第9話
「ヒーっ!お前、お人好しの世界記録でギネスに登録されるぞ!」
過呼吸症のように大きく息を吸いながら、浩之はソファから転げ落ちて大笑いした。
月曜日の夕方、梅雨のじめじめした空気から隔離された、エアコンの効いている快適な浩之邸のリビング。
だが、政雄は笑いこける浩之を横目で見ながら、外の湿った空気にさらされているように、不快な表情でビールを呷った。
「笑うな!あの時は、なんかそいつに同情しちまったんだ」
政雄は言い訳をしながら、浩之に一昨日の顛末を話したことを、死ぬ程後悔した。
「同情したからって、女房を寝取った男と酒を飲んではしごをするか?しかもスナックでカラオケだって?」
そう言って、浩之は再び「ヒーっ」と、引き笑いをした。
「うるせー!だから言ってんだろ。最初は女房の身勝手さから逃れたくて家を出ただけだって。でもそいつのしょぼくれた姿を見たらなんて言うか……ちょっと可哀想になっちゃったんだよ。ほんの数分前に一ミリも悪びれたところもなく、俺に間男と会って話をつけて来いなんて言い放った女房とのギャップが凄すぎて……思わずな。お前、誰かに話したら殺すからな!」
「クククク、もう駄目だ、腹筋が崩壊する。お前、ホントにいいやつだ!さすが、俺のダチだよ!」
浩之は言ってから腹を抱えて笑い、床を叩いた。
「死ね!」
政雄は笑い転げている浩之に、あまり好きではないジャイアントコーンを投げつけ、「これの入ってないミックスナッツを買っておけ!」と、命令をした。
「はいはい、ご主人様……ってメイド喫茶かよ!ヒーっヒヒヒ」と浩之は笑い転げ、眼鏡を外して、笑い過ぎで出た涙を拭った。
「お前、ホントに殺すぞ!」
「すまんすまん……でも、マジで面白過ぎる!」
「絶対に死刑だ!」
政雄はテーブルの上にあった焼酎の瓶を持ち上げ、投げつける仕草をした。
「わかったわかった……わかったから焼酎の瓶を下ろせって」
浩之は半泣きに近い表情になっている還暦過ぎの親友を見て、矛を収めるように言った。
「今度笑ったら、マジで頭をたたき割るからな!」
政雄はそう言いながら焼酎の瓶のキャップを取り、そばにあったグラスにドボドボと注いだ。
「わかったよ、俺が悪かった……」
「わかればよろしい。罰として氷と水を持ってこい!」
政雄は姿勢を正すようにして胸を張り、キッチンの方向に顎を突き出した。
浩之は眼鏡をかけ直してから立ち上がり、素直にキッチンに向かった。
「だけどな……」
「うん?何か言ったか?」
浩之が呟くように発した言葉が聞き取れず、政雄は浩之の背に訊いた。
「ああ、お前の話を聞いてて、少し気になる点があるんだ」
「気になる点?俺は嘘は言ってないぞ」
浩之が運んできたアイスペールを受け取りながら、政雄は不服そうに言った。
「お前の話が嘘だなんて言ってないよ。そうじゃなくて、奥さんのことだ」
「奥さん……って、優子の事か?」
「ああ」
「どういうことだ?優子のどこが気になるって言うんだ」
焼酎が入っているグラスに慎重な手つきで氷を入れ、水を足してから人差し指でかき混ぜながら政雄は訊いた。
「土曜日の呼び出しと、間男の訪問は別の話なんじゃないか?」
「別の話って?」
「いや、だからさ。奥さんはその日に間男が家に来るなんて予想をしていなくて、ただお前と話をしたかったんじゃないのか?話の内容までは俺には分からんが……」
浩之も自分のグラスに氷を入れ、焼酎を注いでから水を足し、マドラーで静かにかき回した。
「ああ、それは俺もそう思う。だって、あいつの
「だろ?」
浩之は小さく頷いた。
「で、何なんだ、気になる点って?」
濃い目になった焼酎の水割りを口にし、少し顔を顰めながら政雄は訊いた。
「お前の奥さんと直接話をしたのはかなり前だから、今現在のことは良く知らんが、結婚してからお前の口から聞く奥さんは、常識な
「まあ、一応会社では管理職もしているし、外面だけは良いからな」
「そんなことじゃなくて……何ていうか、自分の浮気相手に亭主を会わせるって、かなり異常だろ?」
浩之は少し言いづらそうに言い、程よい濃さの焼酎を口に含んだ。
「まあ、普通はな。でも、あの時は……それこそ予想だにしていなかった浮気相手の突然の訪問で、女房もパニックになっちゃたんだろうな。顔は紅潮していて引き攣れていたし、言葉遣いもな……」
政雄は一昨日の出来事を思い出しながら言い、ナッツを摘まんだ。
