二章 魔法学園へようこそ

二章-1 入寮決定

 5.私なんかの名前

 魔法世界マナリアの朝は、ゆっくり回転している島のその地点が、およそ球状の神秘マナの雲塊とは反対側に出ることで、訪れる。

 雲塊の外側は日あるいは天陽と呼ばれる光に満たされているが、雲塊の内側は濃密な雲で光が遮られ暗くなることから、雲塊の外側を向くと昼、内側を向くと夜、という事になるのだ。

 それだけでなく、近接している島の街でも人が居住している面が異なって昼夜が逆転したり、移動周期や経路の関係で他の島で光が遮られ、「昼間の夜」なる時間帯が発生する島もあったりする、というややこしさだ。


 日の出が無いのもちょっと寂しい、と思いながら、黒木真織はぼんやり窓の外を眺めていた。

 このグラキエース邸は、グラキエース島の街の住宅街の中にある大きな敷地内に建っており、庭が広いことと少し高台にあることで、この客間からも光を浴びる街並みが良く見渡せる。

 使わせて貰った寝台ベッドと布団、それと寝間着はどうも上等な雰囲気で、軽くてふわふわで寝心地はよいのだが、中流家庭育ちの真織は落ち着かなさも感じてしまうのだった。


 送り手達を追い払った後、真織は飛び去ったふりをしてディモスを黒い穴の中に戻し、自身は丘の上に戻ってから、昔見た怪獣特撮の主人公のように何食わぬ顔で手を振ってみたのだが、アイラ・グラキエースを欺くことはできなかったようだ。

 白い魔装パラダインはディモスを見失うと青い魔装カエルラを抱えて街に戻ってしまったので、彼らと直接対面・対立せずに済んだのは良かったものの、事情も聞かずに向こうの世界に帰すわけには行かないとアイラに手を引かれ、一先ずこの屋敷で世話になる事になってしまった。


 朝起きて、しばしぼんやり。「あ、母さんには夕方には戻るって言ったんだっけ」と思い出して焦りが湧いた頃になって、その出入口の扉を叩く音がした。

「黒木さん、もう起きてる?」

 と声をかけたのは、真織をここに連れ込んだ張本人アイラである。

「うん、起きてるよ」

「入っても大丈夫かしら」

「大丈夫」

 かちゃ、と扉が開き、生地の良さそうな薄紫の私服に身を包んだアイラが、何やら紙袋を抱えて運び込む。

「おはよう、黒木さん」

「おはよう、氷川さん。……何、それ?」

「着替えよ。昨日、黒木さんが着替えた後、制服のサイズを参考に準備しておいたの」

「え、でも紙袋それってわざわざ買ったの? あの時間に?」

 真織は寝台ベッドから立ち上がって紙袋を受け取りながらも、驚いて思わず訊き返す。寝間着に着替えた時間と言えば、結構な夜更けである事を思い出したのだ。

 しかしアイラは事も無げに笑って見せた。

「まあ馴染の、無理の利くところがあるのよ」

「……納得だけど、何だかごめんね」

「此方の都合で居て貰ってるんだもの。それに寝間着で出歩くわけにはいかないでしょう?」

「出歩く予定、あるんだ」

 寝台ベッドに改めて座り、膝の上で紙袋を開けながら真織が言うと、アイラは申し訳なさそうに目を伏せる。

「今回の事態、私の判断だけで動かせないと思ったの。お父様は王都の式典で留守だし、兄様に会って、いろいろ話をしてもらう事になるわ」

「兄様?」

「学園長やってるんだけど、こういう時の領主代理でもあるのよ」

「なるほど、お偉いさんだ」

 話しながら、紙袋に入っていた、裾がフリルになった黒いスカートを両手で広げてみた真織は、悩まし気にそれを見つめた。

「……これ、私には可愛すぎない?」

「無理言って届けてもらった服よ。苦情は受け付けません」

 と、にべもないアイラだったが、続けて片目を瞑って笑う。

「でも、似合うと思うわよ? 黒木さん、可愛らしいもの」

「……ありがと」

 己の頬が熱くなるのを察知した黒木真織は、その黒い布に顔を埋めて隠し、小さな声で礼を述べた。


 着替えたら先ず朝食だというので、アイラが部屋の外で待っている間に着替えた真織だが、白いブラウスと黒のスカートが普段あまり着ない頼りない布地であることと、食事時に汚してしまいそうで、そわそわしながら食卓についていた。

