誰かといる

@rabbit090

誰かといる

1

 死にたがり、そんな言葉が僕にはしっくりくる。

 ああ、何でだろう。なんでこんなに今、僕は。


 幸せなんだろうか。


 「お父さん、急いで。」

 「ああ、分かった。」 

 「やっぱりゆっくりでもいいよ。」

 「何だよ、それ。」

 娘は笑っていた。私も笑ってしまう。今年5歳になる娘はそろそろ小学校に入学しなくては、でも私はこんなに愛おしい娘を不躾な奴等しかいないであろう社会へと向かわせたくはない。

 本当に、これが親バカってやつなのかな。

 「じゃあ、行こうか。」

 今日は、妻を誘ってピクニックへ行くことにしていた。僕も妻も仕事がフルタイムだから、いつも娘は妻の母親、つまり祖母に預けているのだ。

 「おばあちゃんは?」

 娘は、すみは、極度の祖母っ子だった。でもそれも仕方がない。だって祖母は、八重やえさんは人の面倒を見ることに長けていて、とにかく嘘八百を適当につくことなどない真っ当な人だった。


 つまり、つまり僕は今とても幸せなのだ。

 恐ろしい程、幸せだった。

 だけど、ただ一つ懸念点があるとしたら、僕は今まででの人生が、歯車がよく回るように上手く行ったことが一度もないということだけだ。

 生まれて、物心がついた頃には施設で暮らしていたし、大人になってもお金がなく多くの挫折を経験してきた。

 幸せだったことなど、一度もなかった。

 妻に出会うまでは。

2

 妻は、初絵はつえは優しい女だった。見るからに荒ぶっている僕を、彼女はただ笑って受け入れた。どうしてそんなに何でも、彼女は拒絶せず受け入れられるのかずっと疑問だったけれど、ある時教えてくれたのだ。

 「りん、私ね。ずっと虐められてたの。学校で、馴染めなかったの。だから、私はこんな感じだから、ねえ。なんで付き合ってくれてるの?」

 それは初めて二人で旅行に行った時のことだった。何かすごくテンションが上がっていたし、無意識の内に初絵はいつもより積極的だった。普段だったら黙って笑っている場面で、だって彼女は怒ったのだから。

 「どうしたの?」

 僕は驚いていた。

 だって彼女は爪を噛み顔を歪めていたから。

 「…わかんない。でも何か、気分が悪くて。」

 彼女の言葉は至って素直だった。いつもなら、きっと遠慮して口にすることさえないはずなのに、その日の彼女はやっぱりどうかしていたのだ。

 僕たちは、寄ったカフェでお茶を飲んでいた。

 そして近くには年齢が同じ程の派手な女性が連れ立って座っていた。

 派手、男である僕からすれば別に大人が派手らしく着飾った所で不穏な気持ちにはならない。でも、彼女は違った。

 彼女は言ったのだ。

 「ダメ、すごく嫌なの。同い年の子を見ると、苦しい。馬鹿だよね、でもそう思ってしまうの。馬鹿だけど、私は歪んでいるの、だから。」

 彼女は泣いていた。

 ボロボロと、消えない涙を流し続けていた。

3

 何で、とは思っていた。

 不思議に思うことはいくつもあった。

 まず、彼女には、初絵には友人がいない。

 僕たちはたまたま同じ大学を出て、最終学年になった時、同じゼミを取っていて出会った。僕がその時4年で、彼女は一つ下の学年だった。

 初めて見た時は、何て地味な女なんだろうって驚いた。だって、僕らはみな派手で、着飾っていたから。僕たちは、皆酔っていた。今思えばそうなのかもしれない。たいして、本当にたいして下らないことで悶々として、それをネタに議論を交わしあった。

 ネタにされている当事者が、どんな気持ちで現実を生きているのかなんて、多分一切考えていなかったのだ。

 だから、ある時。

 「それ、私のことなの。面白い?」

 僕たちは社会学という、社会全般について考える学問を専攻していた。

 その中でも、その時はとりわけ芸能スキャンダルが相次いでいたから、たまたまずっとワイドショーのネタになっていた不倫カップルを話題にしていた。

 「あいつら、ヤバイよな。家族とかしっかりいるのに最低だろう。」

 「なあ、てか年の差20歳って、その女どうかしてる。」

 「しかもほとんど俺たちと同じ年齢なんだって。」

 「ヤバ。」

 そんなことを大声で、罵り続けていた。

 僕たちは講義室の中に充満する人が発した熱気を、暑いとも思わず浮かれていた。

 だから、気づかなかった。

 僕らは、普段の僕らは至って紳士だったのに、バイト先でも評判が良く、絵に書いたような好青年でいられたはずなのに、講義室の隅でうずくまるように耐えている、ちっぽけな女の子の存在にすら、気づいてはいなかった。 

 「それ、私のことなの。ねえ、面白い?」

 彼女の顔は至って冷静だった。冷たくて、鋭かった。僕たちは、だからそのあからさまな軽蔑を表する視線に耐えられなかったのだ。

 「は、お前?えもしかしてお前がその大学生だっていうのか?」

 仲間が、そう口を割った。そいつは普段はとても良いやつなのに、少し気が弱いところがあった。

 「………。」

 彼女は何も答えない。ただ、黙ったまま僕たちを見て、自分の席へと戻ってしまった。

4

 「あいつヤバいな。」

 「ああ、何か薄気味悪い奴だったけど、てか普段から存在感が薄すぎて俺今まであいつのこと知らなかったわ。」

 「だよな、俺もそうだよ。」

 仲間は口々に彼女を悪く言っていた。僕も、どう反応していいのかは分からなかったが、ただ単純にこんなに空気を悪くしやがって、という身勝手な思いにさいなまれていた。つまり、僕らはいたって子供だったのだ。けれど、もう二十歳を超えていて、そんな言い訳が通用するはずもなく、僕はしばらく一人になった途端ふさぎこむという生活をせざるを得なかった。

 「ちくしょう…。」

 夜眠れなくて、朝が早いのに眠れなくて、僕は無意味にただ八つ当たりの言葉を空に吐いた。

 そんな僕と初枝だったが、何がきっかけで関係を深めたのかって?

 そもそも、僕だって大学に馴染むために必死に努力をしていた。普通になるために、普通であるために、死に物狂いで生きていた。そんな時、見てしまったんだ。いや、正確には見られてしまった。

 僕は初枝の姿を見つけた。初枝はその、不倫相手である男と楽しそうに笑いながら歩いていた。あまりにも幸せそうに笑っているから、正直軽い嫉妬を覚える程だった。そして、かくいう僕もその時、しっかりと初枝に目撃されていた。

 「………。」

 初枝は、僕を凝視していた。その目はクールで、でもあまりの冷たさと、そしてそれが良く似合う初枝の顔の端正さに気付いてしまって、僕はうろたえた。

 「あ…。」

 すごく近づいてしまった時に、僕は初枝の方を見た。

 僕は、見られてはいけない場面を目撃されていたのだ。

 僕は、母親に殴られていた。

 母親、施設で育ったはずの僕に、母親はいない。けれどいるのだ。僕が大人になったことを知って、会いに来た。最初はうれしかった。ずっと世界の中で僕は一人ぼっちなんだから、だから全てを望むことはできない。これはずっと、自分に言い聞かせてきたことだった。けれど、ある日大学が終わって、バイトへ行こうと支度をしていると、母親と名乗る地味な女が現れた。

 「あなた、燐でしょ?」

 僕は相当うろたえていたのだと思う。しゃがみこんでしまって、上手く口が回らないことをもどかしいと思いながら顔を少し上げると、そこには鏡で見た自分とよく似た大きな目をした女がいた。

 「私、お母さん。分かる?」

 分かるわけがない、とその時は思った。けれど、次第に頭を撫でられていることに気付き、そうか、僕はこういうことを欲していたんだ、と思った。

 ただ静かに優しくされて、そうやっていれる。安定した場所。

 けれど、

 「私、お金に困ってるの。助けて。」

 場が和んだと解釈したのか、母親だと名乗る女は、ずいぶん尊大な態度をとって、そうのたまった。

 「…え?」

 僕は、事態が上手く呑み込めなくて、優しくなでられていたその時と今のギャップに順応できなくて、素っ頓狂な声を出していた。

5

 「だから、ごめんね。いきなり現れて、びっくりしちゃうよね。でもね、私お金が無いの。分かる?ねえ、だから。」

 そういうその人の顔は陰っていた。影を隠すことができず、ただ必死すぎるその表情がみっともなかった。みっともなさ過ぎて、僕は見たくなかった。

 多分嘘じゃない。どうやって調べたのかは分からない。けれど直感で分かった。僕が持っているこの顔のパーツが一体どこから来たのか、それを初めて知ってしまった。世界でたった一人、この人はたった一人の肉親なのだと、はっきりと理解してしまっていた。