「それだよ」
「え?それって?」
「だから、奥さんが何故そういう行動に走ったのか、ってことだよ」
「何故って……びっくりしちゃったからだろ」
「そんなことじゃなくて、何ていうか……。ちょっと常識外れな言動だから……」
浩之はその先の言葉を飲み込んだ。
「何だよ、途中で止めるなって、気持ち悪いじゃねーか」
政雄は苛立ちを隠さずに言った。
「ああ、でも気を悪くするなよ」
浩之は眼鏡の位置を直しながら政雄の顔を見た
「もう十分に気を悪くしてるから大丈夫だ。早く言え」
「つまり……奥さん、何かの病気じゃないのか?その情緒不安定なところとか聞いているといると、そんな気がするよ」
「病気?病気って精神的なやつか?」
浩之は政雄の言葉に頷いた。
「でもあいつが通院しているとか、薬を飲んでるのって見たことも聞いたこともないからな……」
政雄は合点がいかないと言う風に首を捻った。
「お前が気付いていないだけかもしれんだろ?」
「まあ、その可能性は否定できん」
政雄は難しい顔になって、腕を組んだ。
「バーカ、なに納得してんだよ。それに病気っていっても、更年期障害とかかもしれないぞ。奥さんの年齢から考えても……」
「更年期障害?」
「ああ、人によって症状に違いはあるだろうけど、俺の会社にもいたからな、更年期障害で通院していた
「そのひとは情緒不安定な症状だったのか?」
「ああ、とにかくイライラが止まらないらしく、家では旦那や子供に当たり散らしていたらしい。さすがに会社では抑制していてようだが、それでも若い子に辛く当たってしまうことがあったみたいだ」
浩之は言い、焼酎の水割りで口を湿らせた。
「へー、そうなのか……。うちのヤツがそうなのかは分らんが、確かにここ数年のあいつは何かにつけて怒りっぽくなったな」
政雄は反芻するように、視線を天井に向けながら言った。
「それはお前の行いが悪いからだろ!」
「まあ、それも否定しない」
政雄はきっぱりと言う。
「じゃあ、お前の奥さんは病気なんかじゃなくて、ただ単にお前が悪いだけなんじゃねーか!」
「そうなるか……」
「そうなるか、じゃねーだろ!人が心配してるのに、ったくお前たち夫婦の問題を二度と俺の前で言うなよ!」
憤慨した浩之はグラスの焼酎を一気に飲み干し、今度は咽ながら涙を流した。
一昨日の夜、優子の浮気相手の相田と連れ立ってマンションを出たところで、政雄は「少し話をしましょう」と言って、悄然とした様子で後ろについて来た相田と、駅前の居酒屋に入った。
席に案内された政雄は相田に確認をしないで、女性店員に生ビールを二つ頼んだ。
ビールが来るまで二人は無言だったが、相田は終始俯き加減に顔を伏せていたので、政雄はじっくりと優子の
よく見ると、オフホワイトのポロシャツはブランド品だが襟がよれている。
頭頂部も薄くなり始めていて、外見からは、何故優子がこの男と付き合っていたのか理解出来なかった。
生ビールが届き、政雄は無言で飲み始めたが、相田は手をつけない。
「飲んだらどうです?飲めるんでしょ?」
政雄がタバコに火をつけながら促すと、相田は緩慢な動作でジョッキを持ち、一口だけ飲んでまた顔を伏せた。
「すみませんでした」
政雄がメニューを手に取ってつまみを何にしようかと思案してると、唐突に相田が小さな声で言った。
「え、なんです?」
「すみませんでした……。ご主人様には本当に申し訳ないことをしてしまいました」
「そのご主人様っていうのやめてくれませんか」
「あっ、すみません」
相田は再び頭を下げた。
「確かに謝ってもらうようなことをしてくれたみたいですけど、今日はその件じゃないんです」
「えっ?」
政雄の言葉に相田はようやく顔を上げたが、怯えた様子は隠せない。
「今日、こうしてお互いに顔を合わせたくない人に会ったのは、女房……優子の伝言を伝えるためです。……枝豆とフライドポテト頼みますが、あなたは?それからビールを飲んでください。嫌いだったら他の飲み物を頼みますか?」
「いえ……あ、いえ、ビールで結構です」
相田は、今度はジョッキの半分近くまで一気に飲んだ。
「つまみは?」
「いえ、特に……」
おどおどとした様子は消えないが、ビールを飲んだ効果か、相田は少し落ち着いたような表情で頭を小さく横に振った。
政雄はテーブルの上に置いてある呼出しボタンを押してから、近づいて来た女性店員に、先程相田に言ったつまみに加えて数品を注文した。
