09
巨大な総合病院の地下2階にあるこの部屋に至る道の壁はとにもかくにも白く、遠近感がおかしくなるその感覚は、まるで来訪者を拒んでいるかの様だった。
遺体安置室、部屋の前に置かれた焦茶色の長椅子に1人の男が腰掛けている。
「慣れねぇもんだな…」
この日、田口は事故死した被疑者の本人確認の為、遺族の到着を待っていた。
田口にとってこの【業務】はとにかく憂鬱だった、交通捜査官をしていれば誰しも幾度となく経験する事で、多くの同僚は例外なく次第に慣れていき、特に苦痛を感じなくなると言う。
田口は何度も自分がおかしいのかと悩んだが、その度にこんな事を作業然とこなせる様になるくらいなら、耐えられずに苦悶する自分の方が幾分まともなはずだと言い聞かせていた。
トレンチコートの内ポケットから携帯電話を取り出し、画面を覗き込み、特に何かをしたり見たりする訳でもなく、また内ポケットにしまいこむ…
何度目かのこの作業を終えた時、エレベーターホールの方から医師に付き添われ1人の若い女がおぼつかない足取りを引きずって、こちらに近づいてきた。
「小津まりえさん…ですね…この度は、何とお声がけしていいか…」
女の視線は焦点を合わせえぬまま、右へ左へ上へ下へと忙しく泳ぎ回り、言葉を発する事は無い口元がパクパクとだらしなく開閉運動を繰り返していた。
【この人から見て、俺はどう映るんだろうか…大切な人の死を告げる、見知らぬ他人、どんなに深い悲しみも辛さも共有できず、ただそこに居合わせて淡々と事務的に作業を進めて行く…】
田口は雪が降りそうなこの聖夜に、女がエプロンをつけたまま、裸足にサンダルである事に気がついた。
【死神だな、さしずめ…】
下唇を噛み締めて俯いた、無力だった、本当に無力だと痛感した。
誰かの為に、少しでも役に立てたら、別に感謝されなくてもいい、不意に立ち止まってしまった人の一助になれたら…
田口はそう思って警察官を志した、【何を熱くなってんだ?】と仲間に揶揄された事も有ったが、別に気にもならなかった。
本当にどうしようもない自堕落な人生を見つめ直させてくれたのは1人の警察官で、【自分も誰かにとってそんな存在になりたい】その一心でこの世界に飛び込んだ。
しかし、田口が日々感じるのは誰かの役に立てたと言う充足感ではなく、無力でちっぽけな存在だと言う現実でしかなかった。
「嫌…嘘…嫌ぁ…嫌よ…」
医師は女の肩を支えながら部屋に通すと、無機質な白いベットに横たわる遺体の横に案内した。
「………神様…………神様」
消え入りそうな女の声が、音のしない室内にこぼれ落ちる中で、医師が顔に乗せられた白い布を下ろす。
「あ、あぁ…あぁぁ…ああああ!!!!」
切り裂く様な悲痛が、あらんばかりの絶叫が、その場を駆け抜けた…壁にぶつかり反響し、押し戻され、また壁にぶつかり反響する…
出口を見失ったその叫びは居合わせた田口の胸を締め付けた。
大人の遺体の顔は焼けて爛れ、三分の一程度は原型をとどめていない、小さな乳幼児に至っては性別の判断すら難しいレベルと思われる程に延焼している。
女は崩れ落ち、物言わぬ夫と娘が横たわるベットに突っ伏して、呼吸を忘れて嗚咽した、彼女の震える小さく華奢な体のどこからこんな声が出ているのか…
余りに血気迫る女の様子に、田口もまた目頭が熱くなった、幾度となく身元確認には立ち会っていたが、こんな事は初めてだった。
どんな遺族も例外なく家族との突然の別れに傷つき、涙を流す、だがここまで、何と言うか本人がこのまま壊れてしまうのではないかと思う現場には立ち会ったことが無い、少なくとも今までは。
田口は何も言わず、女が落ち着くのを待つ事にした、別に何時間かかっても構わない、本心からそう思った。
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