第27話 星の世界2

澄空すかいは子どもだけど、きっと色々なことを察してるんです。母が泊りがけでお見舞いに行っている日の夜、絶対におねしょするんですよ。わりと賢い子だから、本当は全部気付いてるのかもって思うこともあって。いつまでも隠し通すなんて、どのみち無理だったんです。……だから、大丈夫です。先生は何も悪くないです」


 野田はティッシュで目を押さえている。


「先生が美術館に付き合ってくれた日は、体調が落ち着いていて父も一時帰宅できたんです。だから家族でレストランに行けたんです。サプライズもしてくれて、店内に爆音でハッピーバースデーが流れて大きいケーキまで出てきて……。ちょっと恥ずかしかったけど、すごく幸せでした」


 彼女の口にする「幸せ」という言葉は、晴れ渡った夜空のような「幸せ」に聞こえた。


「周りからはなんの変哲も無い、絵に描いたような幸せな家族に見えたと思うんですけど、来年はこうやって四人で集まれるのかなって考えたら寂しくて、それから怖くて……。でも、こんな重い話、誰にも言えないじゃないですか。アズにだって、千葉先生にだって……。皆、優しいから。気を遣われたら、いやだから……」


 野田は嗚咽おえつをあげ、しばらくそのまま泣き続けた。


 思い悩んだ末、「つらかったな」と、ありきたりな言葉しか出せなかった。がらがらの声で「先生、すみませんでした」と野田が謝る。


「なんで謝るんだよ。俺でよかったら愚痴くらい聞くよ。また澄空を公園に連れていくし」

「でも先生は先生じゃないですか。頼るなんて」

「そうだな。俺はただの先生、じゃなくて元先生か。でもいいんだよ。先生でも友達でも通行人でも店員でも、誰でも。とにかく誰かに何か話せば少し気が楽になるんだから。いっぱいいっぱいになって爆発する前に誰かをつかまえて頼ったり愚痴ったりしな」

「……」

「ほらあんた、ここで全部吐き出しちゃいなさい。なんでも聞くわよ、あたし」

「なんでキャラ変わったんですか」


 頬を濡らした野田が薄っすら笑ってくれた。

 そして「そうですね」と考え込む。


「あっ、これ見てくださいよ。本当に腹が立ったんですけど」

 野田はスマホの画面を見せる。無残に中身の潰された口紅が映っていた。


「誕生日プレゼントで、両親からデパコスのリップを貰ったんです。ずっと前に私が欲しいって言ってたのをお母さんがちゃんと覚えててくれてて。なのに、澄空が勝手に持ち出して、これで点つなぎやろうとして、折れてほとんど使えなくなっちゃって。澄空にすごく怒ったんです、私」

「怒るよ、そりゃ」

「あ。あと、五月十日が澄空の誕生日だったんですけど、その日も怒ったんです。当日は母が仕事を休めなくて、『次の日曜日にお祝いしようね』って言ってたんです。でも澄空がどうしても誕生日当日にケーキを食べたいって言うから、スーパーでスポンジケーキとか生クリームとか、イチゴは無かったからキウイとかバナナとかをお小遣いで買って、簡単なやつを作ったんです。で、澄空がお手伝いのつもりで出来上がったケーキを一人で運ぼうとして、ひっくり返して食べられなくなって、『こんなの要らないから、ケーキ屋さんでチョコケーキ買って』ってぐずって……。私もめちゃくちゃむかついて、『いい加減にして』って怒鳴ったんです」


 地獄絵図を思い浮かべ苦笑した。


「その状況、俺も許す自信無いよ」

「……怒鳴ったら澄空がすごく悲しそうな顔して泣いちゃったんです。わんわん泣くんじゃなくて、部屋の隅で一人でしくしく泣き始めて。そんな泣き方は初めてで。澄空はまだ小さいのに、ただでさえ父と母に甘えられないのに、かわいそうなことをしちゃいました。反省してます」


 愚痴を聞き出すつもりだったのに、野田の口からは懺悔ざんげの言葉が漏れてくる。

 母親に対する鬱憤うっぷんだって溜まっているだろうに晴らそうとしない。


 あの学校で育った少女たちは皆こうなのだろうか。それとも野田の性分で、他人を責めるような言葉をなかなか言えないのだろうか。


 野田は優しすぎる。だから毎日弟のケアを続けていられるし、その反面、周りに助けを求められない。


「澄空のことはかわいいんですよ。私はずっと一人っ子だったから、弟が生まれてきてくれて本当に嬉しかったんです。それなのに優しくできない時があって自分が嫌いになりそうです。弟がいなければもっと勉強できたのになとか、部活できたのになとか、考えたくないのに考えちゃうんです」

「野田がいいお姉ちゃんだからそう思うんだよ」


 何故子どもがかわいいかというと、かわいくないと世話してもらえないからなんだと、母が言っていた。

 根拠の無い話だと思っていたけれど、姪っ子たちや澄空を見ているとあながち嘘ではないなという気もしてくる。


 子どもはかわいい。

 でも、子どもたちは、世話する人間の生命力をあっという間に奪ってしまう。「かわいいから大切にしなければ」と自分を洗脳しないとやっていけない。


 子どもたちが人間らしく育っていく一方で、世話する側は人間らしくいられなくなる。


 トイレに行けない。換気もできない。

 食事は好きなものを選べないし、よく噛んで食べられない。

 姉だって昔は一時間以上もメイクに時間を掛けていたのに、最近では眉毛だけ描いて出かけている。


 シエルとノエルが赤ちゃんの頃から、よく面倒を見ていたつもりだった。姉が忙しかったり体調が悪かったりした時だけで、月にたった数回程度。自分の生活を犠牲にしたことなんて一度もない。

 そんなもの、ただのおままごとでしかない。


 親に代わって育児をする野田の前で「姪の面倒を見ていたから子どもに慣れている」なんて豪語していた自分の口を塞ぎに過去に戻りたくなる。母に笑われるのも当然だ。


 でも、子どもはいつまでも子どもでいるわけではない。澄空もどんどん大きくなって、いつか一人で出かけて無事に帰ってくるようになる。

 そんな日が来る。


 その時、「野田海頼みらい」はどんな顔をして笑っているのだろう。


「いいお姉ちゃんじゃなくて、ただの『野田海頼』に戻れたら何がしたい?」

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