「失礼ですが、今おいくつですか?」
おどおどした様子の相田とは対照的に、政雄は落ち着いて余裕のあるところを見せるように訊いた。
「あ、五十五……今年五十六になります」
「うちの……優子とはいつから?」
この質問には応えたくないのか、相田はまた顔を伏せた。
「いつからです?」
完全に主導権を握った政雄は、少し口調を強めた。
「じ……十年前くらい……からです」
やはり、息子の政広が見た時には既にそういう仲になっていたのか、と政雄は胃がキューっと収縮するのを感じた。
「結婚されてるんですよね?」
相田は質問の意図を探るような眼になったが、観念したように「はい」と、短く応えた。
それから言葉を続けようとした時に、女性店員が重苦しい雰囲気の二人に忖度しない明るい声で「枝豆でーす」と、テーブルに枝豆を置いたので、相田は亀のように首を引っ込めた。
「えーと、優子からの伝言っていうのもあるんですが、そのー、なんて言うか……他人の……女房の家にまで押しかけるのはどうかと思うんですよね」
政雄は目の前で首を竦めている相田の後頭部を見ながら、なんで俺がこんな話をしなければいけないんだ、と優子の身勝手さに腹が立ってきた。
「……」
相田は無言のまま、上半身を折るように頭を二度下げた。
「言ってる意味分かりますよね?……まあ、とにかく飲んでください」
完全に委縮している相手に、高圧的な言葉で責めるのも大人げない気がして、政雄は口調を柔らかくした。
「も、もうしません。お、お約束します。本当に申し訳ありませんでした」
相田は一瞬顔を上げたが、また頭を下げた。
「そうですか。よろしくお願いします」と言って、政雄も頭を下げたが、何で俺が頭を下げなければならないんだと、優子への怒りが増幅した。
それに比べれば、怯えた様子で初対面の自分に頭を下げ続ける、目の前の男の方がましに見えてくる。
そこに先程の底抜けに明るい女性店員が、「焼き鳥盛り合わせとフライドポテトでーす。お飲み物のお代わりはいかがですかー?」と、政雄と相田に対して商業主義丸出しに、口角を上げて愛想笑いで訊いた。
「あ、じゃあ生ビール。相田……さんは?」
「あ、私も生ビールで」
顔を上げた相田も注文し、目の前のビールの残りを一気に飲み干して、空のジョッキを店員に渡した。
店員が去って静かになったテーブルを挟んで、政雄は焼き鳥を頬張り、相田にも勧めた。
相田は頭を下げてから、焼き鳥の串におずおずと手を伸ばした。
「変なこと訊いて悪いんですけど、なんでまた家まで押しかけてきたんです?」
政雄は努めて高圧的にならないようにして訊いた。
この辺の呼吸は、長年の営業職で培った能力だ。
相田はビクッと体を固くしたが、手に持っていた焼き鳥を自分の取り皿に置いて、それが癖なのか、また俯いた。
「あ、別に尋問しているわけじゃないんで、そんなに固くならないで。ビールも来たようですから、とにかくつまみも食べてください」
二人は無意味に明るい声で店員が置いた生ビールのジョッキに口をつけた。
「四月の中頃あたりから、ゆ……奥様と連絡が取れなくなったので、ゴールデンウィーク明けに、こちらの駅で待ち伏せてて、夜の十一時頃に改札から出てきたゆ……奥様を捕まえた、あ、すみません……会ったんですが……。その時に、待ち伏せなんかしてとか怒られたんですが、駅で話すのもあれなんで、少しでいいのでどこかで話そうと……。全くの偶然ですけど、この店に二人で入りました」
重い口を開いた相田から視線を外し、政雄はタバコに火をつけて、なんだ二度目の来店なのかと思ったが、口には出さずに次の言葉を待った。
「席に着くなり、きつい口調で待ち伏せなんかしてどういうつもりだ、もう会わないって言ったはずだと言われて……。私は、何回も頭を下げて別れる理由を訊きましたが、中々言ってくれなくて……。飲み物が届いた時、飲みたくないし疲れてるから帰るって言って、バッグを持って席を立ったんです。まさか、ご主人さ……がいる家までついて行くわけにはいかないので、席でどうしようかと迷ってたら、立ったままで、突然、ご、ご主人……から離婚届を叩きつけられたって話を……。離婚はしたくないからもう二度と会わないって言って、店を出て行ったんです」
相田はご主人様と言いそうになるのを必死に堪えながらした話を一旦止めて、ビールを飲んだ。
今日、優子が政雄と会いたがっていたのは、離婚に応じないということを告げるつもりだったのか……。