 はずなのに、なぜ殴られたのかは分からない。

 分からなくてまた素っ頓狂な声を出してしまって再び殴られた。

 そんな場面を、あいつに見られた。

 僕はだって、目の前の異星人の様な母に圧倒されていて、とにかく周りの状況をちらちらと見ていた。

 そんな時、あいつを見つけて、何か、何か別のことに集中していれば僕の関心は必然的に他に向かうはずだと思って、とにかくそう思ってあいつを見続けた。

 「………。」

 言葉は出なかった。ああ、あいつも色々あるんだな、なんてくだらない解釈でその状況をまとめようとしていた。

 なのに、「ちょっと、何してるんですか?大丈夫、行こうよ。」

 初枝は僕だけを見て、ものすごく興奮した目の前の女を完全に無視し切って、自分と連れだって歩いていた親父を放ぽって、ただ僕だけを見ていた。

 冷たいと思っていた視線は、むしろ真摯さを強調しているようで、僕の感情は吸い取られていた。

 何にしても僕らは、僕と初枝は、お互いだけを見て、逃げた。

6

 「逃げちゃったね。」

 「お前、逃げちゃったね、じゃないよ。何してんだよ。てか良いのか?あのおっさん、芸能人だろ?週刊誌でも話題になっている、ホントに良いのかよ?」

 「良いのかって、しつこいよ。良いわけないじゃん。あの人は私の恋人だから、もうダメだね。だってあの人、プライドが高いから、こんな風に置き去りにされたらきっと怒ってる。ううん、怒るどころかとことん徹底的に私を見捨てるはず。私が一番傷つくように、画策するはず。最低じゃない?」

 初枝はそう言って笑っていた。お前、馬鹿だろ?そう口から出かけたが、口から出かけたはずなのに、僕は彼女を撫でていた。

 「何してるの?私、犬じゃないんだよ?アホみたい、あは。」

 初枝は無邪気だった。意味もなくたいして親しくもないほぼ初対面の男に勝手に頭を撫でられて、犬のようにうれしそうだったのだ。

 「いや、さっき。あの人、僕が殴られてたじゃん。その人、僕を殴ってた人。」

 「うん、うん。分かるよ。お母さんなんでしょ?自分のこと、お母さんて言いながらあなたのこと殴るの、私見たから。」

 初枝の言葉は残酷だった。どうして、彼女はこんなに素直なのか、もっと忖度をして、自分も他人も傷つけない言葉を覚えればいいのに、そう思ったけれど、今僕は、今僕はこの初枝のあけすけとした魅力に救われていることに気付いてしまったのだ。

 それからは、展開が早かった。

 初枝も、僕もすぐに親しくなって、当然のように恋人になり結婚までことを進めることができた。

 ドラマチックな出会い、そしてその先に待ち受ける幸せ。

 全てが完璧だった。そして僕は完全に幸せになってしまっていた。

 初枝の弱さ、初めての旅行で垣間見た彼女の全て。さらけ出されたらもう止まれない。初枝は本当に完璧な女だった。この女を知ってしまったら、きっともう戻れない。僕は、こいつを愛することでしか、この先の人生を生きていけないということを早くも悟ってしまったのだった。


 初枝は、とても歪んでいる。出会った時から思っていた。いや、正確にはよく知らなかったけれど、変わった女だなとは思っていた。かくいう僕も立派な生い立ちは一切なく、何とか奨学金を得て三流大学に滑り込み就職もギリギリ通った。良かった、僕の不安定な人生はもう、終わりを告げても良かったのだ。

 けれど、

 「燐、純がね、燐、純がね。」

 初枝は、一人で育児をすることができない、そういう類の女だったのだ。まず、友達がいないから同性に相談することができないし、母親の八重さんはしっかりした人だけど、でもずっとそばにいるわけにはいかないのだ。初枝が一人で、抱えなくてはいけない部分がそれはしっかりと存在していて、でもできない。

 例えば純がまだよちよち歩きだった頃、段取り良く世話をすることができず、結局何もせず泣いているところを見つけた。僕は仕事があったから、つまり遅くに帰ったんだけど、初枝はぼんやりと涙をこぼしながら純を避けていた。

 純は、僕が寝かしつけた。帰った直後は純は、それはもうたいそう泣いていた。初枝は、どうしたらいいのか分からない、とだけ言っていた。

 純は、結局仕事をしていた八重さんがしばらく引き受けるということになった。それ程、初枝は追い詰められていた。

 そしてそのかいあってか今5歳になる娘は、純はすくすくと成長を続けている。すごく健やかに、初枝にもきっちり懐いていて、その姿を見るたびに良かったな、と僕はとても和んでしまう。

7

 初枝は、純が5歳になると同時に社会へと戻った。大学を出て、そもそもこんな企業に就職できるのか、という程の大きな企業に総合職として入社し、かなりしっかりと業務をこなせていたらしい。

 なのに、ある時彼女が呟いて、「やっぱり辞めたい。」そう言ったのだが、全く何を辞めたいのか見当がつかなくて、は?と一言素っ頓狂な返しをすることしかできなかった。

 「何を?」

 もう一度しっかり聞かなきゃと思って振り返ったらすでに初枝は辞表を作成し始めていて、もう夜で僕も仕事があって疲れていたからただ黙ってそれを見ているしかなかった。

 初枝は、その後辞める理由には一切言及しなかった。僕も聞こうと思うたびに聞きにくくて、初枝はそもそも何一つ語らなかったのだから、自然と言いたくないことなのだろうと解釈していた。

 けれど、今。

 「私、やっぱり仕事に就く。大丈夫、ツテはあるの。前いた会社がリターン就職に積極的で、ちょっと話してみたら良いって、戻ってきたらって言われたの。」

 そう朗らかに笑っていたが、僕も初枝は育児には向かないし何か違うことをした方が良いとは思っていたけれど、「お前、結局何で辞めたんだよ、仕事。」それが積もり積もった疑念の発露として、まず発してしまった一言だった。

 それなのに、「え?知らなかったの?私が虐められてたってこと、上司じゃないわ。同僚でもない、年上のおばさん。だってその人と上手くやれなくて、すごかったんだもん。些細なことをずっと積み重ねていて、そうだよ。些細なこと、些細なことだけど、分かりやすく他人を傷つける嫌がらせ。十分な理由があったの。でもその時の上司が采配してくれて、そのおばさんとは違う部署に就けるんだって。だから、良いとおもうのよ。」

8

 「分かった。」

 僕はそれだけを言葉にした。それだけで良かったのだ。僕は今、幸せだから。

 初枝が女同士の関係が極端に苦手だということは知っていた。そもそも、僕が初枝と知り合って、彼女のそういう所はいくつも見てきたから。

 「初枝、大丈夫か?」

 「…うん。」

 彼女はただ薄く笑うだけだった。すごく好きな女が苦しんでいるところを見ると僕の心は荒立った。荒立って、何とかしなくては、と思い何もできなくてただ彼女を抱きしめる。そんなことの繰り返し、そうだ。そうだった。

 でも、現実はしっかりと前へ進んでいくだけで、初枝はその会社へと通うことになったのだ。

 

 幸せ、この言葉以外で今の生活を形容することができない。

 はずだったのに、なぜだろう。僕は今すごく死にたくなっている。それは例えば、妻の母親の八重さんが純のことを迎えに来た時とか、何で親じゃなく祖母が、なぜ孫の世話をさせられているのだろう、そんなこと。例えば、妻の会社で飲み会があったとか、そんなこと、何で早く帰ってくることを優先しないのか、という苛立ち。

 なぜ、なぜ。なぜ僕はこんなにも幸せなはずなのに、分かっているのに満足できないのだろう。そして、いつもその感情に縛られて何もすることができなくなってしまうのだ。

 ああ、今こんなにも幸せなのに、なぜ僕はいつも不幸なのだろうか。

 何が足りないのだろうか、考えても全く分からなかった。

 分からないままでいたかった。できれば、僕と彼女が出会ったのはそんな時だったのだから。

 もう一度、言った方が良いのだ。僕には、妻がいて、娘がいる。僕は今とても幸せだ。確実に幸せだ。最愛だと断言できる妻と娘がいて、そして仕事もあるし食うにも困らない。言ってしまえば家だって持っている。ローンを組んで郊外の中でもさらに郊外に当たる様な価格の低い住宅街に家を買えたから。そもそも会社が郊外にあって、妻も僕も、だからそこからより郊外のほぼ田舎といっていいような場所に家が買えるのだった。だからまた言ってしまうのだ。僕は幸せなんだって、僕は幸せなんだ。

 幸せなのに、もう謝ることしかできない。

 僕は今、家族以外の人間を、深く愛してしまっている。

 人生の中でこんなに他人を大切だと思うことがあるなんて、知らなかったんだ。

 「燐さん。」

 湿った声でそう呟くのは、

 「佳永子かえこ。」

 「…好き。」

 佳永子は変わった女だ。ずっと小説を書いているという。そんな女は実はすでに知っていたが、というか大学では小説研究会に所属していて、周りにはそんな女ばかりだったから。

 佳永子、佳永子は異質だ。

 佳永子はいつも、僕の心を湿らせた。

9

 佳永子、二波田佳永子にはだかえこはいつも泣いている。なぜ悲しくもないのに涙が出てくるのか、幼い頃から全く分からなかった。

 「あんた、なんで泣いてんの?」

 高校生の時、町でブラブラと歩いていたらかなりのオッサンに声をかけられた。アタシはもちろん警戒したし、そのオッサンもオッサンで、オッサンなりに若い、しかも制服を着た明らかに未成年の女に声をかけてしまったことを後悔している様子が伺えた。

