第4話 ふたりぐらし
こがねが荒れていたときから一年が経った。
あののち、稲荷の狐が改心したということで、こがねが村人に受け入れられるのは早かった。
新右衛門はというと、まだ村にとどまっている。かれの立場で変わったことといえば、村長の屋敷の客分から、村の
空が白み始めるころ、かれは戸を開いた。
むっとこもっていた臭いが秋の朝の清爽な空気に入れ替わっていく。
――女は怖ろしいな、つくづく。
堂前に作った石の炉で火をおこし、汲み置きの水を大鍋で沸かす。そうしながら新右衛門はひしゃくを取り上げ、気色悪げに水で手をすすいだ。昨夜惣堂にもぐりこんできた若い娘の、汗をにじませた肉身の感触がまだてのひらに残っている気がしたのだった。
昔からこうであった。女を抱いたあと、新右衛門はその女のなにかに対して猛烈な嫌悪を覚えるのだ。ことに今回は格別で、わずかに吐き気さえもよおしていた。
――といっても、もう抱いてしまったからな。あの孕み女の求めるものを渡さねばならんか。
――こがねが採ってくる草のなかに、子堕ろし草があればいいが。
湯を沸かしながら、西の峰々に通じる山道のほうに視線を向ける。
ころころと車輪の回る音とともに、こがねが戻ってきたのはそれからすぐだった。
狐の姿のこがねが引き綱をくわえて
荷は、大量の薬草である。
「おや。あけびも採ってきたのか。ようやった、こがね。湯を沸かしてあるから使え」
狐の頭を撫でて台車にかがみこみ、新右衛門はそこに載った薬草を検分しはじめた。
薬効があるが、同時に毒草でもあるそれらの植物を新右衛門は選り分けていく。種類によっては湯にくぐらせたり天日に干したりといった加工をせねばならない。
――おお。あった、子堕ろし草。
堕胎の薬草を手にとり、新右衛門はしばし見つめた。
これをあの妊娠した女に渡せばいい。
『毎月きっちり来ていたものが来ないですからね。心当たりもあるし、子が出来たのはなんとなくわかるんですよ』自堕落な雰囲気をまとって、あの若い孕み女は暗く笑っていた。『でも、いま産んでもどうしようもないし……邪魔なだけですしね。何とか親にもばれてない今のうちに片付けたいんですよ、こっちはふた月先には湖北の村へ嫁ぐんですから。あなた最近薬草をあつめているでしょう、いらないものを流すための薬だってあるんでしょ? お代? 銭なんて家から持ち出せませんよ……でも払えるもので払いますよ、どうせこのうえあなたの子を孕む危険はないんだもの。うふふふふ――』
淫らな笑声が、耳朶の奥に残ってなめくじのようにうごめいている気がする。
ぴしゃりと耳元を叩いて幻聴をつぶし、醒めた気分で新右衛門は子堕ろし草をふところに突っ込んだ。
――残りの草は今回も、まずまずの値で売れそうじゃ。
これが現在の新右衛門の生業であった。
今日までを通じて、かれがこれほど成功したことはないといっていい。そこいらの農民と比べてさほど大きく稼いでいるわけではないが、食うにはまったく困らない。
――認めぬわけにはいかぬな。こがねのやつ、役に立つ。
助けになったのは、こがねの足と鼻だった。薬効のある種類の草をたちまち嗅ぎ分け、人が歩きにくい斜面ややぶの中でも軽々立ち入って、彼女はそれらをあつめてきてくれるのだ。
狐が夕方に台車を曳いて山へ行き、朝に戻ってきたときには、荷車には嗅ぎ分けられた薬草が山と積まれているというわけである。
「さて……惜しいがあけびは二つ三つ取っておいて、のこりは村長のところに持っていくか」
ひとりごちる。あまり利益を独占すると、
――以前は『悪狐を早く調伏しろ』と率先してせっついてきた奴らが、いまでは『村の神狐を召し使うな』じゃからの。寝ぼけた者どもよ。
あまり村内でうとんじられないように対策せねばならなかった。