政雄は先行きに黒い雲がもくもくと立ち上るような気がした。
「私としては、その……そうなったのには私の責任もあるので、ゆ……奥様がこのあとどうされるのかを確認したい気持ちがあったんですが、ラインはブロックされているようだし、電話も着信拒否になっているようなので……。思い余って一度会社に電話をしましたが不在で……その日の夜、すごい剣幕で私の携帯に電話がかかって来て、今度会社に電話をかけてきたら、私の家と会社に電話して全部ばらすって言われて……」
政雄には、目の前の気の弱そうな男に対して居丈高に振る舞う優子の姿が、容易に目に浮ぶ。
相田の話を聞いているうちに胃痛を感じ、不味そうにビールを一口飲んでからフライドポテトを一つ口に入れた。
「しばらくは連絡を取らないように努力をしたんですが、どうにも釈然としないというか、納得……そんなこと言えた立場ではないんですが、とにかく一度じっくりと話を聞きたくなって、今月に入ってから休みの日にお宅に行こうと思い始めて…」
「でも、俺がいると思いませんでしたか?」
政雄はどうしてこの気の弱そうな男が、家に押しかけるような暴挙に出たのかが不思議だった。
「本当に申し訳ございません。実は平日に何度か様子を窺いに来たことがあって……お宅の場所を知っていましたので、窓を見ていたんです。でも、奥様が帰るまで電気が点いていないので、あるいはご主人……はいないのじゃないかと……」
今度は、ちゃんと奥様と言えるようになったな……。
しかし、お前は興信所かストーカーかと突っ込みたくなったが、政雄は言葉を飲み込んだ。
「会ってどうしようと?あの性格だからいい結果にはならないと思いますが。俺が言うのも変だけど」
タバコを灰皿に押し付けて、政雄は相田を見た。
「恥ずかしい話なんですが……もう充分に恥ずかしいんですけど、家内に奥様とのことを感づかれてしまって。以前からうすうす怪しいと感じていたようなんですが、最近の私の挙動が異常だったので、半月前にこちらに来た時、家内に後をつけられていたようで……。帰宅するなり死ぬ程責め立てられて……精神的にかなりテンパっていて、もうどうでも良くなっちゃって、浮気というか不倫をしていることを認めてしまって……」
「えっ!認めちゃったんですか?それ、ヤバくないですか?」
「ええ、ヤバいを通り越して地獄です。でも、奥様のことは、迷惑をかけるわけにはいきませんので、頑として話していません……。で、その日のうちに家を追い出され、仕事に必要な衣類だけ持って、一旦ビジネスホテルに泊まったんですが……。今は船橋のウイークリーマンション住まいです」
政雄は文字通り尾羽打ち枯らした中年男を凝視した。
その中年男にかける言葉が見つからず、黙って苦いビールを飲んだ。
「今、離婚の手続きを家内が進めているところです。幸か不幸か子供がいないのと、あっちも働いていますので、離婚しても自立して生活できるでしょうし、家の他に慰謝料もたっぷり貰うと宣言されてますので……。むしろ私みたいなのと生活するメリットは何一つありませんから、渡りに船だったんじゃないですかね」
相田が顔を歪めた自虐的な表情で、初めて小さく笑った。
目の前のしょぼくれた男が話す内容が重く、政雄は気が滅入ってしまった。
この場でこれ以上相田の話を聞く気力がなくなったので、一旦店を出ることにした。
その後のことは、はっきりとは覚えていない。
どちらからともなく誘い合って、相田と数軒飲み歩き、どぎつい化粧をしたおばさんがママをしている船橋駅近くのスナックで、カラオケで歌った記憶がおぼろげにある。
どうやって帰ったのかは定かではないが、目が覚めたら大島の自分の部屋だった。
時間を確認するためにテレビをつけたら、朝の情報番組が映しだされている。
キッチンで冷えた水をたらふく飲んでから再びベッドに入り、蒸し暑さで目が覚めたのが昼過ぎだった。
その日は食欲はなく、当然、酒も飲む気にもならずに一日中部屋で過ごした。
そして日が変ってから浩之の家に行き、ことの顛末を面白おかしく話すつもりが、人生最大の誤算となってしまった。
※最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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