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「ご予約はお取りになりましたか?」
南原心療内科に到着した雪乃はレセプションの前で受付の女性に呼び止められた。
「保険証のご提示と、こちらの問診票をーーー」
「あ、いえ、今日は診察では無いんです、院長の南原唯さんにお話をお伺いしたくて…」
「そうでしたか、あいにく院長は長らくこちらのクリニック業務を休業しておりまして…」
「ご本人と連絡は取れないんですか?」
「奔放を絵に描いた様な人ですから、時折連絡はありますがこちらからと言うのはどうにも…」
創業者と連絡が取れないなんてそんな馬鹿な話があるか…雪乃は喉元まで出かかった抗議をどうにか押し殺し、話を続けた。
「…そうですか、では現在こちらではどなたが診察を?」
「現在院長代理をされているのは二階堂先生です」
「二階堂…」
雪乃はその名前をどこかで聞いた様な気がしたが、院長と連絡が取れないクリニックの存在に呆気に取られて、すぐには思い出せなかった。
「ではその二階堂先生にお時間を作って頂く事は可能でしょうか?」
「本日は診察の予約も混み合っておりまして、そもそもその…失礼ですが貴方様は…」
「こちらこそ失礼しました、私はーーー」
雪乃はジャケットから警察手帳を取り出し受付の女性に提示する
「成宮雪乃さん…警察の方ですね、少々お待ちください一応先生にお話を通してきます」
そう言って女性は雪乃に待合で待つ様に促すと、クリニックの奥にある部屋へ向かった
10分程度待たされたであろうか、先ほどの女性がパタパタとスリッパの音と共に雪乃の元に戻ってくる。
「診察時間内はやはり難しいですね…」
「そうですか…」
「ただ今日の診察が全て終わった後でよければ構わないとの事でした」
「本当ですか?助かります!それではーーー」
雪乃はおおよのそクリニックの業務が終わる時間を聞き出すと、時間を見計らってまた来る旨を告げ、お忙しい時間に申し訳ありませんでしたと頭を下げてクリニックを後にした。
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20:00、最後の患者が帰ってしばらく経った頃、指定された時間に雪乃は南原心療内科を訪ね直した。
院内の照明は所々落とされており、患者を迎え入れている時間とは違う、何か物々しい雰囲気を醸し出している…雪乃はどこか夜の学校と雰囲気が似てるなと思いながら待合で待ち人が現れるのを静かにまっていた。
「お待たせしてごめんなさいね」
投げかけられた声に顔を上げると雪乃の前に立つ1人の女性が、軽く会釈をする。
大人っぽさと若々しさが併存する、何とも形容し難い容姿のその女性は二階堂彩名を名乗り、この時雪乃は初めて南原唯の論文の共同著者の名前が二階堂彩名だった事を思い出した。
「すいません突然押しかけてしまって…お時間を割いていただいた事、感謝します」
「お気になさらずに、今日はどういったご用件で?」
「二、三お伺いしたい事があってお伺いしました…先生は10年前に自殺した小津まりえと言う女性をご存知でしょうか?」
「懐かしい名前だわ…もちろん知っています、彼女は友人…でしたから…」
「そうですか、実は小津まりえはーーー」
「貴方のお姉さん?」
「…っ??どうしてそれを?」
「何度もまりえから直接聞いていたわ、わたしとまりえはそれくらい長い時間を一緒に共有していたの…それに…」
「………」
「貴方はまりえによく似てる…」
彩名は微笑みながら雪乃に告げる。
雪乃はその微笑みにどこか影がある様な気がした。
「それで、貴方はまりえについて私に何を聞きたいの?」
「姉の死の真相についてです、姉は自ら命をたつ少し前に、私に【理由が見つかった】【自分の人生は自分で選択するべきだと教えられた】と言いました」
「そうだったの…」
「姉が当時、死と言う人生の幕引きを求めていた事は幼い私にも理解できていました、でも中々その決断が出来かねていた…少なくとも私にはそう見えました…そんな姉の背中を押した人が、きっかけを作った人が居る、私はその人を探しています、咎める為でも罰するためでもなく、姉の死の真相を知るために」
「そう…」
「本当は姉の担当医だった院長の南原唯さんにお話を聞くつもりでした、消息が掴めなかったのでせめて何か手がかりが有ればと思い、今日は先生に…」
「なら遠回りをしないで済んで良かった」
「遠回り?」
「ええ、南原先生はまりえの死については何一つ関与していないわ、関与と言うのは広義の意味でよ?つまりあの人はまりえにとって【担当医】以上でも以下でもないの、南原先生は何も知らないし、まりえも南原先生に思うところは何一つ無かったと思うわ」
「なら姉は…」
「私ね…」
「え?」
「まりえを殺した…少し違うわね…死に導いた人間がいるとしたらそれは私だわ…」
