青色パターナリズム

神逢坂鞠帆(かみをさか・まりほ)

第1話

 落書きは、許されないものだ。その場所が公共の物ならなおさらだ。けれども、学び舎を去るその日くらいは例外であってほしい。そう願うのは図々しいかな。けれど、卒業式でなくたって、僕の場合には、年がら年中「確かにそこに居た」証を残してまわっている。確証を得たいのだ。自分の記憶の中にだけでなく、僕自身を知らない人の目にも証を示したい。


 大和撫子もかくやというような女の子が、誰もいない日陰に話し掛ける。多勢の学生連中には、ただの通学路にしかすぎない場所である。いや、「場」という意識すらもともとない。そう、背景である。

「また落書きしてる」

 落とすような発声に、青白い顔が上がる。

「ごめんなさい、薬師如来さま。もうしませんから、どうか許してください」

「とか言って、どうせすぐまた落書きするくせに」

 そこで、「ん?」と首を捻る。「なんで、『薬師如来』? この場合、普通に神様か仏様でいいのでは?」

 病人じみた青年が、目を細める。

「後光が差してる」

「ああ」太陽の位置を確認して、首だけで視線を合わせる。

「ところで、君は犬かな。猫かな。それとも狸?」

 不明確な理由づけには興味がないらしい。あごに手をやり考え込む。

「むじなに似てるね、と言われたことはある」

「それ、狸のことだよ」

「それは暗に僕の腹が黒いということを示しているのだろうか」

 笑いのつぼにはまってしまったのだろうか、一気に顔中の筋肉が緩む。

「君はよく、たいして面白くもない事柄に興味を示しては、そうやってひとりで笑っているよね」

 清楚なワンピースに白衣を羽織った乙女は、笑いをこらえるのに必死らしい。

「だって、そんな青白い顔してるのに、腹黒って」

「それを言うならば、君の見た目は大和撫子そのものだが、実際には、その中身は現代人そのものだよ。しかも、そのように扱われると密かに心の中では逆上したりしているのだから手におえない。それが嫌ならば、もっとロックな格好でもすればいいんだ」

「だって、似合わないもの。憧れはしたのだけれど、これが似合わないったらない。自慢じゃないけど、私はTシャツが死ぬほど似合わない女よ」

「日本語ロックは心から愛しているのにね、残念だね」

「そう、残念なの」言いながら、扉の前の低い階段に腰掛ける。青年の手元には、物理を学んだことのない人でも知っているような有名な公式が白いチョークで書かれてある。

「思うけど、本当に意味不明だよね」

 チョークの粉にまみれた手で口元を覆う。この表情を見るにつけ、女子学生は何故か胸が切なくなってしまう。

「意味はあって、ないようなものだからね」

 居た堪れなくなって、隣の背中に喝を入れてやる。驚くじゃないかとの非難も頭に入ってこない。コンクリートの冷ややかさを尻に残したまま立ち上がる。背中だけでは飽き足らず、自分よりもはるかに大きな足元に攻撃を加える。とてもではないが、顔を見ることができない。きっと困っている。哀しそうな顔をしているに違いない。頬が赤くなるのを感じる。理不尽だ。相手が寂しいのを想って感化されて、それなのにいつのまにか主従は逆転してしまって、自分が「可哀想」みたいなことになっている。いらだちが涙となって溢れ出してくる。意思を伝えるための言葉という言葉が消えていく。感情を言語化できない。喉が哀しげな痛みを持って、小さな嗚咽をあげる。

「大丈夫だから」

 そう何度も唱えながら、顔を見合わさないようにと膝立ちの状態で背中に手をまわして抱きしめる。気持ちは確かにそこにあるのにうまく伝えられない。意思の疎通ができない。それは、ただ言葉が通じないよりも、きっと音のない世界にいるようなものだと思う。結局、彼女の辛さだなんて理解できるはずがないのだ。そういうものだ。

 世界は、決してやさしくない。優しくないし、易しくない。







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