 彼の手足はウズウズと動き、表情はぎこちない。

 「…別に、何も無いんだけど、昔から体質でこうなっちゃうの。なぜかは分からない。」

 あまりにも目の前の善良そうなオッサンが哀れに思えてしまって、つい本音をポロリとこぼしてしまった。

 そしたら、オッサンは急にほころんだ顔をして、こう言ったのだ。

 「ああ、そうなの?そういうこともあるのかもね。おじさんもこれだけ生きてきたのに、まだ知らないことばっかりだから、へえ、と思っちゃうね。」

 へえ、ってなんだよ。

 アタシはそう思ったけれど、でも少し口を開いて、心を開いた私に彼は安心した顔を向けていた。

 心配だ、と思って話しかけるという行動を、彼は実行できる人なのかもしれない。

 そういう人を、アタシは知らなかった。

 アタシはずっと飢えていた。誰か他人が与えてくれる肯定をずっと待ち望んでいたことに、気づいてしまったから。

10

 誰か、それはきっと誰でも良かったわけではない。誰でも良いのならば、アタシは多分この持ち前の美しい顔を駆使して既に誰かを、もうとっくに見つけていたはずだから。

 生まれた瞬間は、それはきっと母親なのだろう。けれどアタシには、アタシにはアタシを受け入れてくれる母親がいなかった。

 母親も、母親を大事にしているアタシの父親も、その家族、祖母も祖父も、アタシを揃って忌んでいた。

 理由を、ずっと考えていた。アタシは、別にワガママではなかったと思うし、特に変わった子といった風情もなかった。だけど、ただ母親が、静江しずえがアタシを嫌ってた。

 顔も見たくないのに毎日会わなくてはいけないクラスメートのように、アタシ達はずっと、ずっといがみ合っていた。

 何より物心がついた時からその状態だったのだから、アタシは八方塞がりで、アタシはアタシ自身を忌んでいた。

 その頃からだったのだと思う。

 気付けばアタシは泣いていて、最初はもちろん悲しかったから、でも次第に悲しくなんてないのに涙が出てしまって困った。

 毎日が困惑することの連続で、もう何がなんだか分からなくなっていた。

 そんなことを、ずっとこの目の前にいるオッサンに話している。オッサンは、でもただ黙ってアタシの話に耳を傾けていた。

 アタシとオッサンの間にはオッサン一人分の間隔が空いていて、アタシにはその距離感が妙に心地良かったのだ。

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 「オッサン、あのさ。聞いてくれてなんかすっきりしたんだけど、オッサンは?何か白シャツにジーパンでオシャレに決めてるけど、無職でしょ。」

 アタシはずいぶん失礼なことを端的に述べていた。そして、オッサンはオッサンでとても変な奴だった。そもそもアタシがオッサンを完全に警戒しないで話を聞いたのは、きっと漂ってくる妙な気品のような物のおかげだろう。

 オッサンは見たところ40代だが、とてもイケていた。イケていたというか、何か惹かれるというか、顔は割と整っていたけれど、何ていうか美しかった。最低でも、アタシはそう感じていた。

 「オッサン、何でそんなに顔しかめてんの?」

 アタシがはっきりと言ってしまった言葉に、彼はただ頷いた。

 「昔からの癖みたい。治らないんだ。眉間にしわが寄ってしまって、気弱に見えるって、別れた妻に言われた。」

 「え、奥さんいたの?まあでもそうか。もうオッサンだもんね。しかも黙ってればイケメンなんだから、そりゃいるか。」

 アタシは少し、胸がうずいた。この人にはもう、愛した人がいたということだ。その事実がなぜか、オッサンなのになぜか、アタシは少し傷ついていた。

 「そっか、そっか。」

 「そうだよ。おじさんはね、だけど今一人きりで、ごめんだから君に声をかけたのかも。何か、辛そうだったから。」

 「そう。でもさ、オッサン。アタシは佳永子っていうの。オッサンは?」

 アタシは単純に、知りたかった。彼の名前を、彼の全てを、彼の何かを、包みたかった。オッサンじゃんっていう心の声は、もうどこか何か、価値のないものへと変質してしまっていた。

 「俺は、」

 瞬間、電撃のようなものが走った。俺、そうか、この人の一人称は俺、なんだ。周りにはそんな男がいっぱいいるのに、このしなびたオッサンが口にすると途端に色を持つ。多分それはアタシにとって、なのだろう。

 「俺はなあ、重次じゅうじ繁重次しげじゅうじっていうの。変な名前って、よく言われる。」

 ああ、そうか。アタシは今とても狂っている。狂っていると思う程、喜んでいる。目の前のただのオッサンの名前を知れただけで、アタシの全身は波打っていた。

 ドクン、ドクン。

 「何、そんなに驚いた?いやあ、驚かせちゃったな。ごめん、でも君と、あ、佳永子って呼んでいいの?じゃあ俺は重次って呼んでよ。」

 そう言われてアタシが黙っていると、

 「あれ?ごめん嫌だった…?」

 彼は済まなさそうな顔で即座にそう言った。

 「嫌じゃない、平気。」

 これはアタシのその時のアタシの精一杯の言葉で、

 「そうか、良かった。何か君とは気が合うし、俺暇だし、昼間にこうやって町で一緒にぶらつくくらいだったら良いよね。俺、今すごく楽しいから。何か、」

 何か、何?

 「何かさ、ごめん。こんなこと言ったら変態って言われるのは分かってるんだけど、」

 彼の言葉も表情も、ただの年下の可哀そうな女を、いや子どもを可愛がるような口調で語られていた。

 「妻と、いや元妻と出会ったときみたいだなあ、と思って。純粋に会話を楽しめる、魔法みたいな時間だったんだ。」

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 へえ、と思った。アタシも、そうだから。今日初対面でただ話しているだけなのに、何か初めて会ったって感じがしない。他人なのに、他人じゃない。

 ああ、そうか。

 「兄妹みたいだね。何か、すごく関係が上手く行っている兄妹みたい。」

 「確かに、そう言われればそうかも。君、佳永子は言葉を遣うのが上手いんだね。あ、と思ったよ。言われてみればそうって感じ。」

 「何それ、でもそう言われたら恥ずかしいけど、何か初めてすごく褒められたのかも、変な感じよ。」

 重次は、ホントに変わったやつなのかな。

 街中で、平日の昼間っから女子高生に声をかけてぶらついてる、一見すればやばいやつだけど、話してみればそこら中の誰より私にとってはまともだった。

 「ねえ、重次は普段、本当に無職なの?そうは見えないから、だって思ったよりずっとちゃんとしてて、すごく疑問なの。」

 「うわ…うわ。ちゃんとしてるって近年久々に言われたよ。俺はね、一応働いてる。食い扶持をつなげるくらい最低限、だからまあ社会人って言っていいんじゃないの。でもさ、仕事が局所的で時間余るんだ。でも、そうなってみて気づいたんだけど、人って何かしないとなんか、ダメなんだ。だから俺は、外を歩いてる。今はそれが一番良くて、これからは何か変わっていくのかもしれない。」

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 重次の言うことはよく分からなかった。けれど、重次の目はしっかりと前を向いていて、はっきりと着実な重みを称えている。

 「それより、あのさ。今度も会おうよ。」

 アタシは思い切って口を開いた。

 重次からすれば何を言っているんだ。こいつはどうかしちまったのか、頭が、おかしいんじゃないか、なんて思われても仕方が無いと思う。でも分かってる。重次もアタシも分かってる。

 また、会いたいってこと。


 「なあ、何で俺のこと、嫌がらないの?」

 重次はぽかんとした顔で空を見ている。彼は車を運転することが好きで、アタシをよくドライブへと連れて行った。

 「そうだな、俺ばっかり質問してておかしいよな。」

 重次は運転している最中、とにかく饒舌になる。普段は割とぼんやりとしているのに、キリっとした目を光らせながら若干危うい運転を駆使している。

 「危ないよ。」

 アタシはどきりとした。危ないのは、目の前を歩く歩行者でもなく、横を通り過ぎる自転車でもなく、前を走る四輪でもなく、重次だ。

 「これはダメっていったじゃん。」

 重次は、ずっと薬を飲んでいる。聞いたら、妻と別れた時から薬を飲まないとやっていけなくなったのだという。

 「悪い。佳永子の前では呑まないって決めたのに。何言ってんだ、何やってんだ、俺。」

 そういう時の重次は、ひどくもどかしそうな顔をしている。

 もどかしいけれど、できない。止められない。それを見るたびにアタシの胸はうずく。たった一人を見るために、アタシはいつも不安を孕んでいるのだ。

 「いや、無理してって程じゃないの。でもさ、何で、その薬、依存性でもあるの?」

 すごく疑問で、聞きたいことだった。重次が手放せないその薬、その薬には何か良くないものでも入っているんじゃないか、飲むから良くないんじゃないか、そう思っていた。

 けれど、「違うよ。俺が、手放さないだけなんだ。飲まないとだめなのはそうなんだ。でも、俺は飲まなくてもいいのに飲み続けている。医者も、症状を訴えると嫌々処方してくれるんだ。俺の収入は、だからこの車と薬で、ほとんど消えちゃうんだよなあ。」

 「馬鹿じゃない。」

 「はは。」

 笑っている。けれど笑い事ではない。重次は売れないバンドマンなのだ。いや、正確にはバンドマンだった。今は一人きりで歌を歌い、昔からの、本当に昔からのファンだけがお金をくれるのだという。

