喫茶同好会顧問の怖い話 その2

「そうか……君は過去を打ち明けたのか」


「はい……」


 生徒会に出すレポートを完成させた時には時間がかなり余っていた俺は、誰もいない所では「おじ様」と呼び親しんでいる、喫茶同好会顧問のエイブリング教諭にリチャードと言う人物に思い切って過去を打ち明けて拒絶した話をした。

 俺の前世を含む過去の全てを知っている訳ではないエイブリング教諭はしばらく考えた後、こう言った。


「コリー、私は君に幸せになって欲しい。その思いを理解しているかね?」


「はい、おじ様」


 俺は頷いた。エイブリング教諭はどうやら拒絶した事を良い風には捉えなかったようだった。


「君はジェームズといる時は実に幸せだった。私も君たちが仲睦まじい様子でいるのを見て誇らしく思っていたよ」


 だが、とエイブリング教諭は言った。


「酷な事を言うかもしれないが、コリー。君は少しジェームズに囚われ過ぎてはいないかね?彼を愛するあまり自ら籠の中の鳥でいようとしていると私は思う」


「仕方ありませんわ。リチャード様に関してはまたジェームズとの日々を過ごそうとする自分に逆戻りですもの」


「ふむ……」


 俺がそう言うとエイブリング教諭はまた考えていた。


「確かにコリーの話を聞けば、ジェームズと似ているだけで恋に走ろうとはせず踏みとどまっているようだ。それは自らの悲しみと切り分けて考えようとしているのだろうか」


 エイブリング教諭はそう言いながら誰もいない喫茶同好会内を見渡した。俺はトントンとレポートをまとめてカウンターに置いた。


「……人の愛情は良くも悪くも人を狂わせる。それはどんなに聡明な哲学者でも解明はできない」


 そして、時に愛は判断を鈍らせて人を迷いの森へと誘うのだ、とエイブリング教諭は店じまいを始めた俺に語り掛けた。


「そんな物語を一つ知っている。聞きたいかね?」


 俺は喫茶同好会の外に置いてある看板を仕舞うと、店じまいをする手を止めて振り返って言った。


「もちろんですわ、おじ様。是非お聞かせください」


「……君にとっては意地悪な内容になるかもしれないぞ?」


「構いませんわ」


 俺はエイブリング教諭の向かいに座ると、その問いにニコリと笑った。


「おじ様はいつだって意地悪じゃないですか」


 =================================


 マークは悲しみに暮れていた。彼は数年前に妻を亡くしていた。二人はとても愛し合っていたが、その別れは実に突然だった。

 後妻を迎える気になれなかったマークは、妻との結婚祝いに買ったロザリオのみを残して、家具を全て売り払い、心機一転するために思い出の詰まった家を、妻と長年住んだ家を離れて妻が産まれた遠くの村に引っ越した。


 その村を訪れたのは久しぶりだった。妻に連れられて来た時は可憐な妻には似合わないほど殺風景な風景が広がっていたからだ。そして再度訪れた今でもそのこざっぱりとした印象は拭えなかった。


 灰色の空が何処までも続き、その下にはベージュ色の野原にぽつぽつと家々が寂しく立っている。人が住んでいるにもかかわらず、聞こえてくるのはからすが遠くの空から鳴く声だけだった。


 妻の実家はもう人手に渡っていた。マークは弁護士に打ち合わせした通り、村の外れにある丘の上の小さな一軒家に引っ越す手筈を整えていた。


 そうして灰色の空の下、石畳の道をマークが乗った荷馬車が通っていた。


「お前さん、この先に行きなさるのかい?」


 ふいに横から話しかけられた。馬車を止めて声の方を向くとそこには石の塀ごしに一人の農夫が立っていた。マークは突然話しかけられた事に僅かに腹を立てたが、表情には出さずにニコリと微笑んだ。