 数人の女性の使用人が支度をしてくれているものだから余計に落ち着かず、真織の頭の中は(わ、メイドさんだぁ……)というのを繰り返していた。

「兄様に会う前に」

 と、そこでアイラが切り出すので、真織は背筋を伸ばして聞く姿勢を見せる。

「……一応確認なんだけど、送り手の一員、て事は無いのよね」

「ん、言われても仕方ないか」

 質問の内容を確認して、腕組みしてうんうんと頷く。

「でも正真正銘、私は向こうの出身で、向こうで育って、あの人たちの活動に参加したりはしてないよ」

「けれど、魔法世界マナリアの事は知っていた」

 落ち着いているが故にを感じるアイラの言葉に、真織は言葉を詰まらせた。それを説明する必要はあるだろう、とは思うものの。

「お兄さんにも話すんでしょ。その時じゃ、駄目かな」

 アイラにそうやって疑われている事は不思議と悲しくて、目を伏せる。他人からどう思われようと、としてきたはずなのに、その冷えた感情が、栓がしっかり締まっていない蛇口の如く漏れ出していた。

 その様子を観察するように、じっと真織を見つめるアイラだったが、不意に、その表情を緩めた。

「……まあいいわ。黒木さんの事、私は信じることにする」

「え」

 その言葉で、真織の腹の底に溜まってきていた、冷たい感情が引いていく。目を丸くして顔を上げた真織の視界に、アイラの笑顔が飛び込んだ。

「考えてみれば私が黒木さんに何かあるって感じて、連れてきて大丈夫って思って、それでここへ連れてきたんだもの。黒木さんが何者だろうと関係なかったわ」

「それは、まあ、いや、その……」

「私の直感は当たるのよ。だから例え本当に送り手だったとしても、黒木さんの味方をするし、送り手もやめさせる」

「ぇええ……そう、なるんだ……」

「私がすごーく、黒木さんを気に入ってるって事よ。何か不満でもある?」

 その笑顔からは、先ほどとはまた別種のを感じてしまう真織だったが、湧いてくる気持ちは、とても暖かなものだった。だから。

「不満なんて、そんな」

 嬉しくて、静かに微笑んで、首を振った。



 グラキエース魔法学園の日程スケジュールにおいて、その日は休日であったが、丸い金縁の眼鏡をかけた少女はその白い制服に身を包み、女子学生寮の外に出た。

 決して平日と間違えているわけではなく、緑化委員として学校敷地内の花壇の世話をするためだ。

 倉庫から必要な道具一式を抱えて花壇まで歩いて運ぶと、頭の後ろの左右にたゆんと余裕を持たせて三つ編みにした、自慢の薄緑色の髪が揺れた。

 彼女が世話をしている花壇は校門の近くにある。その傍らに道具を置いて必要な手入れを一通り済ませ、如雨露に水を汲んだあたりで、校門を開けて入ってくる人影を認めた。その二人とも制服姿ではないが、その一方に、少女は見覚えがあった。

「……あ、お嬢様。物質世界マテリアに留学してるって聞いてたけど、戻ってきたんだ」

 直接の関りはないものの、そこにいた人物の一人アイラ・グラキエースは、この学園では有名人だ。何せ領主様の娘で学園長の妹である上、流れるような白銀の髪に陶磁器のごとく白い肌、整った美貌の持ち主ともなれば、誰の記憶にもとして強く残っていた。

 しかし、もう一人には全く心当たりがなかった。服装こそ可愛らしくしているし、髪の毛は神秘的な黒色だが、そのセットがいい加減で、くせ毛がぴんぴん跳ねている。表情も自信なさげでぱっとしない。眼鏡の少女の見立てでは、顔立ち等の素材は良さそうなのだが。

(誰だろう、お嬢様のお友達かな?)

