夢幻のグリモローブ ―魔法機械と少女の明日―
空 幾歳
一章 ディモスの帰還
1.私、こんな感じだから
その空は不思議な空だった。
赤と緑と紫と。色とりどりの雲が渦巻くその空で、黒い巨人と、白い巨人の群れが、幾度となく衝突を繰り返す。
両者の背中にはマントのような、翼のようなものもあったから、それは悪魔と、天使だったのかもしれない。
巨大な甲冑のようなその悪魔は、やがて天使の軍勢が一斉に放った雷に撃たれて、墜ちていった。私は、それが何なのか知りたくて。
心を弾ませて、その黒い悪魔を追いかけたんだ。
それは未だ幼い私の、今より幼かった頃の、遠い思い出の風景。
――
カーテンの隙間から、日の光が射し込んでいる。
「……もう、朝」
覇気のない声で呟いて、少女は鈍い手つきで掛け布団を押し除ける。布団の温もりに未練はあるが、久々にあんな夢を見てしまったから、それの存在を確かめずには居られなかった。
学生鞄から取り出して手に取ったのは、黒地に銀色で文字と思しきものが綴られた表紙の、分厚い書物である。装丁は確りしていて、中のページも傷んでおらず真新しさすら感じるのだが、彼女はそれを『古いものだ』と識っていた。
「これ、鈍器だな」
手に伝わる重みに、少女はふと思いついた物騒なことを口走ってから、下らないと苦笑して。
「……また会いたいよ、デイヴォ」
懐かしさと、寂しさが入り混じった穏やかな声で、その表紙に語り掛けた。
彼女は両親と共に東北のとある地方都市の片隅の住宅地に建てられた一軒家で暮らしているが、父母には仕事があり、通勤時間の関係でとっくに出勤している。
彼女はティーバッグで淹れた紅茶と食パン一枚とスクランブルエッグだけの簡易な朝食を済ませると、身だしなみもそこそこに制服に着替え、筆記具とノートと分厚い書物を詰め込んだ鞄を手に、靴を履いて玄関を出た。
ぼんやりと歩いていると、そのうちぼんやり昇降口に辿り着いて、気づけば教室でぼんやりホームルームの時間を過ごしていた。
一緒に登校するような友人も居なければ、教室で話しかけてくるような友人もなく、かといって自分から話しかける気も沸かないのだ。
小学校の頃はもう少し友人がいた気もするが、その頃から何となく、『合わないな』という感覚があって、そうした違和感を避けてきた結果であった。早い話が「その地域の同年代に馴染めなかった」のだ。
「ね、黒木さん」
しかし、その日はいつもとは様子が違っていた。
一時限目の授業の後、真織は自分の名字を呼ばれているのに、自分の事だとすぐには気づかなかったものだから、通りかかって自身の机の横で立ち止まった人物の視線をようやく認識し、「え、わゎ、私?」と蚊の鳴くような声を絞り出しながら、首を傾げる羽目に陥った。
「え、あ……うん、黒木さん、でいいのよね?」
不安な受け答えをされた方も不安になってしまい、言葉が
「ええと……
そこに立っている彼女が転入してきたのは、夏頃だっただろうか。
整った顔立ちと綺麗に切り揃えられた前髪、さらさらと流れるような手入れの行き届いた黒いロングヘアー。
その瞳は吊り目気味だが、それもあって職人にカットされた宝石のような、冷たさと煌めきを感じさせる。
彼女の転入挨拶の時に、まるで西洋人形みたいだと思ったのを、真織は覚えていた。覚えてはいたのだが。
「合ってるわ。
「よかった。人の顔と名前、覚えるの苦手で」
あまり手入れされていない、癖だらけの頭髪の毛先を指で摘まみながら、真織は苦笑を浮かべる。そしてすぐに、自分が話しかけられたことを思い出した。
「それで、何?」
「えっと、そのノート、何描いてるんだろうと思って」
愛良が真織の机の上の、広げたままの大学ノートを覗き込みながらそう言うものだから、真織はそのノートをバネに弾かれたように勢いよく閉じて、元の木阿弥、挙動不審となる。
「あー、その。ろ、ろぼっと、かな」
どうにかそんな、言い訳にもならない言葉をひねり出したところで、二時限目の予鈴が鳴った。
授業風景をぼんやりと、他人事のように眺めながら、真織は憂鬱な気分に浸る。
学校という空間で学級活動等の用事以外で話しかけられた事など、何時ぶりであろうか。彼女にとって余りにも想定外の出来事でまともに対応できず、しかも夢を思い出しながら描いていた落書きまで見られてしまった。
(ああ、やらかした、なぁ……)
あの転入生の少女からは恐らくロボットアニメ好きの、所謂「陰キャ」やら「オタク」やらの一種と認識されたであろう。
でも仕方なくないだろうか。その言葉自体は好きではないが、おおよそ事実に即している。あの風景を想起させるためか、その手の作品はよく視聴していて嫌いじゃない。
(いやでも……あれ、全く問題ない?)