「ええ、この丘の先にある一軒家に引っ越すんです」


 とマークが言うと農夫は顔をしかめた。


「なら急ぎなされ、もうすぐ雨が降る。こりゃあ大振りになりそうだ」


「ご親切にありがとうございます」


 農夫に頭を下げて先を急ごうとすると「それと」と呼び止められた。


「気を付けなされ。あの辺りには悪魔が棲んでいる」


「ハハハ、悪魔ですか。これまたご親切に」


 マークは少しイライラしながら農夫に今度こそ別れて、石畳みの上にて馬車を走らせた。


 マークを迎えた一軒家は小さいが中々に見事な二階建ての家だった。白い壁にレンガ色の屋根が掛かっている。ドアは一つに四つの窓が規則的に二列並んでいて、二階の窓には鉢が置けそうな金網があった。


 マークは農夫の警告に従って急いで荷解きを行った。契約によってワードローブやテーブル、ベッドなど大きな家具は既に先に備え付けてあると聞いていたので、マーク一人で引っ越しを行った。


 そうしてぽつぽつと雨が降り出した頃には、何とか引っ越しの作業を終えることが出来た。降り出した雨は豪雨となり、窓ガラスと屋根をざあざあと叩いた。


 その様を眺めていた時だった。マークが引っ越した家の傍にはぐるりと見渡せるほど小さな林が生えていた。その林の近くに誰かが立っている。


 いったい誰だろうか、この雨の中で傘も差さずに何をしているのだろうか。気になったマークは窓に張り付いて見てみる事にした。


 そして目を見開いた。そこにいたのは愛した亡き妻であった。


 妻は土砂降りの雨の中、こちらを見て微笑んでいた。マークが啞然としながら見ていると妻は荒れ狂う雨の中に立っていたが次第に雨の波にのまれてふっと消えてしまった。


 それから次の日、晴れた日の夜でも亡き妻はやって来た。林の傍でじっとこちらを見ている。マークがしばらく眺めているとふっと消える。

 そんな時間を惰性で過ごすことなど、マークは出来なかった。


 そうして次の日、再び現れた妻が林の傍で手招きしているのを見た時には我慢の限界を迎えていた。


 マークは夜中に家を飛び出した。妻はマークに手招きをしながら林の奥へと入っていった。


 それに続いて歩いていくと、川の側へと出てきたマークは信じられないものを見た。


 そこにはマークが妻と過ごした大切な大切な思い出の家が、捨ててきたはずの家が川の側に建っていた。外見も何もかもそっくりだった。


 その傍で亡き妻が微笑みながらこちらに手招きをしている。妻を深く愛していたマークは最早自分の意思とは関係なく、深い愛に操られるかのようにフラフラと妻のいる場所へと歩き出した。


 


