16.自分で返せる範囲で

 その男は飲んだくれていた。

 魔法学園という大きな教育機関のあるこの島であるが、貧困層はろくに教育も受けられず、その結果低賃金の労働環境に身を置く場合も多く、この男と、男の勤めている町はずれの工場も、そうした生まれであり、そうした環境なのであった。

 運ばれてきた魔法機械の部品を一つの装置に組み立て、それを魔法機械メーカーに発送するのが工場の仕事であり、男は来る日も来る日も決まった部品を決まった個所にはめ込むだけの簡単な作業で、日々最低限生きているような有様だった。

 家庭も持てず、かといって慰めになる趣味が持てるでもない。

 自分で選んでもいない生き様で、日々に誇りも持てるわけがなく、給料を受け取ると時折こうしてアルコールを入れて、日々の鬱憤を晴らしていた。

 問題なのはこの男、酒癖と女癖がめっぽうよろしくなかった。

 ある程度酒が入ると箍が外れて大声を出し、酒場の若い女性店員や女性客に絡み始めるのだ。

 結果、この夜三軒目の酒場も蹴り出される羽目になっていた。

「ぁんだってんだ、ちくしゅめぇー……」

 畜生、という悪態すら満足に舌の回らない有様で、歓楽街をふらふらと歩く。

 足元がおぼつかず、視界が回る。

 ぐらり、と大きくバランスを崩したところで、その腕を小さな手が掴まえた。

「んぁ……?」

「もぅ、おじちゃん、あぶないなぁ」

 その人物は、フードとマントで顔と身体が見えないようにしていたが、子供のように背が低いのは間違いが無かった。声の感じからは、少女のように思える。

 この場にはこうした格好で顔や身分を悟らせないようにする人物は多くいたので、どこか良い家の娘が遊びに来ているのだろうと、気に留める者はいなかった。

「おじちゃん見てたら可哀そうだし、ね、こっちであそぼぉ?」

「ぃや、お、おいぃ……?」

 フードの下から無邪気な笑みを見せ、その少女は男の手を引いてご機嫌に歩き出す。アルコールで思い通りに身体に力が入らないものだから、転ばぬように運ぶ足で、少女の向かうままに、男は路地裏へ連れ込まれてしまった。

 子供には興味ないんだが……と言う余裕も持てず、そこで急激に強烈な眠気に襲われる。少女に腕を掴まれたまま、男は倒れこんだ。

「ほらほらルイズちゃん、これならルイズちゃんだって、簡単に送れるとおもうんだぁ♪」

 少女は、路地裏で待っていた、彼女より背の高い、もう一人のフードの少女にそう話しかける。

 話しかけたのはチャーム・ティアドロップで、話しかけられたのはルイズ・ココである。

「ぁー……いや、あたしは」

「先生が言ってたなぁ。なかなか人を『送れない』ときは、確りその人を『送る理由』を固めておくといい、って」

 チャームは倒れた男の顔を覗き込むと、手袋をはめたその指でその頬をやや乱暴につつき始める。起きる気配は全くない。、強制的に睡眠状態にしてしまっているためだ。

「この人言ってたよぉ。仕事がつまらない、給料が安い、生きていくのがつらいって。だからぁチャームたちで送って、解放してあげなきゃ」

「いや、でもそれは……!」

「もう、しょうがないなぁ、ルイズちゃんは。こんなの一人送っちゃえば、そのうち慣れちゃうと思うよ?」

 そう言うとチャームはマントの下で魔導書グリモアを抱え、利き手である左手に持った小杖ワンドの先を、男の心臓の辺りに置いた。

「ほら、こうすれば、この人も苦しくないしぃ、眠るよぅに混沌に落ちていくだけだから……」

 男の鼓動が弱まり、やがて止まる。呼吸音もしなくなると。チャームはにっこりと笑って顔を上げた。

「ねっ♪」

「……ごめん、あたし、帰る……」

 ルイズは震える手で口元を抑え、よろめきながら路地裏に背を向ける。チャームは小杖ワンドを仕舞うと、不思議そうな目でその背中を見ていた。

「ぅーん、駄目かぁ……それじゃ今度は、もっと悪いひとにした方がいいのかなぁ……?」

 呟いた少女の足元に転がる、その男にとっての人生の救いは、苦しまずに気づかずに、それが終わったという事だけであった。



 インクも無事完成し、あとは作業室の一角で写本製作を進めるのみとなっていた黒木真織は、教室の遠さから普段利用者の少ない、それ故に選んだ第四作業室の隅に、先客の姿を認めた。

