明日、君が死んでも泣かない

若葉たぬき

第1話

 講義が終わると待ってましたと言わんばかりに教室を飛び出す生徒がいる。何をそんなに生き急いでいるのだろうか。深瀬は走る彼らをよそ目に、わざとらしい緩慢な動作で教材を片付ける。「今日もバイトだ、サボってやろうかな」と隣の西村がこぼした。ほら早くしないと、俺がバイトに間に合わないから、と西村が指先で時計をポンポンと叩く。

講義が終わるといつも決まって2人で駐車場へ向かう。バス通学の深瀬に行く必要はないが、教室前で別れると西村がひどく寂しそうな顔をするものだから、いつもズルズルと付いて来てしまう。

「バイト先の後輩の女にさ、インスタ交換しましょうって言われてさ」

 うっすら笑みを浮かべながら、昨日は夜までDMをしたと嬉しそうに続けた。西村はよく嘘をつく。高校時代は学校一の美女と付き合っていたとか、地元で合コンをして金髪美女数名にアプローチされたとか。

 虚言だという確証はないのだが、自信なさげに目を泳がす時があるものだから、そう解釈している。今どきの風貌をして、おらついた流行りの曲を車で流す。大麻だの、地元の仲間だの、そんなフレーズが出るたびにいつも笑ってしまう。そんな癖して講義はサボらないし、育ちも良さそうなのだ。背筋はいつもピンと伸びていて、低俗な言葉遣いは好まない。芋臭い高校時代から目一杯努力して大学に臨んだのだろう。実のところ話の真偽はどうでもよくて、懸命に背伸びをしている西村を見るのがなんだか愛らしかった。

「じゃあまた明日な」

 小さく手を振る西村と別れバス停へ向かい、長蛇の列に並んだ。西村は女性を「女」と呼びがちだ。大学で一緒に行動していても異性と話しているのは見たことがない。話す内容はいつも異性絡みのことばかりで、コンプレックスの表れなのだろうか。そんな所に可愛さを感じてしまう自分はおかしいのだろうか。話していて楽しいかは正直わからないが、気疲れしないのは非常にいい。

 バスを待ちながら水筒を取り出して水を飲んでいると、後ろからリュックを軽く引っ張られた。慌ててこぼれた水を拭い振り返ると、見覚えのある女性が仮面を被ったような表情でこちらを見つめている。

「よ」

「あぁ、どうも」

 挨拶したはいいが一向に名前を思い出せない。まずいな、と思ったのが顔に出てしまったのか、「美優。グループワークの」と洩らした。二年半ばになっても未だに面識のない生徒は多い。さすがにそこそこのマンモス大学なだけはある。

「美優ちゃんもバス通学だったんだ」

「なんか、きも。美優でいいよ」

 彼女はおかしそうに笑いながらスマホを取り出すと、カラフルな爪のついた親指で弄り始めた。呼び捨て苦手で、と伝えたら「ふーん」と興味なさげに流される。

あぁ、苦手なタイプだ。交流の少ない自分に対してこの距離の詰め方。自身の品の無さで築いた薄汚いコミュニティだけで賞賛されるこの言葉選びで、自分をコミュ強だと勘違いしてしまった底なしの自信家。男の知り合いが多くてチヤホヤされるから、内面を過信しているのだろうか。その実、簡単に体を預けるから面倒半分でお姫様抱っこをされていると、気づけるほどの知能もなさそうで​───

「生きてる?」

 下に落ちていた深瀬の視線まで身を屈めた彼女と目が合い、はっとする。たった数回言葉を交わしただけで、邪推してしまった。悪い癖だと自分でもわかっている。ポケットに手を突っ込んで腿の肉をきゅっとつねり、戒める。

「じゃあ奥野さんって呼ぶよ」

「覚えてたんだ、うける」

 なにも面白くないけど、と喉元まで登った言葉を胃に返し、「もちろん」とほほ笑む。安堵の吐息と共に前へ向き直し、自制が効いた自分の喉仏を静かに労ってやる。そこからの待ち時間は言葉を交わさず、お互いスマホを触っていた。

 バスに乗り席に座ると、奥野が迷わず隣に座ってきたから、思わず声を漏らしてしまった。「なに、嫌なの」と眉をひそめたので、「別に」と体を奥へ押し込む。

「深瀬くんってなんか」

 何かを言いかけてわざと臭く言葉を止めている。そのまま明後日の方向を見てフリーズした彼女に「なに?」と問いかけると、「女の子慣れしてなさそう」と言いながらふっと笑われた。マスクからこぼれた息で彼女の前髪がふわっと宙に浮く。

「あんま慣れてないかも」

特段嫌な気はしなかったが、この親密度でこんな言葉をかけるものかと感心した。

「えー、サークルとか入ってないの。飲み会とかで話す機会、結構ありそうだけど」

「テニスサークル入ったけど、なんか合わなくて、半分幽霊。多分皆で行動するのがちょっと苦手なのかも」

 少し話しすぎたな、と思い小さく咳払いをした。

「じゃあ、私で慣れさせてあげよっか」

 奥野はその瞬間だけマスクを顎先まで下ろし、小さな八重歯を出してにっと笑って見せた。嫌な気持ちになる。微かに感じる目尻の痙攣が、さらに苛立ちを促進させる。今すぐ彼女との記憶を消して、目を瞑って眠ってしまいたい。「えー」と小さな声を出すと、「冗談じゃん」と言いながらスマホを突き出してきた。

 画面には大きくインスタグラムのQRコードが表示されていた。渋々スマホを取り出してフォロー欄に追加する。ありがとうと目礼すると、どういたしましてと返された。

 そこからは本当に他愛もない話をぽつぽつ交わすと、私ここだからじゃあね、と深瀬の一つ前のバス停で降りていった。なんだか酷く疲れた。バス停からアパートまでの脚が重たい。

「ひと仕事終わったら美味いんだって!最初は軽い気持ちで吸ってみるもんなんだよ」

いつかクローゼットの隅に投げ捨てた、銘柄も知らないたばこを思い出した。

 家に帰ってライターを探して、たばこに火をつけた。しかし前と同じドブの味がして、咳きこんでしまう。やっぱり、西村は嘘つきだった。


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