さぼてんの葉っぱ
@fightnakayoku
会話のはなし
会話は文章のやり取りではない。
それ以上のバランスがある。
弁護士事務所の一室、相談者がいう。
「2か月前にぃ、妻と別居したんですよ」「はい」
この「はい」が難しい。
早すぎても遅すぎてもいけない。声が大きすぎても小さすぎてもいけない。
この「はい」によって、次に相手が言葉を継ぎやすくなるかどうかが決まる。
「はい」は奥深い。
「家に帰ったら、ですね。いつもは夕飯を用意している妻がいなくて。電話したら。実家に帰ったって言うんです。」「なるほど」
「なるほど」は簡単だ。
「はい」ほどの制約がない。ただ、「なるほど」と言ってしまうと次の言葉をどちらが言うか、あいまいになる。
その場の空気感から、どちらが発語すべきかを読み取って、必要であれば、会話を繋げなければならない。
「奥さんが実家に帰ってしまったということですね。」
「そうです。で、私もどうするかなあ、と。子どもも連れていってしまったので。子どもには会いたいなあ、と。」
ここで「それであれば面会交流ができます。」などと言ってはいけない。
いや、専門家としては正しいのだが。ここで結論を言ってしまうと、会話が途切れてしまう。まだ相談時間もたっぷり残っている。もうすこし引き延ばす必要がある。
「それで、お子さんとは連絡は取れているのですか?」
「もう中3ですからね。スマホも持たせてラインもやっています。ただ、別居以来、どうもラインに出てくれなくて。」
「ははあ」
「ははあ」は便利だ。この言葉は単なる相槌ではない。相手の不遇な境遇に同調し、共感を示す効果がある。とはいえ、使いすぎは禁物だ。テキトーに受け流していると取られかねない。
会話が上手くなる、とは、相槌が上手くなることだと最近思うようになった。
短いことばの中に、いや短いからこそ感情の入れ具合によって伝わり方が大きく変わる。
会話を、言葉のやり取りだと思っている人はたびたび見かけるが、大きな間違いだ。
会話は、感情のやり取りである。
顔つき、しぐさ、呼吸の一つにいたるまで、会話の一部なのだ。
会話のうちで、言葉の部分はもっとも練習が簡単で、しかし、もっともつまずきやすいものだ。
なまじ言葉がうまい人は、自身を「コミュ強」だと錯覚してしまいやすい。
しかし、長々とした「話術」は本質ではない。
相槌は、言葉が短いからこそ、言葉のチョイスだけではごまかすことができない。
表情の作り方、手を置く場所、呼吸のとりかた。
相槌にこそ、会話の妙技が現れるのだ。
「それで、お子様に会いたいというご希望でしょうか」
「いやね。今日は残業代の相談で。」
会話は難しい。はい。まことにさようでございます。
さぼてんの葉っぱ @fightnakayoku
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