【奨励賞】真昼の星を結ぶ

ばやし せいず

第1章 内緒の子ども

第1話 噂

 手渡されたスケッチブックが白かったことを、責めないような大人になりたい。




 日光、笑い声、連続する打撃音に起こされて、最初に目にしたのは星柄のカーテンだった。

 クリーム色だったはずの生地はせ、今では灰色に変色してしまっている。


 子どもっぽいこのカーテンを買い替えるタイミングを逃したまま月日は過ぎ、気付けば俺も今年で二十二歳。次の春には通っている美大を卒業する予定だが、その先どうするのかは未定のまま。

 作家になれるような素質は無く、就活しているけれどまだ一つも内定を貰っていない。


 打撃音がますます大きくなってきた。

 この音の正体はわかっている。姪のシエルとノエルが自室のドアを激しくノックしているのだ。


「大地兄ちゃーん! 起きろーっ!」

「おい、ドアが壊れるだろうが! それと近所迷惑!」

「きゃはははっ!」


 逃げ去る双子たちの笑い声が酔いの残った頭に響く。

 二人の足音は一階の住人にまで届いているだろう。いつか苦情が来るのではと冷や冷やしてしまう。


 シエルは「虹美愛」、ノエルは「希美愛」と漢字をあてる。

 二人が生まれ、満を持して姉夫婦から名前が発表された時には「何がどうなったらそうなるんだ」と言葉を失った。

 しかし十年経った今では「それはそれでアリだな」という気がしているので、慣れって怖い。


 目覚めた時の体制のまま枕もとのスマホに手を伸ばす。

 時刻は朝の九時。確かにそろそろ起きた方がいい。

 上体を起こすと頭ががんがんと鳴った。


 「姪たちが泊まりに来る」と、母に昨晩言われていた気がするが飲み会帰りで酔っぱらっていたのでよく覚えていない。

 姉夫婦と子どもたちの暮らすマンションはここから徒歩五分の距離だ。

 それなのに彼女らはよく我が家に泊まりに来る。数か月前、シエルとノエルの下にもう一人生まれてからはさらに訪れる頻度が増した。


 ベッドから下りてカーテンを開ける。

 窓の向こうには、「絵の具を塗りたくっただけ」というような五月末の青空があった。

 奥行きが無い。この空をそのまま絵にしようものなら美大のお偉い教授様たちにこき下ろされてしまうだろう。

 眼下には複合遊具のある公園があるが、まだ誰の姿も見当たらない。


 換気しようとサッシに手を掛け思いとどまった。シエルとノエルが来ている間は窓を開けないようにと姉からきつく言われている。


 換気を諦めリビングへ向かい、ドアを開けるとエアコンの人工的な冷風と隣の国のアイドルの歌声が迎えてくれた。


「大地兄ちゃん、おはよ~!」

「おっそよ~!」

 流行りの音楽に合わせ二人は軽快に踊っている。おそろいのポニーテールが激しく揺れていた。

 ダイニングチェアには我が姉であり二人の母親である満里奈まりなが足を組んで座っている。

 彼女たちが来るとリビングが狭い。自分の家なのに居場所が無くなったように感じる。


「土曜の朝から起こすなよ」

「大地、シエルとノエルを送ってやって。商店街のとこの英会話教室まで。お迎えは私が行ける。夕方またここに戻ってきて泊まるからよろしく」

 テーブルに並べた化粧品を片付けながら姉は言う。

「なんで俺が」

「父さんと母さんは仕事で、私はニコルの予防接種に行かなきゃだから。ちゃんと二人のこと送りなさいよ」

 振り向きもせず、年の離れた姉は命令する。かわいい弟のことを小間使いか奴隷と勘違いしているらしい。


「アーウ」

 姉が身に着ける、高級な抱っこ紐の中に納まったニコルが愛らしい声を出した。三か月前にこの地球に誕生したばかりの赤ん坊だ。

 紅葉もみじに似たニコルの手を握りながら「注射を乗り切れますように」と祈る。

 ちなみにニコルは漢字で「笑美愛」。じきに慣れるだろう。


「あと、母さんが『カレー作っておいて』だって」

「あのなあ、忙しいんだよ。俺は」

「はー? 遊びほうけてるくせによく言えるね。昨日も飲み会だったんでしょ?」

「実習生たちと飲んでたんだよ。親睦会しんぼくかいだ、親睦会。遊びじゃねえの」

 姉は「実習生って?」と言ってやっと振り返った。


「教育実習中だって前に言っただろうが。俺のことは千葉先生と呼べ」

「大地、教師になんの?」

「それはわからん」

「何それ」


 実習の最初の一週間がやっと終わり、夜は親睦会に参加し、くたくたに疲れ切って体を休めていたところを姪たちに叩き起こされたのだ。

 母親として一言謝罪してほしかったが、姉はニコルを連れてさっさと小児科に出掛けてしまった。


「うちらもそろそろ行くよん!」

 シエルとノエルに強引に腕を引っ張られる。

「まだ着替えも済んでねえよ。ちょっと待ってなさい」

「大地兄ちゃーん、途中でジュース買って」

 満里奈の態度を間近で見ているせいか、最近では小学生の二人までこき使ってくるようになってしまった。




 せがまれるまま、マンションの出入り口の横に置かれた自動販売機で二人にジュースを買い与える。

 そして姉の言いつけ通り、近所の商店街のちょうど真ん中に建つ英会話教室まで送り届けた。


 我ながら甘い。

 自分の子どもではないけれど、二人がふにゃふにゃの新生児の頃から知っているからついつい甘やかしてしまう。

 「大地兄ちゃんってチョロいよね」なんて、陰で言い合っているに違いない。


 踵を返し商店街をさらに進む。

 タイルの敷かれた通路の両脇に店が並ぶこの商店街は、端から端まで歩くのに約十分かかる。完成したのは両親が生まれた頃で、全蓋式ぜんがいしきのアーケードはその少し後につけられたそうだ。

