

「うん」

 紙に描かれた丸っこい姿は、鬼とは似ても似つかないものだった。

「ふふっ、あなたにはこんなふうに見えているのですか。本物より随分と愛らしい」

 鬼はひらひらと紙を振って墨を乾かせた。

「気に入りました。あなたを逃してあげましょう。ここは鬼の巣窟。人の子が居ていいものではない。早くお帰りなさい」

 その時、部屋の外を走り回る足音と話し声が聞こえてきた。

「こっちじゃないか」

「匂う、匂うぞ」

「人の匂いがする」

「さっき食べたやつのじゃないか?」

「いいや、新鮮な肉の匂いだ」

 青ざめた草太を鬼は手招いた。

「こちらへ」

 後ろ手に草太を隠すと、部屋の襖が開いた。

「おい、ここに人の子が来なかったか」

「今夜の酒のつまみにするつもりだったんだが、逃げられたんだ」

「とっ捕まえないと、宴が台無しだ」

「さぁ、ここには私しかいませんよ」

 草太は震える手で目の前の鬼の衣を掴んだ。

「でもこの部屋、人間臭いぞ」

 鬼が訝しげに部屋の中を覗った。

「お前、後ろを見せてみろ」

「いやです」

「さては独り占めする気だな」

「子どもをこっちによこせ」

迫り来る鬼たちから庇うように草太の前の鬼は一歩前へ出た。そして手を振ると、背後の襖が開き風が吹き込んだ。草太が振り返ると、その先は庭へと続いていた。

「行ってくださいソウタさん」

「でも」

 躊躇う草太の背中を鬼は押した。

「ではこうしましょう。もしこの恩に報いる気があるのなら、私の姿を描いてこの名を広めてください。それが私の糧になります」

「名前は?」

「セッキと申します。さぁ行って」

 草太は庭に走り出した。振り向くとセッキは剣を抜き、鬼たちと相対していた。



「ソウタさん、ソウタさん、いい加減手を離してください」

 草太が目を開くと、鬼が長い黒髪を垂らしながら顔を覗き込んでいた。

「うわっ、鬼だ」

 慌てて退く草太に呆れたように鬼が言った。

「そうです。私は鬼ですよ」

 周囲を見渡し、ようやく自分のいる場所を思い出した草太は深々と息を吸った。

「お前だったのか」

「お前か、ではないですよ。あなたがずっと私の袖を掴んでいるせいで、動けなかったんですからね」

 鬼は草太の手を振り払い、袖を引き抜いた。

「来たら明かりがついていなかったから、とうとうくたばったのかと思いました」

「まだ生きている」

 草太はうめいた。

「なぁ、頼みがある」

「叶えるかどうかは、話によりますね」

「俺が死んだら、全部燃やしてくれ。この家も、絵も」

「良いのですか。何かを残したいと言っていたではないですか。実は、私はあなたの描くものが好きなのですが」

「いや、やっぱり俺が納得いかない。俺が今まで描いたものは、あの鬼の姿にどれも似ていない」

「私は本物より上等に描けるのが絵のいいところだと思っています。いっそ似ていなくても良いのでは」

「そういうものか」

 草太は朦朧とした口調で呟いた。

「もう、手が上がらないんだ。描けない」

「きっと良くなります。そうだ、村で聞いたのですが裏山に病によく効く薬草があるそうで。私、採ってきますよ」

「いいや、無駄足になる。やめておけ」

 草太は指を伸ばし、そばに置かれた鬼の手に触れた。

「さっき名前を呼ぶ声で思い出した。お前、あの時の鬼だな?」 

 一瞬動きを止めた鬼は、首を傾げた。

「どうでしょうね。長く生きているせいか忘れっぽくて。それに鬼なんて、みんな似てますから」

「俺は病で絵が描けなくなる。それでわざわざ約束通り俺を食べに来たのか。律儀なやつ」

「そんなものはもうどうでもいいのです」

 鬼は苛立たしげに首を振った。

「すっかり食べ頃を逃してしまいましたし」

「そうだな。病に蝕まれた身体なんて、食べたら腹を壊しそうだ」

 鬼はため息をついた。

「律儀なのはどちらです。あんな子どもの頃の約束を守って、歩みやすい道を捨ててまで鬼を描き続けるなんて」

「やっぱりちゃんと覚えているじゃないか」

 草太はかすかに笑った。

「描いてないと、お前のことを忘れてしまいそうだったから。あの夜は夢だったのかと、何度も考えた」

 草太は鬼を見上げ、鬼の黒い瞳を覗き込んだ。

「セッキ」

 鬼は無言で応えた。

「お前の名だ。気づいたおかげで最後の絵に題名が付けられた」

「結局、あなたの絵はどれも同じ名になってしまいましたね」

「お前がここにきたのは、俺のことを覚えていたからか?」

「半分は。あれからしばらくは、正直言うとあなたのことを忘れて暮らしていました。人の子を逃したせいで仲間たちから逃げなくてはいけませんでしたし。ですが偶然、あなたの絵を見る機会があったのです。題名を尋ねると、私の名前がつけられていた」