 「でも良いじゃない。音楽だけでそんなに稼げたら、それってすごいことだと思う。」

 アタシは素直にそう思っていた。だって、それって、あなたの音楽は認められているってことだもの。少しでも、多くじゃなくても、それは立派なのよ。

 「いや、うん。俺バンド組んでた頃はずっと不安だった。何が不安っていうより人と関わりながら自分を通していくことが難しかったんだ。でもそれがバンドの良さで、でも俺たちは解散しちゃって、だけど辞めてみたらすっきりしたんだ。ああ、こうなって良かったのかも、って思った。それに俺にとって音楽って、呼吸することと一緒なんだ。俺が俺になっていくには、ただ音楽が必要で、だから辞められないんだよね。」

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 へえ、と思ったけれど多分アタシはイマイチ理解していなかったのだろう。本当に共感を持ってそうだねと頷けるのはもっとずっと先のことだったのだから。

 その時は、だから。

 「アタシには分かんない。それ聞くと重次って大人なんだなって思う。」

 「大人って、そりゃそうだろう。佳永子も初めて俺のこと見た時、オッサンって言ってたじゃん。」

 「そうだっけ?」

 「そうだよ、忘れたの?」

 アタシはとぼけたフリをしながら適当に笑った。

 そしたら重次もつられて笑っていた。

 「それよりさ、また山に行くの?人いないし俺ヤダよ。」 

 「アタシは海が嫌いだから。海なんて、見たくないの。」

 どこへ行く?と聞かれて好きなところでいいと言われたけれど、ドライブの定番は海だよねと笑われたけど。

 「海で溺れたの、だから行きたくないんだってば。」

 アタシにとっては何一つ笑いごとなどではなかった。笑えることじゃないから、笑ってしまうのだ。

 「…ごめん。そんなに嫌だって思わなかったんだ。」

 重次はやたらと神経質で、でもだからよく誰かの気持ちに気づいている。

 アタシは、泣いていた。

 泣くつもりはなかったのに泣いてしまっていた。

 それに気づいたのはアタシじゃなくて、重次だったのだ。

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 「ごめん、泣かせるつもりなんて無かったんだけど、ごめん。」

 重次は、本当にうろたえていた。どうしてそんなに、アタシなんて他人なのにそんなにうろたえるの?ねえ、どうして?

 「…泣いた理由、聞かないの?」

 でもアタシの口から出た言葉はそんなことだった。

 「聞けないよ。」

 重次の声があまりにも強くて、「え?」と言いながらつい横を見てしまった。

 「泣かせるつもりなんて無かったんだ。俺は、佳永子がそんなに嫌だったなんて、思わなかったから。」

 「いや、そんな。だって、アタシはただ海が嫌いってだけだから。怖いってだけ、他には何も無いのよ。」

 「…本当か?」

 「本当。」

 「だって、急に泣くから、きっと嫌なことがあったんだって、思うだろ?」

 「いや、別に。そんなに深刻な話じゃないの。ただ、死ぬ手前ではあったんだ。小さかったの、だからあんまり覚えて無くて当たり前なんだけど、大人になっていく内にね、だんだん思い出してきているの。それが、怖くて。水が口の中から入って、でも誰も気づいていなくて、怖くて。みんな誰も悪くなんて無いから、だから誰を恨めばいいっていう話じゃないし、だからアタシ。」

 「…だから、だから佳永子はこうやって町をぶらついているんだろう?何も無かったら、君みたいなまともな子、同級生と仲良く楽しくしているのが一番しっくりくるから。」

 まともな子、アタシはそれをずっと聞きたかったのかもしれない。でも、行っていたのに、学校では下品な子だと蔑まれた。あなた、下品よ。始まりは担任教師がやたらと怖い女性で、アタシのことを疎んでいた。それまではみんなと仲良くやれていたはずなのに、なのになぜ?アタシは知らない間に卑屈な女になっていて、もう元には戻れなくなっていた。


 ずっと思っていたことがある。

 私の中には何かが眠っているってこと。それは、奥深くでうずいていて、たまにふとした瞬間に顔を出し始める。

 「お姉ちゃん、何で怒ってるの?」

 私より10個も下の妹は、そう言いながら困っていた。きっともう大人に見える私が不安げな顔を崩さなかったからなのだろう。それくらい、私はすごく追い詰められていた。

 「怒ってなんかいないのよ。」

 「ああ、うんそうね。」

 母はおざなりにそういうだけだった。私は、どこかがおかしいのだろうか。どうしてもざわざわとした感情を抑えられなくて、でもその状態がきっとおかしくて、周りの人からも気づかれているようだった。

 「志賀子しかこはさ、別にそれでいいんじゃない?」

 洋司ようじ君は大人しい優等生だった。かくいう私も、優等生、だったけれど大人しすぎて薄気味が悪いとすら思われているほどだったからきっと洋司君とは異なっている。

 「何それ、洋司君は私の彼氏でしょ?冷たいわ。」

 「馬鹿だな、慰めてんだよ。僕はさ、そういう所が好きなんだ。志賀子って、まあ怒っているっていうよりは、何か感情が不安定なんだよな。それが、きっとみんなには怒っているように見えるんだと思う。」

 でも私は、洋司君の言うことはもっともだとさえ思っていた。

 私はちゃんと分っている、だってずっと考えてきたから。私が変なのは、なぜかって。

 私は、歪んでいる。歪みきって、もう戻れないの。

16

 「志賀子は思い込みが激しいんだ。」

 「え?」

 何を言うのよ。勝手に失礼なことを言われていくら洋司君とはいえ、ちょっとカチンと来てしまった。

 「ほら、そうやってまた目に険を寄せて、怒ってるように見えるよ。でも、違うんだろ?本当は戸惑ってる。すごく、戸惑ってる。」

 何、言い得て妙みたいな顔して満足気なのよ。馬鹿じゃないの、ねえ。洋司君の馬鹿。

 「馬鹿だよ、僕は。」

 え? 

 「え?」

 「はは。」

 「ちょっと洋司君、何言ってるの?何笑ってるの?わけわかんない。」

 「訳分かんなくて当たり前だよ。だって僕だって訳分かんないんだから。」

 私はまた顔にシワを寄せ、ひどく戸惑っている。どうやら、目の前の洋司君はそれを楽しんでいる。

 「僕はね、志賀子とは違って、でも昔からおかしかった。変だった。でも、役に立った。」

 洋司君の顔は至って真面目で、私はドキリとし、何か足元を掬われたような気持ちになる。

 「僕は人の感情を文字で読めるんだ。昔から、みんなそうだと思ってたけど、うん。小学生になった頃から違うって分かった。…どう思う?」

 もうどう返事をしていいのか分からない打ち明け話に私はただ困惑していた。だけど瞬間、思う。

 私は心を砕きたい。あなたのために、心を砕いていたい。

 「だけど、洋司君。でも洋司は洋司君だから、それか洋司君なんだから、ねえ。そんなに不安そうな顔をしないでよ。洋司君。」

17

 「やっぱり洋司君、馬鹿だね。」

 「まあな。」

 いつも私達はこんな感じで、でも今日は強くあなたのことを意識していた。私は今になって初めて、洋司君に対して、心を砕きたいということに気づいてしまった。

 洋司君、これから。誰にも分かってもらえないことを私達は共有することになる。

 上手くいくのだろうか、ふと沸き立つ疑問に私は足をすくわれるのだろうか、何か色々考えてしまってどうしようもない。

 そんなことを繰り返して私達は、ただその時は一緒にいた。

 そして、五年が経過した。

 その後、私達が会うことはもう無かった。

 洋司君は、死んでしまったから。


 「佳永子ちゃん。」

 彼にはそう呼ばれた。

 「止めてよ。何でアタシがそんなふうに、呼ばれる筋合い無いわ。」

 本当にそうだと思っていた。彼は、燐さんは会社の先輩だった。ひょうひょうとしていて人から慕われていたけれど、アタシはそこが目について嫌だった。

 だからアタシに強い口調で怒る彼が、すごく怖かった。なのに今はとても優しく、アタシの頭の中は混乱している。

 アタシは、今燐さんのことが好きだった。

18

 「最初は、しまったと思った。」

 「しまったって何?」

 「うっかりしてたってこと。」

 今となってはそんな風に、何かもうアタシ達の関係は過去のことだと流せるくらい穏やかな間柄になれているのだが、でもきっと本当に離れるということになったらアタシも、彼もどうなるのかはわからない。

 もしかしたら、悲しくて忘れようとして、燐さんはより一層奥さんのことを深く愛するようになるのかもしれない。

 かくいうアタシは、多分。多分だけど死ぬと思う。昔から、死に対する抵抗があまり無かった。いや、正確にはあったけれど、溺れそうになって死んだかもしれないと本気で思った時、それからずっと、いつ死ねるのだろうと願っていた。

 それが日常だった。当たり前だった。だから、アタシはもういいのよ。 

 燐さんを、あなたを深く愛している今が現実じゃないようで、毎日が地に足をついていないような、そんな感覚を抱いている。

 「佳永子…。」

 燐さんはアタシを抱く瞬間、そうやって切ない声を発する。アタシは、この男は何がそんなに辛くて苦しいのだろう。ずっとそう思っていた。だけど、分かったのだ。理解してしまった。

