第七話「燕との交渉」


 東雲は走った。―――ひたすらに、とにかく走り続けた。

 息が上がるのを早く感じて、足を進める度に顔が険しくなっていく。運動不足の防止として週末は必ず走るようにしていたし、筋肉だってそれなりには付けていると自負していたが……甘かった。子供とはいえ、やはり人を小脇に抱えて走るなど長くは続かない。


 家まではこんなにも遠かっただろうか?やはり、狐に摘ままれているのではないか?――東雲は、右脇に抱えられ、連れ去られているにも関わらず全く言葉を発しない稲荷が少しだけ怖くなった。本当は狐に化かされていて、家に帰ったら漬物石に変わっていた……なんてことがあったりしないだろうかと。



 東雲の不安を察してか、稲荷がようやく口を開いた。

 「頑張れ人の子よ、もう少しであろう」

 「! ……ひ、他人事ひとごとだと思って呑気なことを! というか、何で俺の下宿先を知ってんだよ!」

 息を荒げて問う東雲に、稲荷はフンと鼻を鳴らした。

 「わたしは神様なのだぞ」

 「せ、千里眼ってやつか?」

 「そのようなものだ。わたしは其方そなたの考えなど、全て見通しておるわ」

 稲荷はフフンと口角を上げる。

 「ああ、そう……」

 「しかし……不思議じゃ。其方の過去だけは見ることができんのだ」

 力が半減しているからやもしれん、と稲荷は続けた。

 「勝手に覗くなよ……!」

 「まっこと、不思議じゃのお」

 うんうんと考え込む様子を見せる稲荷に対し、東雲は息を切らして苦い笑みを浮かべながら叫んだ。

 「それは……まあ、凄いんだけど……! ぜぇ、はぁ……余裕があるなら自分で歩いてくれよ……!」

 「ふむ、あまり体力は削りたくなかったが……致し方ない。人の子よ、わたしが応援してやるのだからな。今から其方は百人力となろう」

 「元はと言えば、誰のせいだと……。ぜぇ、ぜぇ、それに……俺は人の子、じゃなくて! 東雲だ……っ!」

 東雲は息も絶え絶えに言った。

 「あい分かった。では東雲、決して足を止めるでないぞ」

 「え? ……ぅわっ!」

 稲荷が人差し指を軽く振るうと、びゅうと音を立てて追い風が東雲の背中を前へ前へと押していく。



 東雲が言われた通りに足を走らせ続けると、瞬間移動でもしたのかと錯覚を起こす程、あっという間に下宿先のアパートの前に帰っていた。―――辺りを見回すと、いつの間にか夜は正午へと逆戻りしており、確認のためにタップしたスマートフォンの時計は、その日の午後十二時を表示していた。

 「あら、東雲くん。お帰りなさい」

 早かったのね。そう笑顔で声をかけてきたのは、大家である燕であった。つい先刻話したばかりだというのに、東雲はとても久しい再会のように感じた。現実世界に戻って来たことに安堵して腰が抜け、その場に尻もちをついた。

 「よ、良かった……戻って来られたんだな……」

 「あらあら、どうしたの。……あら?」

 東雲が地べたに座ったのを不思議そうに見た燕は、小脇に抱えている存在に気付くと、更に近付いて覗き込んだ。

 「まあ! 可愛らしい子ですこと」

 「え? あ、こいつは……」

 「稲荷だ」「お、おい…!」

 「東雲くんにこんな可愛らしいお友達がいるなんて。初めまして、私はつばくらです。このアパートの大家をしているの。……でも不思議ねえ。私はあなたと今日初めて会ったのに、何処かで会ったことがあるような気がするの。何故なのかしら?」

 うふふ、と笑って燕が言った。


 「、わたしはお前を知っているぞ。幼い頃から良く見ていたからな」

 「あらまあ、うふふ。そうだったのね」

 「ところでつばめ、頼みがあるんじゃ」「なあに?」

 「わたしも今日から東雲の家で世話になることになった。よろしく頼むぞ」

 「は!? ちょ、何を勝手に!」

 「まあ、そうだったの! ごめんなさい、私ったら知らなくて……何か困ったことがあったら、いつでも頼って頂戴ね」

 「あああ、次から次へと……!」

 混乱する東雲を他所に、二人の話は盛り上がっていく。稲荷は、「アパートつばめ」に居座る許可をあっさりと得てしまうのであった。

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