自転車とわたし

舞香峰るね

夏の水

 一心不乱にペダルを回し続ける。

 身体にあたる風が心地よかった。

 だけど前を見やると、無情な信号がせわしなく明滅していた。慌ててペースを上げようとするけれど、思うほどには足が回らない。そして信号は、夏の日差しにも負けない灼熱の色を灯した。

──サイアク……

 自転車を停止させると荒い呼吸を繰り返し、心の中で呟いた。

 小高い丘を越える坂道の中腹。せっかくリズムを刻んで登り続けていた脚を止めなければならなかった。信号がゴーサインをだしたら、待っているのは上り坂のゼロ発進、考えただけで足に疲労がたまっていく気がした。

 おまけにこの暑さ。ビンディングを外して地面についた左足に、アスファルトの熱気が伝わってくる。

──なんでこんな日に乗ろうって思ったんだろう。

──それは空が青かったから。

 今さら自分の行動を呪っても、まとわりつく熱気は変わらない。ポニーテールの束に納め損ねた髪が、湿った首筋に貼りついてうざったい。額から顔を伝って流れ落ちる汗が、顎の先でその動きを止め、やがて重さに耐えきれずアスファルトに滴り落ちていく。

 動いているときは気持ちの良い発汗も、止まってしまえば嫌なだけ。走っている時は気にも留めない蝉時雨が、心をせかしてくる。

──早く青になれ。青になれー。

 いくら念じても、この長い赤信号には届かない。身体にフィットするように作られたサイクルジャージが汗で貼りつき、身体のラインを浮かび上がらせている。中のインナー類もまた汗に濡れて身体に吸着し、その湿り気と風を受け続けたことによる冷たさで身体に不快感をもたらした。身体を覆う布をまとめてつまんで引っ張って、不快感から逃れようとするけれど、指を離せば勢いよく身体に吸い寄せられて再びぴったりと貼りついた。

──男子みたいに、胸元を開けられたらいいのに……

 首元のファスナーを右手の親指と人差し指でつまんで、見ている人がいないか左見右見とみこうみしたところで青になった。

「んー、えいっ!」

 小さく声を出し、ペダルに繋がった右足を踏みしめる。上がった反対側のペダルに慎重に左足を載せ、カチッと固定された音を聞き、そのまま踏みこんだ。左右に振られながら二、三回ペダルに力をこめる。ゆっくりと数メートルほど坂道を上がり、勢いが安定したところで、両足を回転させるリズムを整えた。

 その間、汗は顔を伝って流れ落ち、ポニーテイルは揺れて小さく首を叩きつけた。それでも動いていると空気の流れが感じられて、貼りつくジャージの不快感からは解放された。


 はぁはぁと大きく荒い呼吸とともに、ようやく坂の頂上にたどり着く。

 後は一気に駆け降りるだけだった。車通りも少ない切り開かれた下り坂。法面のりめんのコンクリートの上では伸び放題の雑草が歩道に飛び出して、影を落としている。そこを抜けると、田畑が広がる田舎道。

 後方を確認して、重心を少し前方に移動させて坂道を下る。

 スピードを出しすぎないようにブレーキで調整しつつ、風を受けての下り坂。前方、真っすぐ伸びた道の先に陽炎が揺らめいて、濡れそぼった大きな水たまりがみえた。

 ──逃げ水ね。

 平地に到るとペダルを回し、水たまりを目指す。

 なのに水たまりは遠くに逃げる。

 逃げ水との追いかけっこ。

 童心に帰ったかのように、心が躍る。

 だけど再び赤信号。かのように、踊った心はどこかへと消え、貼りつくジャージの冷たさを再び感じた。

 ビンディングを外し、地面に足をつく。

 荒い呼吸、真夏の熱気、草いきれ。

 襲い掛かる夏に、一瞬だけ頭がぼやっとする。

「もぅ……」

 小さくつぶやき、ダウンチューブのボトルに手を伸ばす。照りつける太陽と、アスファルトの輻射によってボトルの水もぬるま湯だった。水分をとっているはずなのに、余計にのどが渇いたような気がして、全身に疲労を覚えた。

 ──アームカバー、外したい。

 そう思ったが、過度な日焼けは嫌だ。せめて、冷たい水を飲みたいと、予定した道を外れて民家が並ぶ路地に入った。


 ゆっくりとした速度で、住家が連なる小径を行く。垣根越しに、夏の花が顔をのぞかせ、目を楽しませてくれた。その少し先、一軒の家の前の路上が、しっとりと濡れていた。

 ──あ、打ち水。

 心なしか、空気が涼しく感じられた。その濡れた路面を通ると、後輪が水を跳ね上げ、その水滴がお尻を湿らせたが気にはならない。ほんの少しの涼に、気持ちが和らいだ。

 田舎道ではスマホ決済が使える自販機は限られる。小さな工場こうばの入り口に、目当ての自販機を見つけると、ボトルのぬるま湯を両腿にかけて捨てた。少しだけ冷やされて、脚が元気を取り戻す。購入した水を二口ほど流し込み、あとはボトルに移し替えた。

