第9話:救国の神子

「はぁ……」


 夕闇に沈む高階邸。師忠にあてがわれた広い一室から庭を眺めて、海人はぼんやりと一日を振り返っていた。


 ――ここまで慌ただしすぎだろ……


 学校帰りに平安京へ飛ばされたかと思えば、いきなり満仲に襲われて気絶し、目を覚ましたらそのまま賀茂邸へ直行。過密スケジュールにもほどがあるし、一つひとつが重すぎる。

 そんな激動の一日を走り抜け、海人はヘロヘロだった。なにより――


「腹減った……」


 腹の虫がさきほどから鳴きやまない。それもそうだろう。海人が最後に食べたのは、昼休みに購買で買ったあんぱんだ。何時間前かよく分からない。彼の空腹は限界に達していた。

 そんな頃合いである。


「ん、この匂いは」


 どこからともなく漂ってきた匂い。馴染みのあるような、無いような匂いだ。ただ、食事であることは間違いない。そんな匂いは、海人の空腹にダイレクトに刺さった。唾液の分泌量が増えるのを自覚しながら、海人はおもむろにその匂いの発生源へと向かう。が――


「あれ?」


 匂いはすれども、炊事場は見当たらない。きょとんとした表情を浮かべる海人。


「どうかしましたか?」


「うぁおっ!?」


 またしても気配ゼロで背後を取っていた師忠。彼は不思議そうに首を傾げているが、海人からすればたまったものではない。


「し、心臓に悪いんでやめて下さいよ……」


「ふふ、すみません」


 師忠はいつものように穏やかな笑みを浮かべた。相変わらず得体の知れない、そこの知れないところのある人物である。

 そんな彼は、何かに気付いたような様子で口を開いた。


「ああ、夕餉ゆうげのことですか」


「しれっと心読まないでくださいよ……ん? これも契神術?」


「いえ。そんな顔でしたから」


「そ、そうですか……」


 異能などとは関係なしに心中を言い当てられ、少し驚きを浮かべる海人。


 ――てか、晩飯気にしてそうな顔ってなんだよ!


「…………って、あれ?」


 気付くと、いつの間にか夕食が並べられている。海人は訳が分からないといった表情で、ほくほくの炊き立てご飯を眺めた。


「この屋敷に炊事場はありませんからね。あるのは『表』の高階邸。料理はそこから送られてきたものです」


「お、表?」


「ふふ、色々と仕掛けがあるのですよ」


 ニコリと微笑む師忠。そのつかみどころのない態度に気おされ、海人はただ「はぁ……」と、どっちつかずの反応を返した。


「まあいいや」


 結局彼は炊事場の謎の追及を諦め、目の前の料理へと意識を移す。


 ――どことなく現代風だな。


 海人はそんな印象を抱く。歴史の教科書で見たような料理もあるが、澄まし汁、焼き魚など少々平安時代感のないものも混ざっている。さきほどの匂いも、よく考えれば昆布出汁の匂いだ。調味料などもいくらか時代が進んでいるらしい。

 とはいえ、食べなれたものなら大歓迎。


「では料理も出そろったようですし、頂きましょうか」


 師忠は穏やかな表情で告げる。海人は待ってましたとばかりに食い気味で頷いた。


 ▼△▼


「ごちそうさまでした。時代が違うとどんなだろうとは思っていたましたけど、普通に美味かったです!」


「それは結構なお言葉。家人に伝えておきましょう」


 空腹が満たされ、ご満悦の海人。

 ただ、心残りがなくもない。折角の機会だったにもかかわらず、師忠とはあまり会話を交わせなかったのだ。

 食事中に会話するという文化がないのかも知れない。聞きたいことが山ほどあっただけに悔やまれる。


 ――く、もう少し図々しい性格してればなぁ……


 後悔先に立たず。まあどうせ明日以降も機会はあるのだから、気長に夕食時の団欒という文化を導入していくこととしよう、そう海人は考えた。


 そんな折、ふと肌寒い風が吹き込んでくる。燭台の火が揺れ、海人は肩を震わせた。師忠は夜空に浮かぶ月を眺め、神妙な表情を浮かべている。


 彼は、不意に口を開いた。


「……神子様は、仁王丸から何かひどい言葉を掛けられませんでしたか?」


「はい?」


 突然の問いかけ。

 海人は困惑しつつも、仁王丸が投げかけてきた言葉を思い返す。


 ――貴方は自分が足手まといなのを自覚して、そこでじっとしていて下さい。

 ――馬鹿ですか……!

 ――なんで貴方はそんなに弱いんですかっ……!