「……あ、ココさん、どうも」

 この学園内でロサノアール魔法学園の黒い制服は非常に目立つものだから、顔を見なくても髪の色で、それがルイズ・ココであると、すぐに判別できた。

 何故顔が見えなかったかといえば、彼女が膝を抱えて座り込んでいて、その膝に顔を埋めていたためだ。

 真織は一瞬の躊躇の後、いつもの作業台に道具を広げて椅子に座り、定規類とペンを手に、下書き通りに魔導書を書き写し始めた。

 沈黙の中に、インクを付けたペンが紙の上をシャッシャッと走る音が響く。

「……ねえ、物理世界人マテリアン

「何?」

 ルイズが座り込んだまま発した低い声に、手を動かしながら生返事を返す。

「……他所よそに行くとか、『どうしたのー?』って絡んでくるとか、無いの?」

「んー……ここまで来て、また空いてるとこ探すのも面倒だし?」

「……いい性格だ、あんた」

「そうかな。ありがと」

「いや褒めてないからね!?」

 真織のあまりのとぼけた対応に、思わず顔を跳ね上げツッコミを入れるルイズ。

 その勢いに真織も手を止めて目を丸くするものだから、作業を止めてしまった罪悪感でルイズは再び声のトーンを落とした。

「あ、その……ごめん」

「ううん……ごめんね、話しかけていいか分かんなくて」

「いやぁ、普通に考えて、そりゃそうだわ。お迎えに来てくれたときにちょっと話しただけで、友達ってわけでもないし」

「私だったら、一人にして欲しいかなって思ったけど……私も作業したくてここに来たわけで」

「写本の課題?」

 ルイズはのろのろと立ち上がり、作業台の上を見た。市販の魔導書用特殊インクが何本かの中に、ラベルのない瓶が三本。

「……あんた、魔法世界こっちに来てそんなにしないはずだよね。何でインクの調合なんてやってるの」

「気になったし、面白そうだし」

「写本の課題って言ったら進級課題だよね? 時間無いの解ってる?」

「解ってるから、三種類だけにしたんだけど」

 不本意ながら、といった真織の言いように、ルイズは溜息をついた。

「あたしには随分余裕に見えるけど」

「それは、どうなんだろう」

 下書き通りにインクを紙上に載せ、乾くまで傍らの台の上で固定。別の頁に取り掛かろうとも思ったが、ルイズが珍しく話しかけてくるものだから、少しの間付き合うかと考え、ペン先を拭き取りながら、そう応える。

「最初、余裕なんて無いって思ったんだよね。時間もないし、どの魔導書グリモアを写せばいいのかも決まらないし」

「そっか」

「でもやりたい方向性決まったら、決まったこと順番に終わらせるだけだったし、今のところ余裕はあるといえるかも」

「やっぱり余裕なんじゃん」

「でもこれからまた、別の事やりたくなったら、それで余裕はなくなる。あと自分とは関係ないところで、何故かなくなったりするし」

 ルイズ・ココは神妙な顔で真織の言葉に耳を傾けながら、望まずにを奪われた、幼馴染の姿を思い浮かべていた。

「……あのさ」

「何?」

「自分じゃどうしようもなく余裕が無いってとき、あんたならどうする……?」

「んー……本当にどうしようもなければ、大体諦めちゃう、かな」

 真織はそう思案しながら口にすると、「諦めた分、他に余裕ができるし?」と苦笑いを見せた。憎たらしい相手とは言えどう返したものかと、ルイズは引きつった笑いを返すしか無い。

「仮に、手を貸してくれる人が居て、それでどうにかなりそうなら、借りるよ。但し、自分で返せる範囲で」

「返せる、範囲?」

「うん。借りた手の分、何か手伝ったりとかでね。誰かに返しきれない物背負しょっちゃうと、またそれで苦しくなって、あとで余計に余裕無くなったりするから」

 真織の言葉には色々と足りていない事がある。しかし、それ故に、自分ルイズの引き出しの中身でその穴を埋められる。

 自分達は自分で返しきれないもの、返しようがないものを背負おうとしていたし、互いにそれを背負わせようとしていた。それを本当に成してしまえば取り返しがつかないのだと、には毎回思い知らされた。