 如雨露を抱えて眺めていると、二人とも眼鏡の少女の方に歩いてくる。おそらくその先にある建物に用があるのだろう。

 お嬢様は悠然として。もう一人はおどおどとして。

「ごきげんよう、エウルさん。今日もお疲れ様」

「あ、はいっ、ごきげんよう、お嬢様!」

 突然声をかけられた眼鏡の少女は、思わず跳ねるように背筋を伸ばし、必要以上に大きな、上擦った声で返してしまった。

 それに対しお嬢様アイラはくすりと小さく笑うと「元気でいいわね」と手を振って職員棟に向かい、黒髪の少女は「……どうも」と眼鏡の少女に小さく会釈をして、お嬢様の後をついていった。

「……て、転入生、かな」

 その二人のあまりのちぐはぐな様子に眼鏡がずり落ちそうで、思わず眼鏡のブリッジを指先で抑えてしまうが、少女は気を取り直して、花壇に向かった。

「でも凄いなぁ、お嬢様。私と同い年なのに」

 如雨露から花壇へ、優しくシャワーが降り注ぐ。

「……私なんかの名前、どうして覚えてるんだろ?」

 エウル・セプテムの呟くような問いに、花壇の花たちは答えてはくれなかった。



 タイガ・グラキエースは、学園の職員棟、最上階に位置する学園長室で、昨夜のうちに受け取った妹からの書状と、白槍隊ホワイトランサーズからの報告書を机の上に並べ、面白そうに見比べていた。

 かつて送り手として悪名を轟かせた魔法使いメイガス、真黒のデイヴォことデイヴォ・チャコールの愛機グリモローブディモスが、この島に再び姿を現した。

 ただし街に対する攻撃等を行うことなく、それどころか送り手の襲撃者の魔装グリモローブを瞬時に撃退して見せたという。

 そして乗り手の声は男性であるはずのデイヴォのものでなく少女のようであり、妹によればその人物は物質世界留学先で出会った彼女の同級生らしい。

「……面白いことになってるけど、さて、これどうしようかな」

 少し伸び気味の流れるような銀色の髪の青年は、その前髪を弄る。

 彼は妹同様のやや吊り目気味だが端正な顔立ちに、意地の悪さを感じさせる笑みを浮かべて、予定されている訪問者を待ちながら、一先ずの事態の収拾をどうつけるかを考えていた。

 そのうちに学園長室の扉がノックされたので、彼が「どうぞ」と声をかけると、扉が開いて銀髪の少女彼の妹と、黒髪の少女件の人物が「失礼します」と一礼して入室する。

「ごきげんようタイガ兄様。お久しぶりです」

「ごきげんよう、アイラ」

 と、先ずは兄妹が挨拶を交わし、学園長タイガがさらに続ける。

「本当に久しぶりだよね。こっちに戻る時間が無いって事は無かったと思うけど」

「向こうの学問は興味深くて、ついのめり込んでしまったのよ」

「へえ、少し前には魔導書グリモアの読み取りもうまくいかなくて、僕に泣きついてきてたアイラがね」

「おかげで勉強するのが大好きになったわね。私に戻る気を起こさせたいんだったら、にバター醤油味を追加したらいいわ」

「伝統のキャラメル味なんだけどなぁ……」

「……え?」

 仲が良いのか悪いのかわからない、兄妹のやり取りを眺めて状況を掴みかねていた真織だったが、聞き捨てならない言葉が出たので、思わず声をあげてしまった。

 それで会話が中断されると、真織は瞬時に小さくなって、頭を下げる。

「あ……ごめんなさい」

「いや、こちらこそ、ごめんね」

 タイガがその綺麗な顔に苦笑を浮かべ、改めて挨拶をかける。

「黒木真織さん、だったね。僕がこの学園の学園長、タイガ・グラキエースだ。ごきげんよう」

「ご、ごきげんよう」

 慣れない挨拶を返す真織の様子に、青年は満足気に頷いた。

 目を細めると、本当に兄妹で顔立ちが似ているのが解る。思わず見惚れてしまう笑顔で、青年はこう続けた。


「――ようこそ、グラキエース魔法学園へ」

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