「うっ!」


 仁王丸が発した罵倒の数々が脳内でリフレインした。その一つ一つで再び精神ダメージを食らいつつ、海人は引きつった笑みを浮かべる。


「……いや、まあ」


「そうですか……」


 師忠はそう呟くと、困ったような表情でため息をついた。さながら問題児に頭を悩ます先生のような態度に、海人はどこが親しみを覚える。だが――


「なっ!?」


 突然、師忠は跪いて頭を下げた。吞気なことを考えていた海人とは対照的な、深刻そうな表情。師忠は目を伏せたまま、苦し気に口を開く。


「……主人として、代わりに非礼をお詫びします」


 理解が追いつかず唖然とする海人に、師忠は重ねて頭を下げた。


「しかしどうか、彼女は許してやってはいただけませんか」


「えっ…………」


 海人に断る理由は無い。困惑しつつも、彼は首をゆっくり縦に振る。

 ただ、高位貴族である師忠が頭を下げてまで頼むようなことだ。訳があるに違いない。


 その時海人が思い出したのは、仁王丸が気を失う直前の、あの悲しそうで、辛そうで、苦しそうな表情だった。


「……何か、事情があるんですよね」


 そんな海人の問いかけに、師忠は静かに頷く。そして、俯きがちに沈痛な面持ちを浮かべた。


「彼女は、貴方に期待し過ぎていた。でも、仕方ありません。仁王丸にとって、貴方は最後の希望だった。私では駄目だったんです。『再臨』しか、彼女には残されていなかった……彼女が悲願を果たす望みは、貴方の他に無かったのです」


「仁王丸の……悲願……」


「ええ。十年前のあの夜――佐伯の一族が都と共に焼けた夜に、彼女が父から託された最期の言葉、その成就」


 そこで師忠は顔を上げ、少年の目を見据えた。


「仇敵『灼天しゃくてん神子みこ』、そして、全ての元凶『陽成院ようぜいいん派』を倒し、一族を再興する――それが、あの子の悲願です」


「陽成院……!?」


 思いもよらない人物の名に、少年は思わず言葉を返す。


 陽成院、すなわち陽成上皇。殿上で殺人を犯し、退位に追い込まれたと伝わる人物。彼は17歳で退位した後、優雅に余生を謳歌して八十歳まで生きた。少年の知識ではそうである。


 ――なんで、陽成院が……!?


 理解できないといった面持ちの彼を見て、師忠は「ああ、そうでした」と呟く。


「まだ、今の皇国の現状をお伝えしておりませんでしたね」


「皇国の、現状……?」


「今の皇国は、二つに割れている。平安京に座し、西国をしろしめす朱雀帝と摂政忠平ただひら公。そして、平城京に座し、東国をしろしめす陽成院とその皇子たち……この二大勢力が、二十と五年の間、皇国の正統な支配者の立場を巡って争っています」


「っ――!?」


 海人は絶句した。平行世界なら、多少歴史が違っていても当然――そんなことは分かっていたが、状況は海人の想像よりはるかに過酷だった。それに、当事者から語られる歴史は重みが違う。

 そんな海人に、師忠は諭すような口調で話を続けた。


「両者の力は拮抗していて、手を出せばお互いに計り知れない傷を負うことになる……そのため、十年前のあの日以降は実質休戦状態でした。でも、それは昨夜までの話」


「昨夜……まで?」


「ええ。貴方の存在が二大勢力の均衡を崩した」


「――!」


 追い打ちをかけるような師忠の言葉に、海人は目を見開く。これまで平穏に暮らしてきた十代の少年が背負うには、あまりに重たすぎる状況。

 何より、なぜ自分がそんな立場にいるのか全く分からない。

 だが、言葉を失ったままの海人に、師忠はなおも話し続ける。


「貴方は『再臨の神子』。皇国を真なる平安へと導く存在。彼女の悲願を果たし、この国を救う――それが出来るのは貴方だけです」


「ちょ、ちょっと待ってください! じ、事情は大体分かったけど……」


 ――何で、俺なんだ……俺に、ただの高校生に何が……


 しかし、有無を言わさぬ師忠の雰囲気に、彼はただ押し黙ることしか出来ない。海人は自信なさげに師忠から目を逸らし、視線を落とす。


「……」


 そんな折、再び吹いた秋風。師忠はふいに視線を夜空へと向け、一つ息を吐いた。


「……今宵はここらで良いでしょう。折角の望月、それをこんな重い話で曇らすなんて無粋でしたね」


 いつもの穏やかな笑みを取り戻し、師忠はそう告げる。

 そして、付け加えるように口を開いた。


「まあ、何も焦ることはありません。細かいことはいずれ分かります。貴方はただ、自然体でいれば良い。それで、万事上手くいきますから」


 夜空に浮かぶ満月。秋風に揺れる薄、虫の声。何処からともなく笛の音も聞こえてくる。そうやって夜は更けに更けていった。

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