「貴方が?姉さんを…?」
「時間はあるかしら?何から話したらいいのか…そうね、まず私とまりえが出会ったのは…」
動揺を隠せず狼狽える雪乃の隣にストンと腰を下ろすと、彩名はどこか遠いところを見つめながら、ゆっくりと話をし始めた、彼女が紡ぐ言葉は現実と非現実を交互に行ったりきたりするまるでおとぎ話の様で、雪乃の心を次第に落ち着かせていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「というのがまりえの死に関する私の視点から見た見解よ、貴方が探している答えを私が提示できたかはわからないけれど、可能な限り湾曲させず、憶測を含まない様に伝えたつもり」
「…………」
彩名が語った【小津まりえ】と言う1人の人間が死に向けて歩むエピローグは、唯、彩名、ちとせ、そしてまりえの人生や思惑が交錯する、絶望的な出来事の繰り返しで綴られていた、その余りにも救いがない話が隙間なく折り重なって出来た結末に雪乃は気が滅入りそうになった。
「二階堂先生、お話を聞く限り貴方は現実的に姉の死を止められる立場にいる人だった様に思います…先ほど先生は姉の事を【友人】だと言いました…先生は死のうとしている友人をひき止めようとは思わなかったんですか?」
「そうね…それは私の価値観によるところが大きいと思うわ…今にして思えば私がまりえにちとせを引き合わせた時、既に私はまりえの自殺を肯定していたんだと思う…私にとって死を望む小津まりえと、絶望の中で期待する事を放棄した結城ちとせはとても美しい物に思えたの」
「美しいもの?」
「そう、人は誰しも自分の本当の気持ちに仮面をつけて生きているわ、通いたく無い会社や学校に通い、したくもない仕事や勉学に精を出す、まるで共感できない友人知人の言葉を“気持ちがわかる“と肯定し、興味が無い人間とのコミニュケーションに勤しみ、よく知りもしない誰かの訃報に肩を落とす…なぜだかわかる?」
「それは…」
「これは倫理や道徳に縛られて人間が社会生活を送っているからよ、勤勉である事は素晴らしい、友や家族の存在は素晴らしい、生きているって素晴らしい【だからそうじゃなきゃいけない】そう思ってその様に行動するのが人間なの、たとえそれが自分のしたいこととは違ってもね…私はこれっぽちも可愛くない泣き喚いてる子供に可愛いと声をかける人や、少しも良いと思っていないのに新しい服を着てきた友人の服を褒めちぎる人や、自分が愛されているかを確認するために自分を卑下する人の事が耐え難い程に醜く感じるの、もはやグロテスクと言ってもいいわ…」
「でも、人間が集団の中で円滑に生活するためには…」
「そうね、確かにその通りだわ、人が人とストレスなく共に生きていく為には他人に自分を合わせて行く事はとても大切な事よ?でもね、どうでもいいのそんな事、本当に心からどうでもいいの、もちろん私だって、本意の追求が他者を蔑ろにしていい原因にはならないと思うわ、【殴りたいから殴る】とか【欲しいから奪う】なんて事には少しも惹かれない……私はもっと人の心の深いとこに触れたい、根源的な欲求に忠実な人と向き合いたい、そこに【人間の美しさ】を感じるから…まりえは愛する人を失って、抱えた痛みに耐えながらもがき苦しんで、ただひた向きに愛する人ともう一度だけ会いたいと願っていた…こんなに美しくて純粋な感情が他にある?私は思い当たらないし、救いとして求める終わりにすらモザイクをかけて生きていかなければならないんだとしたら、そんな歪んだ倫理も道徳も、願い下げだわ…少なくともまりえと同じ苦痛を経験していない立場で【死ぬなんて間違っている】なんて無神経な事は私には言えなかった…」
「でも…そんなの普通じゃない…」
「そう、だからさっき言った様に価値観の問題なのよ、マイノリティーである事は認めるわ、でも異常だとは思わない、私からしたら嫌いな人間と笑顔で手を繋げる人間の方がよっぽど【普通じゃない】と感じるのよ、私は私なりにまりえの事を心から愛していたし、本当に大切に思っていたから彼女の選択を受け入れて認められたの、わかって欲しいとは思わないけれど…」
この時雪乃は、彩名の話す事はあながち的を外れていないのではないかと思うようになっていた。
彼女の在り方は人間が内心で受け入れつつも都合が悪いから、見たくないから、気づいていないふりをしたいから、箱に入れて蓋を閉めていた感情を【貴方達は皆嘘つきなのね】と言いながら掘り起こして本人の前に突きつけている行為である様な気がしたからだ。
抱いた後ろめたい感情を隠している者と、それを暴こうとする者はどちらが正義でどちらが悪なのだろうか…
もし彼女の言う通り、姉の死は美しく真っ直ぐな姉の根源欲求から生まれた物で、それが姉にとっての最良の幸せだったとしたら…
姉の死は祝福され喝采されるべき物だったのか?
