第35話 隠し子

 一瞬の隙を突き、澄空すかいが女から逃げ出した。

 脇目も振らずこっちに向かって走って来る。道路の上に膝をつき、その小さな体を両腕で受け止めた。

 パニックになって再び暴れようとする澄空の名を呼びなだめる。

 情けないことに、自分の膝もがくがくと震えていた。


「せんせー?」

 怖かったなとか、もう大丈夫とか言って安心させたかったのに、喉がからからで何も喋れなかった。

 とにかく、無事でよかった。怪我も無いようだ。


「離れろっ‼」


 聞き覚えのある声がして、同時に頭に何かがぶつけられた。澄空を連れて行こうとしていた女の巾着カゴだった。女は澄空から腕を引きはがそうとする。


「もうっ、離れろってば! 不審者! 離れろーっ‼」

 泣きそうになりながらも、カゴで執拗に殴ってくるのは髪を結いあげた浴衣姿の船渡川梓紗ふなとがわあずさだった。


「船渡川?」

「えっ、千葉先生……?」

 不審者だと思っていた人物が知り合いだとわかり、お互いに毒気を抜かれたような顔になった。


「うそーっ! 千葉先生来てるの⁉」

「千葉先生、久しぶり~」

 わらわらと集まってきたのは二年一組の生徒数名だった。黄色い声を発する彼女たちに囲まれたが、もう顔も名前もうろ覚えだ。


 全員、色とりどりの浴衣姿だった。髪には飾りをつけ、帯をしっかりと結んでいる。

 家を出るまでにさぞ時間が掛かったと思うが、きっと準備も含めて今日の花火を楽しんでいるのだろう。


「その男の子、先生の知ってる子……? 迷子になってたみたいだから本部に連れてってあげようと思ったんだけど、めっちゃ抵抗されちゃって」

 ぎゅうっとしがみついている澄空を船渡川が指さす。一悶着あったことを物語るように彼女の浴衣は乱れていた。

 相当な苦労を掛けたようだ。

「この子が澄空だよ」

 澄空を抱きかかえ立ち上がる。

「見つけてくれてありがとう、船渡川」

「じゃあ、その子がミイの……」


「えっ、野田ちゃんの隠し子って、その子だったのー?」

 溶けた氷の入ったカップを片手に彼女のクラスメイトが笑う。ショートカットの髪に無理やり飾りをつけている。

「相手が千葉先生ってことぉ? やばっ」

「……おまえらな」


 今すぐにでもこの場を離れたくなった。

 弟を待つ野田も心配だし、冗談とはいえ澄空にこんな話は聞かせられない。

 しかし、聞き捨てるわけにいかなかった。ただの元実習生だし、花火大会で浮かれているところを悪いとは思う。

 それにまた船渡川に「熱血教師気取り」なんて言われてしまうかもしれない。

 だが、彼女らは言っていいことと悪いことの分別をはっきりつけなくてはいけない年齢だ。


「いい加減にしなよ! 子どもの前で何言ってるかわかってんの?」

 船渡川がぴしゃりと叱った。学校の友達にそんな風に声を荒らげていいのかと、こちらのほうが心配になった。

「そ、そうだよね、ごめんね」

 後ろのほうにいた一人がすかさず謝る。しかし彼女は悪趣味な冗談に加担していなかったはずだ。


 一方で、「隠し子」という言葉を出して笑っていたクラスメイトは「梓紗だって隠し子の話してたじゃん」と食い下がる。

 諦め悪く涼真の漫画を音読する菊池の姿と重なった。

「言ってない。私はそんなこと言わない。くだらないなって思いながら聞いてたよ……」

 船渡川がぐっと拳を握りしめると、やっと皆が大人しくなった。


 友達に向かって躊躇なく「いい加減にしなよ」と声を上げられる目の前の元教え子を、心から尊敬した。


 俺だって、菊池に「いい加減にしろ」と言うべきだった。

 それなのにできなかった。


 菊池に向けられていた視線を今度は自分が浴びる気がして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。涼真が真剣に漫画家を目指していることを知っていたのに、ただ傍観していたのだ。


 血が逆流していく時のような音が鳴り響き、体を揺らす。閃光が頭上を埋め尽くした。事故でも起きたのかというほど花火が打ち上がっている。

「ミイのとこ行ってくるから、終わったら皆は先に帰ってて。千葉先生、案内してくれる?」

 ばつの悪そうな友人たちを残し、橋に分け入ろうとして船渡川は振り返った。

「あ、千葉先生とミイはただの再従兄妹なの。だから、変な噂立てないでよね」




 スターマインに大盛り上がりの見物客に何度もぶつかったが、もう誰も気にしていない様子だった。

「花火大会なんて気軽に来ちゃダメでしょ、『先生』は……」

 もみくちゃになり、船渡川に注意されながらやっと渡り切った頃、特大の花火が咲き誇り、そして儚く消えた。


「以上を持ちまして、第三十五回大花火大会を終了いたします……」

 アナウンスが流れ、満足そうなため息があちこちで上がる。

 堰を切ったみたいに人が大広場の方へ流れていく。

 メガホンを持つスタッフの声はがらがらで、何か言っているが聞き取ることができない。


 人の流れに逆らい、やっとたどり着いた河川敷は再び照明に照らされ、幾枚ものござが取り残されている。


 野田はござの上で膝を抱えて座り、少しも身動きせず弟を待っていた。

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