 彼は、「眠れないんだ。」アタシにしなだれかかりながらそう言った。その時、その瞬間。分かった。

 この人は、寂しいんだって。いつも周りに誰かがいて幸せがちゃんとあっても満足できない。

 彼の根底にはきっとそういう自尊心の低さが存在していて、だからこういう倒錯した関係でも、本当に大事なことが何かも分からず傾倒していくのだ。

19

 「だけどアタシはね、燐さんの傍を離れない。」

 「強気だな…ちょっと怖いよ。でも僕も、僕も佳永子の傍を離れない。離れられない。」

 横顔が冷たかった。彼の顔は多分苦笑いで、でもアタシは信じてる。アタシは欲しいのだ。大切な人が、アタシが大切だと心底思える存在が、そう思う時にふと思い出す。

 重次は元気かな。

 重次とすれ違ってしまった。いや、正確には重次は奥さんとよりを戻した。些細なすれ違いだったらしい。だから、アタシがこの人しか世界でアタシにとっての味方はいないのだ、と思っていたことが嘘だったということになってしまった。世界は、裏返ってしまった。真実だけを見ていたかった、それが幻であると薄ら薄らと気づいていても、でもアタシは信じたかった。信じられる現実があればそれでよかった。けれど、重次はアタシを置いて、きれいな彼女の元へと帰って行った。

 つまり、アタシと重次の間にあったものは何だったのだろう。恋だろうか、愛だろうか。同情だろうか、親愛だろうか。分からない。世界に本物なんてたった一つでいい。それがきっと一番簡潔でわかりやすく、誰も傷つくことがないはずなのに、ねえ、何で。

 「佳永子、俺再婚する。」

 重次とは1年ほど一緒に居て、遊んだ。大人と大人になりかけの子どもが一緒に居ることをそういうのかは分からなかったが、アタシ達は小学生のように無邪気に駆け回った。

 楽しかった。すごく楽しくて仕方が無かった。手放したくなかった。手放すなんて、許せなかった。アタシは。

 「ごめんな、佳永子。だからもう一緒にはいられない。ずっと遊んでくれたのに、俺たちは親友みたいになれたのに、ごめん。本当にごめん。」

 アタシは、思う。

 ああ、この人はズルいって。でも、アタシはこの顔が好きだった。適当、という力加減ができない、真に迫った困り顔、そして射す影、美しいと思ったのだ。アタシはだから、逃げられなかった。最後まで。

 「…何言ってんの。良かったじゃん。無職、じゃないけどぶらついてる重次がちゃんと社会に戻るんだよ?それって、友達のアタシからしたら喜ばしいことだよ。そりゃ、こんな年下の女が重次と一緒にいるって知ったら奥さん困るでしょ。そんなの分かってる。アタシは馬鹿じゃないから。」

 精一杯だった。精一杯取り繕ってアタシは重次にそう言って、笑顔を見せた。

 重次は、

 「…ごめん。」

多分すべてを分かっていた。多分あたしが重次を異性として意識していることを分かっていた。でも、彼は奥さんを選んだ。それが、現実だった。 

20

 真実なんていらない、アタシはもう一度強く思ってしまった。


 僕のことを、妻はどう思っているのだろうか。僕達は圧倒的に幸せだった。妻も、初絵もそうだったのだろう。けれど、最近になって綻びが顕在化してしまった。完璧だったはずの僕達の暮らしが不完全だったと突きつけるかのように、幸せであったはずの僕達の暮らしは壊れ始めた。

 壊れ始めてしまった。


 でも、本音を言えば僕達は壊れることを望んでいたのかもしれない。いや、僕だな。僕が望んでいたんだ、だから現実になった。

 つまり、妻を、初絵を純を傷つけたのは僕なのだ。けれど、綻びの発端は妻だった。妻は育児を少しずつ離れ社会の中で居場所を持ち始めた。居場所を与えられた彼女は、息ができるようになった魚のようにみるみる若返り始めた。欲しい物を欲しいままに手にし、捨て、欲し、ひどく欲深い人間のようになっていた。

 それでも、僕は家族を保とうとしていた。捨てる、壊すなんていう選択肢はそもそもなくて、いや、無いはずだったのだが、いや、それも違う。言い訳ばかり考えても、結局悪いのは自分なのだと気づいてしまう。

 つまり僕は、社会に出て僕よりもっと運命と言えるような存在に出会ってしまった妻を責められない。考えても考えても責めることができない。むしろ、共感してしまうのだ。

 僕には佳永子がいるから。

21

 「佳永子、僕たちはどうすればいいのかな。」

 「何、燐さん。アタシにそんなこと言ったって、分かるわけないじゃない。」

 佳永子は笑った。だから僕も笑った。

 「でもさ。」

 ひとつため息をついて彼女は続ける。

 「でもさあ、やめてもいいんじゃない?奥さんのこと、まだ大事なの?」

 佳永子は、幾分とさっぱりした女だった。執着、という物をどこかに捨ててきてしまったかのように潔い程何もないのに、それでも僕らは求め合った。求め合うたびに、「…燐さん、ごめん。」彼女の執着に対する極度の恥を知ってしまった。恥とは、とにかく佳永子は何かに執着する自分を嫌っているらしい。それも、病的な程に。何でアタシは、「何でアタシはこんなにおかしいのだろう。」ふとした瞬間に呟いた言葉で、僕は意味が分からなかった。

 だって佳永子は綺麗で、僕の妻なんかよりずっとまともだったから。妻は、初枝は少しおかしい女だなとは思うけれど、佳永子は客観的に見てもできた女だと思う。男は、きっとこんな女を欲しているはずで、だから若い佳永子が僕のような既婚者と恋に、愛に、何ていう関係になったことが今でも意外に思える。

 ただ一つ、引っかかる点があるとすれば、佳永子はよく泣くのだ。耐え忍んで仕方なく、ということでは無く何のきっかけもなく突然に、涙を見せる。僕が驚いて抱きしめても、彼女はしゃくりあげる程泣いてしまう。

 「アタシ、泣くつもりじゃなかったのに。最近おかしいの。涙って、何で出るんだろう。分からないの。でも、泣くと辛くなって仕方が無いの。」

 そう言う彼女は本当に辛そうで、痙攣のようなしゃっくりを続けている。だけどそれが収まるとともに僕らは触発された動物のように求め合い、翌日はひどく疲れることになるのに、その瞬間は何ものにも代えがたい程の幸福を感じてしまう。 

 「佳永子、僕。」

 「うん分かってる。この瞬間がいけないんだよね、この瞬間があまりにも切なくて幸せでどうしようもないから、アタシ達は不倫をしているの。分かってるよ、全部。」

 佳永子は僕より年下なのに、なぜかどっしりとしたことを軽く口にする。そもそも彼女の履歴はよく分からない。どこで育って、どこでこのような女に成長したのだろうか、考えてみても本当に分からなかったし、佳永子にそれとなく尋ねてみても答えてはくれなかった。

 「アタシ、話せないことがあるの。」

 はっきりとそう言われたから。

22

 「佳永子ちゃん。」

 とても寒いのに、何で私が毎朝この子を起こし続けなくてはならないのだろう。

 志賀子は苦い顔を隠しもせずそう言った。

 佳永子は、だから分かっていなかった。なぜ、この人はこんなに粗末に今を生きていられるのか、朝なんて1秒たりとも惜しみたくない程救われる時間なのに、どうしてこんなに辛さを勝手に抱えているのか、全く理解できなかった。

 志賀子は、最近になって家へやってきた。彼女は母の妹でどこかもっと都心の方へと出向いていたのに、急にふらりと帰ってきてそのまま家に居着くことになったのだ。

 アタシは、正直に言えばすごく嫌だった。だってこの人からは何か、何か良くないエネルギーが滲み出てきていて、アタシはそれが嫌だった。

 「早く起きないと、姉さんがうるさいのよ。」

 「………。」

 黙ったまま布団から出ることをしない。ガキね、と冷たく嘲った。いいじゃない、ずっとそうやっていれば、私は別に構わないのよ。いくらあなたが寝過ごしたって、私はこの家にいるために仕事としてやってるだけなんだから。

 そうやって胸の内で呟いていないと、私は頭が狂いそうだった。

 死物狂いで抜け出したこの家に、また戻らざるを得なくて、その現実が本当にいたたまれなかった。

 もう、いっそのこと誰でもいいから助けて欲しい、そんな宙に浮いたような言葉を思い浮かべてしまう程、私は暇な一日を過ごさざるを得なかった。

23

 佳永子は、志賀子は、どちらも事情を抱えていた。この話は佳永子からぼんやりと聞いたものだ。

 それを話す時の佳永子はひどく気怠げで、僕もつられて適当に頷くことしかできなかった。

 「そもそも、志賀子さんはなぜ、家にかえってきたの?東京の方へ行っていたって聞いたけど、あっちは仕事も豊富だし食いっぱぐれることはないはずだし。なにかあったんだよね。」

 「そうだね。あの人は仕事もしっかりこなせる人だったから、そういう理由ではないよね。」

 「じゃあ何なのかな。志賀子さんと佳永子は相性が悪いんでしょ?なら早い内に何とかしないと、お互い不幸なんじゃないの?」

 「…まあね。でもお母さんが、志賀子は事情があって、だから仕方がないって言い張るの。そう言われたらむやみな態度は取れないわ。仕方ないって、そう言い聞かせてる。」

 でも、最近の佳永子は痩せてしまった。前は華奢ではあったけど、ガリガリと形容するには至らなかった。なのに、今ははっきりとガリガリだと言ってしまえる。それ程まで痩せてしまっていたから。