 後は元の道に戻るだけだと、再び打ち水の上を通る。

 だけどどうしてだろう。今やそこにはにも似た蒸気が充満していて、思わず「うわっ」と小さく叫んだわたしは、そそくさと元の道に戻った。


 ──逃げ水、打ち水……次はどんな水かな。


 妙な高揚感の中で自転車を走らせた。

 道の先には鮮やかな夏の空。白い入道雲が浮かぶ。

 青と白のコントラストの中、道路沿いの緑の色艶も豊かに映る。アスファルト上の白線も目に鮮やか。ペダリングも快調で、感じる風もさわやかで気持ちがいい。

 その風に混ざって、小さな水が右頬に触れた。

 針の一点のような小さな水滴。でもそれは、火照った身体を一気に冷ました。

「え?」

 思わず吹く風の彼方を見る。暗い雲が湧きがっていた。遠くに見える青空は灰に侵食されつつあった。

「うそっ……」

 晴れと雨の境界線が、こちらに向けて移動しつつあった。田舎の一本道、雨宿りできそうなコンビニも、道の駅も雨のカーテンの向こう側。

 小さな絶望感。

 ──逃げ場はない。じゃぁ、どうする?

 どうせ濡れるなら進むしかなかった。


 大粒の雨が、バシャバシャとヘルメットを叩きつけて騒がしい。

 通気孔ベンチレーションを通して髪を濡らした雨水が、そのまま顔を伝っていく。打ち付けられて、全身ずぶ濡れ。チラッと胸のあたりを確認する。

 ──だいじょうぶよね。白じゃなくてよかった。

 そもそも透けるような装備をしていないことはわかっている。でも、つい確認してしまう。激しい雨にシューズの中、ソックスの中にまで水が溜まって不快感が高まっていく。

 分厚い雲に覆われて薄暗い。サングラスが暗さを助長するけれど、外したら打ち付ける雨に目も開けられないだろう。前後のライトを点けて、滑らないように気を付けて、歩くような速度でゆっくりと慎重に進む。

 跳ね上げる水で、お尻や内腿が叩かれて冷たい。

 ──後ろ、汚れてるだろうな。

 改めてジャージが白でなくてよかったと思った。

 崩れるの前提で最低限とはいえ、メイクもひどいことになってるんじゃないかと、どうでもいい心配。

 この状況でそんな心配しなくてもと、思わず可笑しくなって笑った。

 意味もなく開けてしまった口の中に大きな雨粒が入りこみ、「うみゃ」と意味不明なうめきをあげながらゆっくりと先を目指した。


 やがて雨脚は弱まり、何事もなかったかのような青空が戻ってきた。それでも、濡れた路面が今しがたの雨を物語り、陽光を浴びてきらきらと輝いていた。


 ふぅっと一息つく。

「雨上がりの虹、とかあると綺麗なんだけどな」

 声に出して不満を漏らし周囲を見渡す。もちろん、そんなに都合よく虹は出てくれない。

 立ち止まり、自分のひどい有様を見回す。ジャージの裾をつまんで軽く絞ると、ぽたぽたと雫が地面に落ちていく。もう少し先で方向を変えて、家に帰る予定のライドだったとはいえ、こんなんじゃもうどこにも立ち寄れないよねと確認。浸水し切ったつま先と、濡れて冷たいお尻がなんかイヤ。

 そこに風が吹く。雨との格闘で意外と熱った身体が鎮められ、冷やされた。

 そういえば、と自販機前の家を思い出した。

 ──せっかく打ち水したのに、通り雨きちゃったね。

 ふと可笑しくなった。戻ってきた高い青空から、入道雲がわたしを見下ろしていた。



  逃げ水 打ち水 にわか雨

   遠く水追う 夏の日に

  涼を求めて 打つ水を

   無情に消した 通り雨

  逃げ水 打ち水 にわか雨 

   入道雲が 笑う空


 

 路上の湿り気はすぐに乾いてまた熱を帯びていくだろう。想像するとげんなりする。でもこれもまた、ロングライドの一部で、楽しむべきところだと思う。

 ボトルの水を口に含んだ。

「おいしい」

 思わず言葉が出た。全身びしょ濡れ、なのに乾いていた喉を潤すその水に、心癒された。

 ──さぁ、行こう。

 貼りつくジャージの重さを振り払うかのように、わたしはペダルに力を込めた。

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