もっとも、新右衛門は悪びれるつもりは一切ない。
――だいたいわしが命じたのではないわ。こがねのやつが自分からやっておることじゃ。
恩返しなのか、自分が役に立つことを示そうとしているのかはわからない。が、いずれにせよ受け取ることを遠慮する気はなかった。
もちろん感謝していないというのではないが……
「あんちゃ」
剣呑な声が聞こえて、新右衛門は顔を上げた。
腰まである髪をうしろで束ね、
湯浴み用のたらいに鍋の湯と
新右衛門は眉をひそめた。
「おい……湯浴みなら堂の土間でやれ。人の姿で裸を表にさらすな。村の
少し前までは、こがねは新右衛門が薬草の処理をしている横で湯浴みしていた。だが、村の若者が何人も用もないのに農具をかついで横を通り、熱い視線をちらちらと送っているのでやめさせたのである。
――そのうち堂内にこやつ目当ての夜這いが入りこんで来かねぬ。
――眉目が整っているのは狐が化けておるからじゃとわかっておろうに、まったく阿呆が多い。
化けたときのこがねの見た目は、遊び盛りの女童から嫁ぎごろの娘といっていい年齢へと急速に変わりつつある。
それとともに、人の娘相応に清潔さを気にするようになっている。薬草採りから戻ると体を清めるのが彼女の習慣だった。
新右衛門が朝から湯を沸かすという贅沢をして待っていたのも、それを知っているからである。かれはかれなりに、仕事の重要な相方であるこがねに対し、心づかいをしているつもりであった。
……が、その気配りが相手に通じているかはわからない。
「そんなことどうでもいい。おたきさんを連れこんだね」
こがねの眉は急角度にはねあがり、羞恥か激怒か、顔は朝焼け並みに赤くなっている。
狐の仔はこの一年、新右衛門や村人と接して暮らすうちに、笑顔以外の表情はそれなりに表わせるようになっていた。だがいま怒り顔に対峙するはめになっている新右衛門はそれを素直に喜べない。
「あのひとのにおいがお堂の壁にも床にも凄くしみついてる。あんちゃからもにおいが漂ってくる。あんちゃ汚い。気持ち悪い。あたしがいない間にねぐらで何やってるの」
おたきは、惣堂に昨夜入りこんできた娘の名である。
鼻の頭に汗がにじみ、新右衛門は目をそらしかけた。空気を入れ替えればもしかしたら気づかれずにすむかと期待したのだが、狐の鼻を見くびりすぎたようである。
「だ……黙れ。子供が関わる話ではないわ。いいか、他言すると承知せぬぞ」
開き直ると、桶に入っていた濡れた麻布が飛んできた。桶のほうを投げつけられなかっただけましかもしれない。
「あんちゃなんかあたしが摘んできた草を片っ端から食べて死んだらいい」
布につづいてかん高い声をかれにぶつけ、少女は走り去った。
「……幼いうちは可愛げがあったものを、育つほど生意気になりおって」
貼りついた麻布を顔からひきはがし、新右衛門は毒づくしかない。こがねの見せた拒否反応は、「ねぐら」に他の者の濃いにおいがしみついたことを
――若い娘というのは面倒なものじゃ。
ため息をつく。
――それでも、おたきのような女に育つよりはましじゃな。
――まったくこの末法の世では、狐娘より人の娘のほうが雌狐じみておるわ。
ふところに入れた草を押さえると、急に冷え冷えとした気分が戻ってきた。
おたきを抱いたのは、ただ情欲に流されてのことではない。あれは男を自分の魅力で
ただで薬草を渡すより、一度誘いに乗ってささやかな共犯者になってやるほうが、おたきは安堵するのだ。征服欲を満足させた以上、この先は速やかに新右衛門に興味を無くしていくだろう。
――が、そんな微妙なところをこがねに説明するわけにもな。
あれはまったくの子供だから、と新右衛門は決めつけて頭を掻いた。
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