 その時だった。マークの履いているズボンのポケットから激痛が走った。



 驚いたマークがポケットに手をやると、ポケットからはマークの血が付いたロザリオが出てきた。生前の妻と買った新婚祝いのロザリオだった。


 そしてマークは思い出した。


 今妻がいる場所に行けるはずがない。

 何故なら一昨日の大雨の影響でかさが増した川が、橋を押し流す程ごうごうと凄まじい勢いで流れていてたはずだった。


 ここらの川は水が増しやすい。だから近づくなと教えてくれたのは生前の妻だった。


 マークは川がごうごうと荒れ狂う音を聞きながら、静かに妻のいる方へと顔を向けた。



 そこに妻はいなかった。家もなかった。


 妻がいたところには、マークがこれまでがこちらを見ながら立っていた。



 ボロボロのワンピースを着ながら、濁流のうねる川の真ん中で。




 恐ろしい程の悪意がこもった笑みを浮かべて。



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「……コリー、君は悪魔を信じるかね?」


 話し終えた後、エイブリング教諭は紅茶を一啜りしてこう言った。


「悪魔の物語はよく知ってます。メルゼガリア出版が出してた『スペンサー教授の悪魔崇拝』はとても面白かったです」


「物語の中ではなく、それが現実に存在すると思った事はないかね?」


 そう話すエイブリング教諭の目は何処か真剣なようで、俺に対する憐れみも混ざっていた。


「私は……あんまり非現実的な存在は信じておりませんでした。あんなのただのでたらめでしょうって」


 ただ、と俺は付け加えた。


「つい最近では私の中で葛藤がありました、ジェームズがあんな事になってから。もう魔性のものでも良いからもう一度ジェームズと会いたいって」


 俺がそう言うとエイブリング教諭は何も言わずうんうんと憐れみの目線を強くした。


「おじ様がこの話をした理由が分かった気がします……要は悲しみを引きずりすぎるなと言う事でしょう?マークは妻を愛していた。愛して愛してやまないからこそ失った悲しみは強かった。ちょうど私のように」


 悪魔はそこに目を付ける。悪魔は狡猾で心が強い人はまず狙わず、悲しみで雨に打たれた子猫のようにボロボロに弱くなった人の心に優しく話しかけてくる。それはまるで教会のシスターのように映るだろう。

 そして、破滅の炎へと身を投じるのを今か今かと待ち受けるのだろう。


「なら対策は簡単で心を強く持っていれば良い。そうすれば目を付けられる事はない、それがこの話の教訓なのでしょう?」


 俺が話している間エイブリング教諭は肯定も否定もせずじっと俺を見ていたが、


「……悪魔はね、理不尽なのだよ」


 と、もう一度紅茶をすすってこう言った。


「この世には悲しみを背負う人間がごまんといる、それこそマークだけではないのに何故彼が川の悪魔に魅入られたと思う?」


 俺がその問いに答えられずにいるとエイブリング教諭は更に言った。


「本当に恐ろしい悪魔は狙う人間の品定めなどしない。するとしたらその悪魔は下っ端に過ぎない。善人も悪人も見境なく、そして理由もなく全て喰らいつくすのが悪魔だと思う」


 その行動原理は予測不可能だ。エイブリング教諭はそう言った。


「……では何故この話を私にしたのか分かりません。私に何を伝えたいのですか?」


 俺がそう問いかけるとエイブリング教諭はニコリと笑った。


「この話を聞いた者は決まって先ほどのコリーと同じ事を言うのだ。心を強くすればいい、と」


 俺はエイブリング教諭の言葉の真意を俺は掴めないままポカンとしていた。


「私はその言葉が聞きたかったのだ。君の口からそれを言うなら君は心の何処かで分かっているのだろう?心を強くせねばならないと、悲しみにいつまでも暮れてはいられないと」


「……」


「私は少し安心したよ。傷が癒えてないように見えても、君は前を向こうと努力している。君もその兆しが見えているのではないかね?」


 俺は手紙でリチャードを拒絶した事を思い出して何も言えなかった。リチャードとは別の道を歩むことでジェームズへの愛を貫こうとしたが、果たしてそれは前を向こうとしているのだろうか。

 俺が何か思い悩んでいるのを見てエイブリング教諭は言った。


「そう難しいことではないよ。君はこの喫茶同好会を楽しく運営している。初めは悲しみを慰めるつもりだったかもしれないが、いずれ君はここを運営する事自体が好きになるのではないかね?」


 そこでハッとした。俺自身、ジェームズとは関係なく喫茶同好会の喧騒がとても好きであった。訪れる人々、振る舞う飲み物やデザート、その全てに少しずつ愛着が芽生えてきていた。それを言わせたかったのだろうか。


 しばらく考えた俺はこう言った。


「やっぱり意地悪ですね……おじ様は」


「今に始まった事ではなかろう」


 ふと見ればティーカップの中が空になっていた。


「紅茶のおかわり、飲んでいかれますか?」


「ああ、頂くよ」


 そうして俺達は小さく笑い合った。

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