 セッキはふふっと笑った。

「いやはや、あの絵は私に似ても似つきませんでしたけどね。一応鬼を描いたものということで興味を持ったのです」

「どの絵を見たのかは分からないが、確かに以前俺が描いたものは、どれも似ていない」

「まぁ、なんだか愛嬌があって可愛かったのですけど。それから麓の村で、あなたの話を聞いてここに来ました。セッキという名の鬼を描き続ける絵師が死にかけていると。その似姿は様々ですが、題名は全て同じだと聞きました。まさか本当に名前を広めてくれていたなんて思いもしませんでしたよ」

「力の足しになったか?」

「少しは。この数年、寝起きの悪い私の寝覚めがなぜか良かったのはそのせいかと」

「その程度か」

 草太は笑った。

「その、卓の上の巻物を取ってくれ」

「これですか」

 セッキが巻物を手に取ると、草太は頷いた。

「途中だが、お前の絵だ。最後まで話し相手になってくれただろう。礼がわりに持っていってくれ。必要なければ売りはらえ。酒代くらいにはなるだろう」

「いりません」

 鬼は卓に巻物を戻した。

「私、薬草を採りに行ってきます。明日またきますから」

「俺はもう描けない。だからお前は、ここに来る必要はない」

「ではこうしましょう。その絵の対価に薬草を採ってきます」

「そんなことしなくていい」

「強情ですね。そういえば、骸をくれる約束はどうなったんですか?」

「本当に要るのか? 俺の死体なんか不味そうだが」

「鬼は人を食らいます。死体でも新鮮なうちはそこそこの味です」

「そうか、腹の足しになるなら好きにしろ」

 草太は何か言いかけたが、諦めたように息を吐いて目を閉じた。

「俺はそろそろ寝る。じゃあなセッキ」

「そうですか。ではお暇します。おやすみなさい、ソウタさん」


 次の日の夜、月も真上から傾きかけた頃に障子がそっと開いた。冷気と共に、セッキが部屋に滑り込む。

「ソウタさん」

 暗闇でそっと呼ばれる名前。

「寝ているんですか」

セッキは草太の枕元に薬草を置いた。

「昨日話していた薬草が見つかりました。全くどこにあったと思います? とんでもない崖っぷちに生えていて、なかなか苦労したんですよ。ソウタさん?」


 セッキは草太の名前を呼び続けた。返事がないと見るや草太の方へ手を伸ばしたが、何かを恐れるように一瞬動きを止めた。そして壊れ物を扱うような仕草で草太の手首を掴む。草太の肌は冷たく、脈はすでになかった。

 しばらくセッキは身動きひとつせず、草太のそばに座っていた。

 やがて骸を前に、セッキは牙を剥いた。

 草太の力なき手を持ち上げ、ついこの間まで絵筆を握っていた白く細い指を一本、がりりとかじる。骨ごと噛み砕き、飲み込んだ。

「食いでがありませんね。すっかり痩せてしまって」

 セッキは頬を滴った滴を袖で拭った。

「もっと、肉がついているときに来ればよかったです」

血を舐め、肉を食う。骨を砕き、髄液を吸い上げた。草太は徐々に形をなくし、最後には血濡れの衣が残された。

 セッキは自分の衣で手についた血を拭い、卓の上に置かれた巻物を取り上げた。


 セッキは屋敷に火を放った。火はごうごうと燃え、黒い煙を吐き出しながら徐々に屋敷を包んでいった。開かれた障子の向こうには赤黒く染まった衣と布団が残されている。それらが火に飲み込まれるのを見届けると、セッキは巻物を広げ、火の灯りで照らされた絵を見て目を細めた。

「まだまだ完成には程遠いじゃないですか。これじゃ酒代にもならない。知っていますか、ソウタさん。人の魂は五十年経つと転生するそうです。早く帰ってきて、この絵を完成させてください」

 セッキは巻物の上にそっと指を滑らせた。

「あれだけ練習したんです。次生まれ変わるときには、もっと上手に描けますよ」

(了)

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鬼ノ名 柴山ハチ @shibayama_hachi

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