そう、全く問題ないはずなのだ。そもそも、他者の好意や評価と自身の価値観を天秤にかけ、前者は気にするだけストレスにしかならないと、おおよそ切り捨てたタイプの人間であった。「他者の迷惑」だけは気を付けなければならないが、交流が無ければそれも最小限で済む。
だから、「他者」であるはずの「氷川愛良」にどう思われようと、これまで通りで問題ない。
それなのに。
(……私は氷川さんに、好かれたかったと思ってるのか)
あの少しのやり取りだけで、何となく彼女に好感を抱いている自分に気づく。
そして教壇に立つ教師の目を盗んで、教室の窓側後方、氷川愛良の席にちらりと視線を走らせる。
彼女があの席になったのは、先日行われた席替えのくじ引きの結果であるが、それ故に真織は、偶然というものに感謝した。窓の外を物憂げに眺める姿が、実に絵になるのだ。
(本当に、綺麗な子なんだなぁ……)
黒木真織は、そうぼんやりと思ってから、授業が終わるまでの間のことは、あまり覚えていない。
ただ、次にチャイムが鳴った時、手元に置かれたノートに板書の内容はまるで無く、氷川愛良のその時の姿を写したと思われるものが、シャープペンシルで描かれていた。
「黒木さん」
いつも通りの時間に、いつも通り下校するために靴を履き替えている真織だったのだが、不意に記憶に新しい声がかけられて、その動きが固まった。
声をかけた氷川愛良は、真織の隣に駆け寄ると、固まったままの真織の顔を怪訝そうに覗き込む。
「え、どうしたの?」
「……それ、私のセリフ」
真織は短く返すと、どうにか動作を再開して靴を履き替え終えた。
「私は、んー……あなたのノートが気になってるのよね」
「……絶対に、見せないから」
愛良の言葉の意味を理解した瞬間に、拒絶の言葉が飛び出した。
まともに授業のノートをとっていない事がまず後ろめたいし、頭の中から漏れ出したような落書きだらけ。残念ながら胸を張って人様にお出しできるような物は何もない。まして今は愛良の姿も勝手に描いてしまっている。
流石に本人に見せるのは――と、真織が恥ずかしくなって足早に昇降口を出る。
「あの、黒木さん。別に、無理に見せてっていうんじゃなくてね?」
速足のまま校門を出てもなお、愛良は慌てて靴を履き替えて、小走りで真織の後をついてくる。それがどうにも居心地が悪く、つい苛立ちが口から漏れ出してしまう。
「……私、こんな感じだから」
「?」
「大した用も無いのに話してたら、氷川さんが変に思われるよ」
「誰から?」
その首を傾げる仕草も愛らしいものだから、真織は一瞬言葉に詰まってしまう。仕切り直そうと軽く咳払いすると、真織は言葉を続けた。
「……学校の人。クラスの友達とか」
「居ないけど?」
「え」
すかさず返ってくる答えに足を止め、目を丸くしている真織を悠然と歩いて追い越しながら、愛良は喋り続けている。
「転入してきて、まあ話しかけてくる子とかは居たけど。それで友達か、って言うと、ちょーっと違うわね」
「……氷川さん美人だし、多分うまくやってるんだろう、って思ってた」
「なるほど、美人って思ってくれてるの、嬉しいわね」
少女は整った顔を、にっこりと上品に微笑ませて見せる。
愛良の表情の一つ一つに、つい好感を抱いてしまう自分に釈然としない真織だったが、愛良が話しかけてくる内容に、どうにかこうにか受け答えをする事ができていた。
「顔と名前、覚えるの苦手って言ってたけど、顔は覚えててくれたわけね」
「うん、まあ何となく」
そう言って再び踏み出した真織の足は早歩きを諦めて、愛良の後方をとぼとぼ歩く格好となる。
愛良はといえば、しばらく何やら思案しながら歩いていたが、やにわに振り向いたものだから、真織は心臓が跳ね上るのを感じた。
「よし、明日一緒にお出かけしましょう」
「!! うぇ……?」
「明日の土曜日。学校はお休みだけど、何か予定ある?」
「……ない、けど」
「それじゃあ朝の10時、滝山駅に集合、で構わない?」
「待って、私行くって言ってない」
慌てて真織は大事なところに話を引き戻す。勢いに飲まれて質問に正直に応じてしまったが、そもそも外出する理由や同行する理由など、微塵もない。
「んー、学校見学行きたいんだけど、一人だと心細くて」
「絶対一人で平気そう」
「黒木さん、進路とか何か考えてる?」
漏れ出た失礼な発言を無視して発せられた愛良の質問に、真織は口ごもる。
「……考え中」
将来に対する漠然とした不安。そんな当たり前のものだから、真織もそれを抱えていた。
興味のあるもの、得意なもの。どれもこれもこの先の指針とするには今一つピンとこない。何か目標を一つ定めたとして、それが自分に良い選択であるかという保証もない。
自分の成績に見合った学校に行き、その先も行ける方向に進むのだろう、と呑気に構える一方で、そうした不安は次第に膨れ上がり、真織が無視したくても無視出来ないものになっていた。
だから。
「だったら。黒木さんにとっても、参考になるんじゃない?」
「……わかった。行く」
黒木真織はまんまと、その提案に乗せられることになるのだ。
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