 僕はだから、少し怖い思いを持ちながら、割れ物を扱うように彼女を抱く。

24

 「やめてよ。急に何?びっくりした。」 

 佳永子は、科を作るのが上手だった。つまり、嫌がってなどいないし、むしろ喜んでいる。僕の嗜虐心はさらに佳永子を求め、彼女もまんざらでもなくくっついてきて、終いには僕らは混ざり合うのだ。


 洋司君が死んでからしばらくがたった。

 不慮の交通事故だった。だけど私は加害者を恨んだ。何で、洋司君が殺されなくちゃいけないのかって。


 「あなたでしょ?」

 私は探し当てた。

 洋司君を殺した犯人、その人を探し当てた。

 ついに、と手に汗が滴った。顔は、多分緊張していたのだと思う。それも極度であって、目の前の初対面の彼女は怯えていた。

 「…どちらさまでしょうか。」

 ここは近場の中で一番のショッピングセンターらしくて、その場に居合わせた主婦や家族連れが怖いもの見たさで私達に関心を注いでいる。もちろん、私は分かっていた。しかし目の前の彼女は周りを見回しうろたえていた。

 何なの?やめてよ、こんな場所で絡まないでよ、といった表情と挙動が見て取れる。

 私は、ただそれを見て鼻で笑ってしまった。

 洋司君を殺したくせに、何やってんだ。

 この言葉しか私には浮かばず、彼女の隣りにいた息子には気を使うことすらなかった。

25

 洋司君の馬鹿野郎って何度も思った。

 何でよりによって交通事故なんか、しかも双方不注意で起きた事故で、どちらも車に乗っていたのだという。しかし、死んだのは洋司君だけ。右直事故という奴だった。洋司君は真っすぐ直進していて、相手の女は右折を試みていた。しかし、洋司君が黄信号に変わった瞬間に進んでしまったため、右折待ちをしていた彼女は対応しきれずにぶつかったのだという。

 凄惨だった。洋司君は速度を出していたらしい。速度は、出せば出す程悲惨な事故につながって、つまりあの事故もそうだったのだ。目も当てられない程に傷ついた洋司君を、私は見てしまった。

 何でかって、それはね。洋司君には家族がいなかったから。いや、正確にはいたんだけど、死んでしまったのだという。

 家族は4人、父母、妹。典型的な核家族で、洋司君もオーソドックスだけれど、幸せな生活を送っていたのだという。

 しかし、ある日それは知らされた。

 父母、妹は死んでしまったということを。その時洋司君はまだ未成年で、私とも連絡を取り合っていた。けれど、彼からその話を知らされてから、しばらくして連絡を絶っていた。

 もう、だから彼からの連絡は無かったということだった。

 すごく、辛かったのだ。

 洋司君の家族が死んでしまった理由は、心中だという。問題は何も無かった。洋司君も家族も、仲が良かったのを知っている。みんな、穏やかでいい人たちそうで、好印象しか無かったからその事実に触れた時、何か現実が逆転してしまったような錯覚を覚えた。

 何が何なのか、正直もうよく分からなかったのだ。

 住んでいる近くでは噂が流れていた。洋司君の母親は過去に問題があったとか、そのせいで父が不信感を持ち荒れ始めたとか、そんな話だった。でも、もしそれが万が一に事実だったとしても、だから心中なんて、するのだろうか。まして妹は関係ない、そして洋司君だけが生き残った理由に説明がつかない。

 その話を聞くたびに私の精神はつぶれてしまいそうだった。

 そう思うたびに私は洋司君を愛していたことに気付いてしまうから。愛なんて、なまっちろいけれど、今になってみればそれ以外を愛と呼ぶ事象が見当たらない程だった。

 そして、その時の私の現実も泥沼だった。

 高校を卒業して、私は大学へと進学した。あまり大学への進学率の高くない田舎だったから、私のような女生徒は珍しかったのだろう、物珍しそうな目で近所の周りを歩くと見られた。私は別に頭が良かったわけでもないし、行ったのも三流大学だったから、そんな中途半端なことをするくらいなら、就職することがこの地域では望ましいとされていたのだ。

26

 大学なんて、私だって行きたくなかった。高い学費を払えないから、奨学金がもらえる三流大学に進んだのだったし、だから本当は、本当は私は死にたかったのかもしれない。

 出ていきたかった。洋司君の香りが残るこの街から、出ていきたかったのだ。

 就職した会社は狭いフロアに人が密集している大企業だった。我ながらすごい、と思うのだが、実際に入ってみればその辺にいる人とさほど変わらない人間が、ただ毎日出社して生きているだけだった。でも、会社としてきちんと利潤を挙げているのだからやはりみな明確な前を、未来を見て励んでいた。そして、私はその空気が好きだった。

 「森さん。今日会議ね。準備間に合いそう?」

 「はい、大丈夫です。」

 「そう、あなたはよく働いてくれるからね。」

 私は、先輩達の間で真面目なやつだと認識されていた。そう思われたら案外楽で、自主性を重んじることをしなくて良かった。ただ誰かの行動をフォローしたり、手伝ったり、そんなこと。そんなことだけで私は社会の中で生きていられた。

 そして、私は自分の中身が空っぽであることをその間だけは意識しなくて良くなった。

 だから、とても良かったのだった。


 「森さんってさ、何か変よね。何ていうか、浮いてる。」

 「あー、それ分かる。何か何も話さないし、人と距離を置いてる。何ていうか、私達のこと敵だって思ってる。」

 同僚は、賢い人達だった。

 私の態度を的確に分析していた。

 しかし、私のようなおかしな人間をそういうものかと受け入れる度量は持ち合わせてはいなかった。

 つまり、時間とともに私は排斥され、どうしても耐えられなくてこの会社にはいられなくなった。

 何か、当然だと冷静に思う自分もいて、でも理不尽だと憤る内面も分かっていたから苦しかった。

27

 人生が長い、と思い始めていた頃だったのだと思う。その頃の記憶はあいまいで、いまいちハッキリとこうだったと言うことができない。今思えば相当病んでいたのかもしれない。そんな時だった。私は、出会ったのだ。

 洋司君の家族が死んで、すぐだった。洋司君が死んだのは、その直後程だったのかもしれない。私は、そのことに関して極力情報を入れないように苦心していた。知ってしまったら、辛すぎるから。

 だから、多分だから、洋司君が交通事故に遭ったのは、洋司君が死んでしまったのは、そういう不調のようなものが原因で、注意力が欠けていたのかもしれない。最初はそう思った。けれど、次第に疑心が増してきて、何だか信じられなくて、信じたくなくて。いっそのこと誰でもいいから誰かのせいにしてしまいたくて、私は目を付けた。出会った、なんてものじゃない。探し当てたのだ。

 東京で会社の人間関係に疲れ果てていたせいもあるのかもしれない、私の精神状態は普通じゃなかった。そして、涙は相変わらず出続けているのに、ちっとも悲しくなんて無かった。

 殺してやる、そんな強い殺意が芽生えたのはその時だった。


 「ねえ、志賀子さんって、本当に何で帰ってきたの?」

 佳永子は静かにおやつのドーナツを口にする。この安いドーナツ一切れが人生の贅であるとアタシはすでに知っている。アタシは、たった百円をどう使うかをずっと考えてきた。百円均一で大事にもしないでゴミのようにため込む何かを買うために使うのなら、こうやってささやかだけどお腹にたまり幸せをもたらしてくれるこの品を買うのが妥当だという結論に至った。

 外食なんて、富裕層がすればいい。アタシは、この少ないお小遣いで痩せないように懸命に食べるしかないから。

 「さあ、知らないわよ。知る必要もないじゃない。てか、お母さんちょっと出かけるから、食事はいつも通り適当に済ませておいて。あ、でも外に買いには行かないで。近所の人に噂されたらあなたも困るでしょ?」

 じゃあと行って、母は男に会いに行く。昔から好きだった人なのだという。それを知ってしまったらアタシも止めることはできなかった。だって、母の顔は生まれて初めて見たような、生き生きとしたつやを帯びているから。だから理由も分からず家にいるおばさんなんかを許容しているのだと思う。

 つまり、もうアタシたちのことなんてどうでもいいのかもしれない。アタシも、お父さんもそれを分かっていてただ目の前に広がる現実を受け入れていた。毎日、時間を何かに使って、ただ生きていた。

28

 くだらないとは分かっている。けれどそんな無為なことにでも頓着していないとやっていられないのだ。

 適当にお金を渡してやれば生きれる、人はペットじゃないんだから、考える葦なんだから、そういう理屈なんだろうか。

 母はただ一週間に二千円を置いて出かける。でも、二千円で食べられる程世の中は甘くない。だからずっとスーパーにも行けないから家にあるもので間に合わせた。米とか、卵とか。お母さんが普段食べているもの、けれどそれだけじゃ足りないのに、アタシにはこの使い道の無い2000円だけが頼りなのだった。

 それが子供の頃の話で、もちろん今は違う。

 今はちゃんと生きている。だってアタシはもう大人になったから。それに、最低限以下しか食べないで生きていたから空腹をあまり感じない体質になってしまった。だからみんなより食べなくてもアタシは平気だった。