 買い物をする用事は無くても、最寄り駅まで向かうのに便利でほぼ毎日この商店街を通る。




 「大谷画材店」と書かれた看板を掲げる店に到着した。半分だけ開けられたシャッターをくぐり、店内にことわりもなく侵入する。


 油絵の具のチューブが美しく並べられた棚の前を通り奥のレジカウンターをのぞくと、エプロンを付けた金髪の青年が背を向けて座っていた。


「すみませえ~ん、画用紙くださあ~い」

「えっ」

 裏声で声を掛けると彼はぎくりと体をこわばらせ、そして振り返ってにやりと笑った。

 ヘアバンドで露わになった形の良い額がやけにつやを放っている。


「なんだよ大地、気持ちわりいなあ」

 通い慣れた「大谷画材店」の跡継ぎ、大谷涼真は右手で漫画を描く為のペンを握り、左手でベージュ色のクリームを顔中に塗りたくっていた。


 漫画を描きながら化粧するなんて相変わらず器用で感心する。

 手元の原稿用紙には、美大生である自分も息を呑むほどの魅力的なイラストが描かれていた。


「あー、でもこのキャラ、ちょっと関節おかしいな。骨折してんのか?」

「うるせえよ」

 整った顔をしているが、涼真も口が悪い。

 高校卒業後、漫画家になることを夢見ながらこの商店街の片隅で店番を手伝っている。デッサンの勉強さえすれば美大や芸大なんて一発で受かりそうだが、本人は興味が無いらしい。


「大地さあ、昨日送ってやった芸人の動画、観たのかよ?」

「観てない。教育実習中でそんな暇無い」

 動画サイトのURLが送られてきたことには気付いていたが、ゆっくり視聴している体力は残っていなかった。


「大地が教育実習ねえ。国語の黒崎ってまだいる? あいつに没収されたトーン用カッター、まだ返してもらってないんだけど」

「いや、俺らのいた高校じゃなくて、藤ヶ峰ふじがみねの高等部」


 実習先の学校は、実習生が自分自身で探さなければならない。特に理由が無ければ卒業した学校に申し込むのが通例だ。


 しかし、出身高校の美術教師は非常勤のため実習生を受け入れていなかった。

 中学にも電話を掛けたのだが、既に受け入れられる人数の枠が埋まってしまっているからと断られた。


 冷や汗をかきながら手当たり次第に電話を掛け、やっと受け入れてくれたのがお嬢様学校として地元で有名な藤ヶ峰女学園だった。

 幼稚園から短大までの一貫校で、通うのは全員女子だ。


 電話口で「実習先が見つからず困っている」とアピールしたら面接まで進み、なんとか実習の内諾ないだくを貰うことができた。

 藤ヶ峰は宗教校で、ミッション系というのかカトリック系というのかは知らないがさすがのいつくしみ深さだ。


 調子に乗って「慈悲深じひぶかいんですねえ」なんて言ってみたら、「慈悲は仏教の用語です」とシスターの先生が真顔で教えてくれた。


「女子校で教育実習って漫画みたいじゃん。羨ましいなあ、おい」

「それ、めちゃくちゃ言われるけどな、変な気起こす暇なんて無いんだよ」

 実習前こそ「血迷ってそういう気になってしまうのでは⁉」と思っていたが、そんなものは杞憂きゆうに終わった。


 実習は三週間と長きにわたる。

 最後まで首尾よく進めるために人間関係を築くことに必死で、漫画のような浮かれた展開を妄想する余裕すら無い。


 教授や先輩から脅されたとおり、やることも多くて忙しかった。

 一週目は授業を見学し、実習生向けの講義にも出席する必要がある。

 見学や講義が終われば逐一レポートにまとめて提出し、さらに同時進行で二週目以降に始まる授業の準備をしなければならない。


「みんな真面目で、ちょっとつまらないし」

 お嬢様学校と言っても、「ごきげんよう」と挨拶したり、語尾に「ですわ」を付けるような生徒は皆無。

 意外にノリのいい連中もいたが、少数だ。

 コミュニケーションを取ろうとして冗談を言っても、きょとんとされてしまうことが多々あった。

 それに、女の園で育ってきたために世間知らずなのか幼い印象もある。


 初日、担当する二年二組の教壇の上で「美大に通っています」と自己紹介をしたら、誰かに「美大って」と鼻で笑われた。


 他の実習生の一人が、「一組と二組はハイレベルコース、すなわち特進クラスでプライドが高い」と言っていたが、噂は本当だった。


 心の中で馬鹿にするのはいいけれど、態度に出すのはガキのやることだ。

 そう言ってやりたかったが、完全にアウェイだから苦笑いするしかなかった。


 先日も高等部の生徒たちがある噂で大いに盛り上がっていた。

 「二年三組の野田海頼みらいには隠し子がいる」というものだ。

 本気で信じているわけではないのだろうが、そんな眉唾な噂話に花を咲かせて喜んでいるようなあどけない子どもたちなのだ。

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