第二章 お茶くみ令嬢のうたた寝とパンケーキ

お茶くみ令嬢のうたた寝とパンケーキ

 その日、俺はその日の仕込みを終えて、厨房でぼうっとしていた。

 デズモンド公爵令嬢とスケフィントン侯爵令嬢は先日の皇族主催のパーティーで何やら一悶着あったらしく、それの処理に追われていて来ないし、レイバンとブルーノーは親睦(?)を深めるのに忙しい。

 レイラとエリサは買い物に出かけるそうだし、カルヴァン侯爵令嬢はダンスレッスンに行ってて、ローザはリバウンドしたらしく、『痩せる気あるんですか!』というメイドたちに引きずられて鬼のようなダイエット生活を送っているので喫茶同好会には来ない。


 つまり、常連たちは今日揃って席を外しているので、俺は今暇だ。

 他の生徒たちも入ってくる様子はないので、実質やる事が無い。そんな時俺は厨房の椅子に座ってレシピ本を読んだりするのだが、どのレシピ本も数百回は読みつくした。


 誰も来る気配がないので、オーブンの火元を消した。

 誰か来たらまた付け直せば良いかと思いながら、ゴミ捨てやらテーブル拭きやら何かをしていたが、とうとうする事がなくなった。

 厨房の椅子に座ってぼうっとしている間、開けている換気扇の音だけが空しく響いた。




 それからどれくらいの時間が経っただろうか。気付けば喫茶同好会の周りが静かになっていた。




 厨房から出て外を覗いても、廊下に人っ子一人いない。耳を傾けても何かが動く気配すらない。


 いつの間にか俺は完全なる無音の空間にいた。たまに誰も彼も音を立てない瞬間というのは訪れるが、こういう時は何をすべきか分からない。ただ、完全な無音の中に閉じ込められると不安で不安で仕方が無くなる。

 帝国学園は広いからすぐにまた何かが起こるだろう。そうすれば俺はこの静寂から解放される。きっとそうに違いない。俺は自分にそう言い聞かせて、しばらく息を潜めて待っていた。


 それから、どれくらい時間が経った頃だろうか。


 コツン…コツン…と向こうから足音がし始めた。


 俺は思わず椅子から立ち上がって、廊下に出てみたが廊下の奥にも誰もいなく、シンとした廊下に主のいない足音だけが響き渡っている。


 そうしてる間に足音がコツン…コツン…と徐々に近づいてくる。


 足音だけが響く誰もいない廊下をじっと見ているのも気味が悪く、俺は部室に戻って足音の主が過ぎ去るのを待った。


 しかし、現実は非情にも足音は俺の部室の前で立ち止まった。扉越しでも人の気配がするのを感じていた。俺の中にいつの間にか大きな恐怖心が芽生え、ハァハァと息が荒くなり、心臓が鼓動を早めていくのが分かった。


 そして、ぎぃっとドアがゆっくりと開いた。


 俺は恐怖におびえながら厨房で包丁を持って身構えた。



「すいません、やってますか?」



 ────その声は。


 その声は俺が今までに一番愛した人の声だった。俺が愛して愛して止まなくて、ずっと会いたかった人の声音だった。


「ジェームズ!」


 俺は厨房から飛び出した。半開きになったドアを開いて、最愛の人の胸に飛び込んだ。






 =================================


「…う様。…お嬢様。起きてください、お嬢様」


「…レディ・パウエル」


 生徒たちがそれぞれの家や寮に帰り始めていた頃、俺の肩を揺すっていたのはローリング家のメイド長のクリスタ・パウエルだった。

 俺は寝ぼけまなこで辺りを見渡したが、そこに最愛の人の姿はなかった。どうやらいつの間にか俺は厨房の椅子に座ったままうたた寝をしていたらしい。火を消して正解だった。

 レディ・パウエルは呆れたような表情で俺を見下ろしていた。


「お客様を前にうたた寝とは随分な店主ですね。火事にでもなったらどうするつもりだったんです」


「…すまない。懐かしい人と再会する夢を見ていたんだ」


 レディ・パウエルは元々俺専属の使用人で、年の離れた兄妹しかいない俺にとっては姉みたいな存在だった。

 彼女がメイド長になってからは、今は別のメイドが俺の専属の使用人になったが、前世の記憶もあって男みたいな過ごし方をしていた俺を一から矯正した実績もあって、今も変わらず俺の面倒を陰ながら見てくれているが相変わらず小言が多い。


「…ジェームズご子息ですか」


「…ああ。そこの扉から俺に会いに来てくれたんだ。うれしかったよ」


「こんなに時間が経った今でも忘れられないのですね」


「忘れられないさ。十年以上も一緒に過ごしたのだから」


 レディ・パウエルはハァとため息をついた。


「…分かっているかとは思いますが、こうしていつまでも庶民の店主ごっこ遊びに興じてはいられないのですよ?貴女もローリング家の一ご令嬢ですから、いつかはまた縁談が来るのですから」