「……やっぱり、返せないと、駄目だよね」

「そう思った時には」

 真織のその懐かしむような視線は、窓の外、神秘マナの雲の、その向こうを見ているようだった。

「取り返しがつかないっていうのも、ある事だけどね」

 真織の言葉は。その横顔は。黒木真織が似たような気持ちを抱えているのかもしれないと、ルイズにそう思わせた。



 カレーライス。

 物質世界マテリアから流入したその料理は、香辛料や具材の一部を魔法世界マナリアの物に替え、このグラキエース島でも人気のメニューとなっていた。

 向こうの世界同様の家庭用ルウのパッケージが販売されていて、それを使えばお手軽なものだから、真織・アイラ・エウルが学生寮の調理場に集まっての料理会における最初のメニューは、一先ずそれに落ち着いた。

 この料理会は真織の食事が菓子パンやら即席食品やらに偏っているのに気づいたアイラとエウルが相談し、せめて週一回でもまともな食事を摂らせようと企画した物だった。

「たまねぎにコブシ芋と、トンガリと……お肉は何が良いかなぁ?」

「こっちのお肉事情はよく分からないけど、出来れば豚かな」

「豚肉なら普通に売ってるから、大丈夫よ」

 そんなわけで放課後、寮に帰る前に、三人は買い出しに来ていた。

 買い物バッグを手に、商店街を回る。肉も野菜も香辛料も、一先ずレシピにあるものは大概買い揃える事ができた。

「あれ、もしかしてアイラお嬢様かい?」

「お嬢様が直々にいらしたんじゃあ、サービスしないわけにはいかないねぇ」

「トンガリもう一袋、おまけしとくよ!」

 アイラ・グラキエースが学友と買い物に来ている、それだけで各売店がこの調子なものだから、買い物バッグは既にぱんぱんに膨れていて、用意したレシピの倍量のカレーが出来上がりそうな勢いだ。

 ちなみにトンガリとは、ほぼニンジンの事である。やや小さく、葉の形も違うので別種であるはずだが、おおよその形と味はニンジンと言って差し支えないものだ。

「アイラちゃん、凄い……」

「いや、お見事」

「みんな本当に、困ったものよね……」

 当のアイラは呆れたように嘆かわしげに、それでいて少し嬉しそうに、息を吐く。

 さて学生寮へ、と言ったところで、エウルが首を傾げた。

「あれ、チャームちゃん?」

 エウルの視線の先にはチャーム・ティアドロップが人ごみの中を歩いていた。学校が終わってそのまま来たのか、黒い制服を着たままだったから、すぐに判った。

「ほんとだ。ティアさんも買い物かな」

 そう思いつつも、真織はつい、彼女が行く先に視線を向ける。そこには歓楽街の入口に建てられた、大きく派手なゲートがあった。

「そうだわ、カレー、チャームさんにも手伝って貰わない?」

「アイラちゃん、ナイスアイデア! おーい、チャームちゃーん!」

 違和感を覚えた真織を他所に、エウル・セプテムが大きく手を振ると、チャームは一瞬驚いた表情をして見せた後、笑顔で真織たちの元へ駆け寄ってくるのだった。

「あれぇ、エウルちゃん、それにアイラちゃんにマオちゃんも! ほんとーに仲良しなんだねぇ」

「えへへー、仲良しなんですぅ」

「エウル、照れてないで用件、用件」

「あ、そだ。これからお料理会で、カレー作るんだけど、チャームちゃんも食べに来ない?」

「かれー!? 食べる、食べる!」

 エウルから話を聞くと、チャームは目を輝かせて食いついてくる。そしてちらりと先ほど向かっていた方を見やると「……今日はまあいっか」と呟いた。

「他に用があるなら、無理はしないでね」

「大丈夫だよぉマオちゃん! この街、まだ行ってないところ沢山あるから、たまに色々、歩いてみてるだけなんだぁ」

「そっか。それなら良かったけど」

 チャームの言葉を一先ず信じる事にして、真織は三人と共に、学生寮へと向かうのだった。

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