 けれど、このドーナツ。このドーナツは必要な出費だと含んでいる。アタシは今、こんなチッポケなものに救われている。

 階段を登って彼女の部屋へ向かう。

 志賀子さんはまだぐうすかと眠っているのだろうか。他人を意識しながら生活するのはアタシには辛いことなのだと気付く。

29

 志賀子さんを見ていると重次を思い出すことがある。

 もう誰かの元へと行ってしまった人。その後どうなったかなんて知らない。だって知りたくもないもの。アタシはアタシの人生だけを見つめて、生きよう。そう誓ったんだから。

 ていうか、重次のことをなぜ思い出すのだろう。志賀子さんは、一体何なんだろう。彼女の態度はいつもあいまいだった。だからどう接すればいいのかが分からない。美人で仕事もできるのに、なぜこんな家の中でぐうたらと過ごしているのだろう。疑問は積み重なるばかりで、でも彼女は一向に答えを示してはくれない。

 「おばさん、入るね。」

 「………。」

 返事はない、こういうタイプの人は家の中ではとことん社交性をひた隠すのだ。社交性?知るか、そんなもん、といった具合に。

 「もう入るからね。」

 アタシは特に何も思わずとりあえず入るとだけ宣告して用件を済ませようと思った。一応、アタシが彼女の世話をするということになっていて、なぜそんなことになったのかというと、アタシはもう社会人なのに実家暮らしでお金を一銭も入れていないからだった。 

 「佳永子、あなたも少しは働きなさい。」

 母はそう冷たく言った。

 そういう訳でこのよく分からない事情を抱えたおばさんを、おばさんの世話を、というか食事の配膳と洗濯物の回収をアタシが担っているのだ。アタシがずっとひもじかったのに、このおばさんはタダで飯にありつけるのか、一体この人は何なんだ。もうそれが今の思いの全てだった。

 「どうぞ。」

 と思ったら扉の先から声が聞こえた。

 アタシは当然それに従ってすぐ部屋へと入った。

 「何、珍しいね。返事なんて全然しない人じゃなかったの?」

 言った瞬間、後悔した。

 志賀子さんは、泣いていた。

 アタシはその涙に見覚えがある。それは、

 「おばさん、おばさんもなの?」

 「…もしかして、あなたも?」

泣きたくもないのに突然現れる涙、理由がずっと分からなかった。けれど今、目の前でその現象を再現しているこの人は、アタシのおばだ。つまり、この体質は遺伝だったのだ。

 「………。」

 アタシ達は見つめ合ったまま、何も言えずにいる。この体質を経験しているからこそ分かる。アタシ達は、ずっと誰かに理解されたかった。誰にも理解されないこの理不尽を、そっと抱きしめて欲しかったのだ。

 「馬鹿ね、生意気な子だと思ってたけど、こんな身近に仲間がいるんならもっと早く気づけばよかった。」

 志賀子さんは小憎らしい笑顔を見せて笑った。すごく、今までに見た中で一番可憐な笑顔なように感じられた。そうだ、こうやってあたしたちは打ち解けた。重かった日々がするするとほどける糸のようにほぐれていき、アタシ達はとりあえず友達のような血縁になっていた。

30

 殺してやる、と思ってから私はひどく早く、何事も行動に移してしまっていた。理性という歯止めが働かず、私は完全にイカれていた。  

 「…どちらさまでしょうか?」

 恐る恐ると行った様子で私の動向を伺う彼女はひどく怯えていた。何だ、何をそんなに動転しているのか、私はただ平然と受け流していた。いやむしろ、そうやって私のおかしさを怯えを含む目で見つめてくれるのなら結構だ。

 もっと怖がってくれて構わない。

 イカれた私を目に入れ、同時に隣の息子をかばうように伺う、そして知り合いがいるかもしれないこの施設で目立つことをひどく恥じているようだった。

 だけどその時の私にはもはやそれは風景だった。ただの景色に感情が揺れ動かされることはない。

 そして、言った。

 相手の何かを殺してやりたかった。生まれてからこんなに強い感情を抱いたのは本当に初めてだったようにも感じる。

 「あなた、洋司君のこと殺したでしょ。」

 私は、もう一度考えても隣の息子も周りの目も、何も配慮しなかった。配慮する必要なんてない、私はあなたを殺しに来たのだから、そう思っていた。

 彼女は動揺して涙ぐんでいた。

 隣でわけも分からずぼんやりしていた子供は、母親の手を強く握っていた。

 そして、同時に彼女は私のことを強く睨みつけていた。

 私は、その目が、その射るような瞳が忘れられなくてずっと苦しむことになる。

 でもその時はそんなこと憚る余裕さえ持ち合わせてはいなかった。

31

 「洋司君、なんで殺したの?」

 そう言ったら彼女は反応を示していたから多分分かっているのだろう。自分が起こした死傷事故のことを言われてるって、だから私はもっと強がった。

 「だから、聞いてるじゃない。何で洋司君を殺したのよ。言いなさいよ、ねぇなんで?」

 「…。」

 彼女はさっきから私がなにか言うと口をパクパクさせながら言葉を発することができないでいる。

 私は知りたかった。

 それが罪悪感からくるものなのか、それとも全く違って反応を返せなくてそうしているのか、なぜなのか、あなたは悪くないのか、なぜ洋司君は帰ってこないのか、そうだ。

 私はそんなことが知りたかったのだ。そうふと気づいた瞬間に平手が飛んできた。

 私は、何も言えなかった。言うべき言葉が全て消えてしまったから。

 そしてちょっと正気になったなと思ったその時、隣で彼女と手をつなぐ彼女の息子が私を睨んでいることに気づいた。

 「…っ。…あなた、非常識よ。息子がいるのよ。いい加減にしなさいよ。」

 彼女は圧倒的な被害者の顔を浮かべ息子を連れその場を去った。息子は、最後まで私を睨みつけながら手を引かれて消えた。

 知っているのだ。過失は双方にあって、でも右折で突っ込んだ彼女の方が罪は重い。私はもう少しまともでいられた頃、ちゃんと調べていたから。事実を、はっきりとその現場を検証した警察から聞いたし、証拠として提出されたドライブレコーダーの映像も確認していた。だから、分かっていたから、私はただ彼女にその事実を知ってほしかった。

 なのに、やり方が悪かったのだろうか、彼女は私を睨みつけ、そして涙を流していた。

 何で?あなたには家族がいるのに、私にはもうなにもないのに、何で?

 一体何で?  

 ねえ、何でかな。洋司君。

 私はいつも本当にどうしようもない感情を持て余して泣く時は、誰も見ていない場所を選ぶ。

 私にとって誰かの前で泣くことは、恥ずかしくていけないことだったから。

 簡単に人を傷つけ平気でいられる彼女達の気持ちが分からない。もっと萎縮して、いっそ死んでしまえばいいのに、そう思っても彼女達の瞳に映るものは圧倒的な未来で、私はただ無力だと思ったしただ、ただすごく何かに対して辟易していた。

32


「志賀子さん、その話長い?」

 アタシは息を詰めていた。志賀子さんの話はすごくリアルで、怖い。どうして志賀子さんはうちに来たのか、さりげなく聞いただけなのに、返ってきた答えはとても重いものだった。

 耐え切れなくてつい、アタシは口を開く。もっと我慢強ければいいのに、と思いながらも口にしてしまう。

 「ああ、ちょっとずっと話過ぎたわね。いや、あまりこういう話人にしたこと無いから。でもね、話はこれからなの。私がこの家に来たのは居場所が無かったから、姉さんが来なさいって言ってくれたからなの。」

 そうだろうなとは思った。母は忙しさにかまけて家族をぞんざいに扱うことがある人間だけど、心根は優しいから困っている身内を放っておくことはできなかったのだろう。けれど、でも普通に考えれば仕事を辞めて路頭に迷ったから、じゃないのだろうか。でも志賀子さんはこの後に続く話を前にして、ゆったりと紅茶を飲んでいる。ゆったりと、しているようにも見えるが傍から見ればそうであってもその話を聞いた直後では何かを抑えるために、興奮を抑制するためにティーカップを手にしているようにしか見えない。

 何が続くのだろう、一体何があって志賀子さんはこんな状態になってしまったのだろう。でも、彼女は話したいようだった。誰かに聞いてもらうことで、癒されるものもあるというし、アタシは友達になれた志賀子さんのためにも続きを聞こうと決意した。

 「まあ、たいしたことじゃないのよ。まあ、そうね。警察に捕まったの。私。」

 「え…?」

 予想外だった。まじめを絵にかいたようなきれいなこの人が、まさか捕まっていたなんて、「何で?」必死に振り絞った言葉がそれだった。

 「…私、人を殺しかけたの。でも罪は傷害罪。しかも情状酌量とか何とかで割とすぐ出られたの、刑務所。」

 唖然とした。冷徹な眼差しのまま彼女がそう言ったから、アタシは一回息を呑んだ。

 「それって、どうして?どういうことなの?」

 「そうね、私洋司君を轢いた人のこと、本当に殺そうとしたの。だってその時はおかしいと思ったから。幸せそうにショッピングセンターを歩いている彼女たちが、不幸になるにはどうしたらいいんだろうって、必死に考えたわ。そしたらすぐ浮かんだのが、殺すこと。最低よね。」