死にたいと心から願った人が死んだから?
【死んでおめでとう】と思って然るべきなのか?
だとしたら倫理とはなんだ、倫理から生まれた法の番人たる自分は何なのか…雪乃の思考は出口を見つけられないままいつまでも渦を巻いた。
「別に私は、貴方に共感して欲しくてこの話をしたわけじゃないわ、結果貴方が私を恨んだとしても、貴方にまりえの最後を伝える責任が有ると思ったから話ただけ…正直、あの時私とまりえ、それにちとせの間で共有していた時間と感情はおそらく他人にはいくら説明しても理解できないと思う…」
「できるわけない、大切な人の死を後押しするなんて、そんなの間違ってる!」
「仮に間違っているとしてどうするの?死にたがっている人を止めなかった私を貴方は裁けるかしら?世間が大切にしている法と倫理で私を咎めてご覧なさい?」
「それは…」
「貴方が言っているのはどこまでいっても理想論なのよ、しかも貴方の倫理に照らし合わせた理想…私、貴方のお姉さんとは本質的な部分まで繋がれていた気がしているけれど、貴方とは仲良くできそうにないわ」
ついに雪乃は何も言い返せなくなった。
全くもって彩名の主張は正しく感じた。
仮に彩名がまりえの自殺を止めなかったとして、それを罪に問う法律は無い、彩名がまりえに自殺を強要していれば自殺教唆、自殺に関わる環境を用意していれば自殺幇助などで罪に問うことはできる…
だが彩名がまりえにした事はただ一つ【死にたいと言うまりえの願い】を受け入れただけ。
自殺を止めない事を裁く法律は無い、それがどれだけ人の道徳や倫理から逸脱していてもそれを罰する術はないのだ。
タチが悪いことに雪乃は彩名の持つ倫理観に一定以上共感出来る部分があった。
その上まりえに対して彩名が抱いていた感情は恐らく本当に愛だったと感じていた、歪で、不器用で、触れると痛い、剥き出しの愛情…その事が一層悔しくて、情けなくて、雪乃を強く俯かせた。
「これ以上聞きたいことが無いのなら私はもう行くわ、入口はオートロックになっているから、好きなタイミングで帰ってくれて構わないから…」
彩名は俯き震える雪乃に声をかけると立ち上がって白衣を翻し、コツコツとヒールを鳴らして裏口に向かって歩き出した。
ちょうど廊下を半分くらい進んだ所でその音が不意に止まり、【あと、これは精神科医としての忠告なのだけれど…】と呟くと、くるりと雪乃に向き直り
「貴方がまりえの生きる理由になり得なかった事実は貴方が何をしても変わらないわ、貴方は貴方の人生を生きなさい」
と言い残してまた歩きだした。
まりえが投げかけた最後の言葉はどこまでも重く雪乃の心にのし掛かり、【気づかないふりをしていた不都合な真実】に土足で踏み入られた雪乃はしばらく椅子から立ち上がる事ができず、空虚な時間だけが刻々と流れていった。
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