「分かってはいるよ。まぁメイドの真似事をしているような俺を娶ってくれる殿方がいればだがね」


「貴族の婚姻に好き嫌いは関係ありません。決められた人とは必ず添い遂げる事が貴族の令嬢としての義務です」


 やいのやいの言うレディ・パウエルの言葉を聞きながら、俺は椅子から起き上がってうんと背伸びをすると、レディ・パウエルに聞いた。


「レディ・パウエル、何か食べていくか?」


「まったく…せっかく直したのにまたそんな口調で…結構です。旦那様と奥方様に頼まれて様子を見に来ただけですから」


「そう堅い事言いなさんなって…どうせ帝国学園まで来るのに何も食べてないんじゃないか?有り合わせの物で良ければ作るから、何か食べたい物あったら言ってよ」


「いえ、私は…」


 そう言ったタイミングで都合良くレディ・パウエルの腹がグゥと鳴った。


「失礼しました…本当に私は結構です。主に料理させる訳には行きません」


「そう言いなさんなって。帰りも何時間も掛かるんだし、喫茶同好会の研究として食ってってよ」


「…」


 レディ・パウエルはジト目でこちらを見ながら少し考えた後、再びため息を付いて、


「…ではパンケーキをお願いします」


 と言って渋々ながら席に着いた。俺は優しく微笑んでパンケーキを作り始めた。


 俺のパンケーキは少々特殊で、ただかき混ぜるだけとは違い、メレンゲを使って作るタイプだ。卵黄を泡立て器で混ぜ、牛乳、ふるった薄力粉を入れて混ぜる。

 その脇で卵白を勢い良く泡立てておく。途中、数回に分けて砂糖を加え、しっかりしたメレンゲを作る。

 メレンゲが出来たら材料をひとまとめにして生地は完成、後は焼けば出来上がりだ。


「この作り方を教えてくれたのもレディ・パウエルだよなぁ」


「パンケーキなら包丁も使いませんし、簡単に確実に教えられる料理ですから」


 喫茶同好会を立ち上げたいと提案した時、俺は色々なお茶菓子の料理方法をレディ・パウエル含むメイドたちに教えてもらったが、その中の一つがパンケーキだった。

 最初はお嬢様育ちという事もあって手先は不器用だったが、前世で取った杵柄もあってメイドたちが不思議がるほどスイスイと料理を覚えていった。


 オーブンに火をつけて、熱したフライパンにバターを敷く。火が弱火になったら様子を見ながらパンケーキを焼き上げる。

 俺は焼き上げたパンケーキを皿に移し、塩バターとシロップを添えてレディ・パウエルに差し出した。


「はい、お待ちどおさま」


「はぁ全く、お嬢様に料理してもらったなんて奥様には聞かせられませんわ」


「レディ・パウエルは小言ばかりだなぁ」


 まぁそれだけ俺のことを心配してくれているのかもしれないがね。


「ではいただきます」


 レディ・パウエルはそう言ってシロップを塩バターの上にかけた。透き通った琥珀色のシロップがパンケーキの上を踊っていく。ナイフで一欠けら切り取るとパクリと口に入れた。モグモグと嚙み締めるのをじっと見ていると、


「あまり人が食べているところをじっと見ないでください。はしたない」


 と怒られてしまった。


「そうは言っても暇なんだ。他にすることないから」


「でしたら皿を洗うなり片付けするなりしていてください。する事ないから客をじっと見つめるなんてもっての他ですわ」


「はいはい」


 言う通り皿でも洗うことにしよう。と言いながら横目でレディ・パウエルの様子を伺った。レディ・パウエルも今度は何も言わずに黙々とパンケーキを口に運んだ。


 レディ・パウエルの食べるリズムは単調だった。バターを一欠けら切り取ってパンケーキの上に乗せて食べる。残ったバターが溶けてきたら全体になじませて口に運ぶ、それだけだ。

 シロップが良く染みたパンケーキを食べているのを見ると、甘いシロップの蜜がじゅわりとパンケーキから染み出す食感を思い出して、思わず生唾を飲み込みたくなるがレディ・パウエルの手前我慢していた。


「ごちそうさまでした」


「お粗末様でした」


 レディ・パウエルは食べ終わるまで一言も美味いとも不味いとも言わなかった。俺が「どう?腕上がったでしょ」と聞くと一言だけ、


「焼きすぎで少し焦げてます」


 とだけ言った。相変わらず小言が多い。思い返せば料理を教えてもらっていた時も一度も彼女の口から美味しいという感想を聞いたことがなかったなぁ。


「…それでは今度こそ失礼いたします。今回の事、厨房でうたた寝してたこともきっちり旦那様方に報告させていただきます」


「ハハハ、お手柔らかにお願いするよ」


 俺が笑って受け流すと、レディ・パウエルは皿を俺に返して席を立ち、ドアノブに手をかけたところで立ち止まった。


「…お嬢様、ジェームズご子息がいない道もあるのですよ」


 その言葉に俺は少しだけ言葉に迷った。


「…分かってるさ」


 俺はなんて言葉を続ければ分からなかったが、たった一言だけ言える言葉があった。


「ありがとね。レディ・パウエル」


 俺がそう言うとレディ・パウエルは身をひるがえして去っていった。


 俺は今度こそ誰もいなくなった店内で、レディ・パウエルの言葉を反芻していた。

 最愛の人のいない道。

 俺が人生をかけて愛した人がいない道。

 そんな人をそう簡単に忘れられるのだろうか。いつかそんな日が来るのだろうか。


 いつの間にか暗くなっていた外から流れる夜風が、パンケーキの残り香を店の外へと運んだ。

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