 恐ろしい自虐を語りながら、彼女は窓の外を見つめる。何が見えるというのだろうか、彼女はアタシの方は見ずずっと、外を見ていた。

33

 「怖かった。自分の中にある殺意が、純粋すぎて恐ろしかったの。」

 ふと言葉を緩めぼんやりと呟いたセリフは彼女の本音なのだろうか。

 「何?それ…。」

 やっぱりどう反応を示せばいいのか分からない。大事な人を失ったから、それだけで誰かを殺そうと思えるものなのだろうか。

 普通に考えればそんなことは無いはずだ、それは志賀子さんだって例外ではないはずで、でもその時の志賀子さんは壊れていた。だからきっと、そんなことを考えてしまったのかもしれない。

 アタシは言葉を選んだ。なるべく彼女を傷つけないような言葉を、必死で考えた。

 けれど、そうやって眉を寄せているうちに志賀子さんはポツリと呟いた。

 「だからね、それそろ私はどこかへ行かなくちゃ、分かってるの。ずっとこうやって何もしないでいると、濁っていくの。感情とか、そういう重みが分からなくなって、…狂いそうだわ。でもそう感じていられる間は大丈夫。だからこのまま、もう出るわ。準備はしてあるの。お金も貯めているし、だからそろそろ、行く。」

 志賀子さんははっきりとそう言った。アタシもその方がいいって思った。

 それからしばらくして志賀子さんはどこかへ行ってしまった。例えアタシの感じる場所から消えたって逃げることはできない。どこへ行っても感情は鋭く存在し続ける。だけどどこかで見つけるのだろうか、そういう隔たりを超えた何かを。全てが大丈夫になる幸せを、アタシはアタシが知っていることと知らないことを思って、少し心を閉ざした。

34


 「燐さん。」

 「ああ、君か。」

 「ねえ、最近変じゃない?」

 「…いや、君だって。驚いたよ、何だよ燐さんって、どこで覚えたんだよその呼び方。」

 「ふふ、馬鹿ね。知ってるんでしょ?私があなたが浮気してるってこと、ちゃんと分ってるってこと。」

 「…まあな。でも君だって、初枝だって浮気しているんだろう?僕は知ってる。おあいこじゃないか。」

 「何言ってんのよ。あなたが先に浮気をしたから、私は気持ちがあなたから離れて、違う人を本気で好きになってしまったのよ。だから、純のパパでいられなくなるんじゃない、分かってる?」

 僕たちは、ついに別れることにした。彼女は彼女で運命の相手に出会ったと言っていたし、僕だって佳永子のことを本気で愛している。だけど、娘の、純のことはそれとは別次元なんだ。純を愛するということは、もっと違う場所。家族愛っていうか、もっと穏やかな場所に位置していて、だから僕たちはギリギリまで別れないことを望んだ。はずだった。けれど一転、妻は、初枝は恋に落ちた男と暮らすのだと言い放った。「純は?」と聞いたら「あなたが悪いんでしょ?」と言い放った。そして、「私が連れて行く。相手の人も良いって言ってるの。あなたみたいな薄情な人には、渡せない。」そう言って、話をさえぎった。でも、純は僕と君の子で、純の気持ちは?そんな風に考えたけれど、そうだ。全てを踏みにじったのは僕だった。幸せの絶頂に胡坐をかけなくて、違和感を拭えなくて、今の現実がある。

 僕は、何も言えなかった。

 そして早々に場を切り上げ、妻は純を連れて母親の八重さんの元へと行ってしまった。

 一人になってみて、佳永子に電話をしようかとも思ったが、何か何もやる気が起きなくてただぼんやりとしていた。

 そして、僕は気付いていた。僕が本当に必要だったものは、何なのかを。愛する家族でもなく、平凡な穏やかさでもなく、一体何なのだというのだろう。

 でも、そうだ。僕は誰かを心を砕いて差し出す程愛したかったのかもしれない。何となく居合わせて、偶然のドラマで成り立った関係なんかじゃなくて、磁石のように離れることができない強い絆のようなもの、そのようなものが世界のどこかには存在していて、それを手にしたいと望んでいたのかもしれない。

 けれど、きっとそんなものはそこら辺に落ちているようなものでは無いのかもしれない。これは、きっと。自分で築いていかなくてはいけないものなのだ。そのことに、僕は気付いた。

35

 気づいてしまった、今更。

 何てことをしてしまったんだ。失ってしまったら取り戻せないのに、馬鹿だった。失いたくないものが、取り返しの付かない形をしながら未来へと歩んでいく。

 佳永子は、あの子のことを僕は愛せるのだろうか、分からない。人を愛し続けることができる気がしない。今までだって出来なかったのだ、これからだって無理なんだろうと思える。

 「僕って馬鹿なんだなあ。」

 そう夜の中で独りごちる。


 春になったのかな、まだ2月で季節的には一番寒く厳しい時期だけど、駅前には多くの人が歩いていた。やはりみんな温かい日には外に出たいのかもしれない、そんなことを思っていた。

 「燐。」

 そう呼ばれたから、とても甘い娘の声だ。色々あって結局、僕は純にとって呼び捨ててしまおうという存在に落ち着いたらしい。

 もう会えないんじゃないかと落ち込んでいたら妻が、元妻の初絵とその夫の基哉もとやさんが純のパパだからといって月に一回会わせてくれるのだ。

 家族の形は保てなかったが、こうやって歪なままでも娘とか関わって生きていられることが今の一番の幸福かもしれない。

 「おお、来たか。」

 普段僕はあまり男っぽい言葉を使わないけれど、娘と会うときだけはつい、そんな言い方をしてしまう。

 「今日はどうするの?」

 「どこでもいいけど。」

 「どこでもいいの?なら海に行きたい。」

 「海って、純達今海そばに住んでるじゃん。」

 「千葉だもん。しかもほぼ東京だし、もっと海って感じのところへ行きたい。」

 言っていることも分かるので、そうかと言いながら連れて行くことにした。

 途中サービスエリアで昼食を食べていると、「親子お揃いね。」と話しかけられた。多分父親と半分成人、つまり10歳の娘が二人きりでいると目立つのかもしれない。

36 

 「そうか、親子か。」

 「そうだよ、親子じゃん、私達。」

 純はずっと大人びていた。別れた頃の幼いあの子の姿から、きれいな女性へと成長を遂げているようだった。純はとても愛らしい子だ、僕の親目線という贔屓目を抜いてもきっとそうだと思う。その凛とした瞳で、そのまま僕に問いかける。

 「こんなに遠出したの久しぶり。」

 「え、基哉さん連れてってくれないの?」

 「違うよ、忙しいんだよ。だから近い所にいっぱい連れて行ってくれるよ。」

 「そうか。」

 そうだ、彼らはちゃんとした過程を築いていて、基哉さんにいたっては実の娘ではない純を純粋に深く愛してくれているようだった。とても、感謝している。

 「違うの、私聞きたかったの。燐は…お父さんはさ。」

 燐、では無く久しぶりにお父さんと呼ばれてドキリとする。何だろう、一体。

 「ずっと私のお父さんでいてくれるよね?私、燐と無関係になるのは嫌だから。あ、まあ燐って言っちゃった。お父さんって呼ぶのが自然なのにね。」

 「いいよ、いいよ。純にとってお父さんは基哉さんだし、僕は別に何でも。僕であればなんでもいいから。」

 「はは、馬鹿だな。燐はそうやってふざけてるから、幸せになれないんだよ。お母さんみたいに、誰か見つけなよ。てか、質問に答えてよね。真面目に聞いてるんだから。」

 純は頬を膨らませ、そう言う。でも答えは決まっているじゃないか。僕は純に拒まれようと何だろうと、ずっと父親でいるはずだ。そんな当たり前のことを、何でこの子は、僕はこの子に何かをしてあげていないから、僕はこんなことを質問させてしまっていて。

 頭は混乱していた。幼い、まだ幼い娘が泣きそうだったから。

 それはそうだ、僕たちでさえ辛かった離婚という現実を、あの子は心の中に抱えてしまったのだから。

 何を言えばぼくはこの子を救えるのだろう、分からなかった。でも、

 「いるから。会いたかったらいつでも来てよ。お母さんとか関係なく、純の気持ちが大事だから。後のことはお父さんが何とかするから、だから。」

 どぎまぎしながら僕はそう言ったのだろうか。ちょっとぎこちないしかっこ悪いななんて思っていたら、純はフッと笑っていた。

 「そう、分かったよ。お父さんは、燐はお父さんだから、良かった。私怖くて、不安だったの。いつか一人きりになるんじゃないかって、すごく怖かったの。でも、燐は燐だって分かったから平気。良かった、今日こんな気持ちがいい日に燐と海に来れて。」

 外の景色を眺めながら娘は微笑んだ。

 その顔がとても美しかったのだし、僕は娘を愛しているんだと心から思えた。僕は、僕はもう全てを手にしてしまっている。はずなのにまた、何か渇きを感じ始めて狂って行くのだろうか。

 そんなことを考えた。だけどまた目の前で笑う娘の顔を眺めている内にどうでも良くなってきた。

 それでいい、それでいいんだと思えたから。

 日差しが少しずつ陰り初めて、でもそれでも僕らは海へ向かう。

 とても幸せな一日だったとこれからも何度も思い出す日になった。

 

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