錬金術師と放蕩貴族
「急な話で悪いが、今日中にこの工房を畳んでもらう」
家主のマエッセンが、ため息まじりにそう言った。赤毛の巨漢で、タキシードスーツを着ていなければ海賊にしか見えない。
寄宿学校時代のあだ名が『眼鏡王子』のアルフレッドとは、まさに正反対の相手。しかし学友の誰よりも気が合い、ルヴィリアの町で再会したあとも腐れ縁を続けていたのだった。
その男が今――いらない家具を捨てるときのようなまなざしを向けている。
「正気とは思えないな。俺ほどの逸材を手放すつもりか」
「お前が優秀な錬金術師だってことはよく知っているさ。雷を起こす実験で工房の窓を吹っ飛ばしたり、隣家の爺さんに毛生え薬を飲ませて苔玉みたいにしちまったり。鶏みたいに首を絞めてやろうかと思ったことが何度もあったからな」
「電話機を作ったことを忘れるなよ。あれは我ながら画期的な発明だった」
「だったらさっさと窓の修理代や爺さんの慰謝料、ついでに半年ぶんの家賃のツケを払ってくれ。まさか特許の申請もせずに見せびらかしまくったせいで、ゴルドック商会の連中に盗用されたなんてことはねえよなあ?」
アルフレッドは自慢の金髪をかきあげ、ふんと鼻を鳴らす。優れた技術は共有したほうが世のためになるのに、なぜこんな簡単な理屈が通らないのか。
それともルヴィリアという都会の空気が、気さくな友人を冷めた大人に変えてしまったのだろうか。学生のころは、毎日のように冒険家になる夢を語っていたというのに。
「石ころを金塊にするのが仕事だろうに。その逆をやってりゃ世話ねえぞ」
「錬金術の目的は真理の解明だ。卑金属の変換はひとつの過程でしかなく、探究の果てには神の領域――すなわち、不老不死がある」
「できるのか?」
「ああ。だからもっと金をよこせ」
返事のかわりに吹っ飛ばされた。マエッセンにぶん殴られたのは、寄宿学校時代に交際相手のご令嬢とうっかり寝てしまったとき以来かもしれない。
こうしてアルフレッドは麻の白シャツと茶のトラウザーという着のみ着のまま、冬の路地に放りだされることになった。手元にあるのは尻のポケットに突っこんだままにしていたコイン三枚と、お気に入りの懐中時計と、錬金術師としての崇高な志だけだった。
◇
ルヴィリアは二千年の歴史を持つ港町だ。セーブル王国のみならず世界中から多彩な才能が集まり、その結果として最高学府の王立アカデミーが設立された。
アルフレッドは工房を経営するかたわら講義に通う留学生であり、その専科はやはり錬金術である。
「まずいな。このままだと学費が払えない……」
というより、明日の生活すらままならないほど切迫している。
最優先となるのは住まいの確保だろう。このあたりの土地は海に面しているため冬の夜でもさほど冷えこまないものの、治安のほうがよろしくない。なにせルヴィリアには物盗りや野犬だけでなく、他の土地にはいない厄介なものたちが潜んでいるのだから。
幽霊、妖精、水妖、悪鬼、狼男。
長い歴史を持つだけに伝承や逸話のたぐいは実に豊富。彼らを目当てに訪れる民俗学者や霊媒師、神秘主義をこじらせた錬金術師があとを絶たない。領主が吸血鬼なんて噂まであるほどで、交易商人たちの間では『この町で揃えられないものは神様だけ』と言われている。
マエッセンは鼻で笑っていた。しかしアルフレッドは、この世ならざるものの実在を疑ったことはない。錬金術師だからというのもあるが、実際に見てしまったことがあるからだ。
ルヴィリアに越してきた初日に――満月の空を駆ける、夜魔たちの群を。
青白い炎のような姿を思いだし、思わず身震いしてしまう。早く泊まれるところを見つけないと、朝には魂を抜かれた姿で路地に横たわっているかもしれない。
あてもなく町をさまよううちに日は傾きはじめ、通りに連なる酒場や工房の壁、ひび割れたタイルの路地が夕焼けに染まりつつある。
ここからだと富裕層の住む区画が近いし、酒場に行けば気前のいい紳士や貴婦人がいるはずだ。食事に酒、あわよくば居候としての身分。なんなら相手が人間でなくとも構わない。神秘を我がものとするのが、錬金術師の本分ではないか。
アルフレッドは気弱になっていた心を奮い立たせ、手近にあったドアをくぐる。しかしそこは最近になって流行りだしたコーヒーハウスと呼ばれる店で、カクテルもなければワインもなかった。茶と青を基調にした店内は上品な身なりの客で溢れかえっているが、酒場のような浮ついた空気はなく、人々は政治や学問について語りあっている。
できれば酔いたい気分だったが、ここだって社交場であることに変わりない。名物のチョコレートドリンクを勧められたが断り、なけなしのコインで一番安いコーヒーのブレンドを頼む。カップを受け取ったところで周囲をぐるっと見まわし、騙しやすそうな客を探す。
すると、見るからに育ちがよさそうな青年が視界に入った。
しかも相手はこちらと目が合うなり、にっこりと微笑んでくるではないか。
「この店でチョコレートを頼まないなんて、もったいないですよ」
「今は手持ちがなくてね。住んでいたところから追いだされたばかりなんだ」
「それはお可哀想に。なんなら一杯奢ってさしあげますけど」
拍子抜けするほどあっさりと目標が達成された。チョコレートが滋養によいことは知っている。口にするのもはじめてだし、出だしの首尾としてはまずまずだ。アルフレッドはこの親切な客から、たかれるだけたかろうと心に決める。
あらためて眺めてみると驚くほどまつ毛の長く、唇は紅を塗ったように鮮やかな色をしている。肩まで垂れた髪と瞳は夜のような黒、対照的に肌の色は透きとおりそうなほど白い。あごの細い華奢な顔は精巧に作られた人形のようにも見え、まるで神々から祝福されて生まれてきたような美しい青年だった。
中性的な容姿はともすれば頼りなく見えそうだが、上背のある自分と並んで丸テーブルに座っていても目線の高さは同じで、袖飾り付きのカフタンを羽織った姿は実に堂々としている。生地はサテン、色はボルドー……というより血のように濃い赤か。下に着ているスーツは艶やかな黒だが、カフタンと揃いの金の刺繍がいたるところに施されていて、こんなど派手かつ古めかしい格好で町を歩く度胸には怖れいるところがある。お忍びで夜遊びにきた貴族様だろうか。それくらい、浮世離れした佇まいだ。
「私の顔になにかついていますか?」
「いや、自分の面に自信はあったがあんたにゃ負けると思ってさ」
「美しすぎるというのも困りものですよ。誰も中身まで見てくれないですから」
アルフレッドは笑った。悪くない返しだ。しかし見かけほど純朴な青年ではないのかもしれない。コーヒーの湯気で曇った眼鏡をハンカチで拭きながら、さらに探りを入れていく。
「俺はアカデミーに通う錬金術師だ。物事の本質を見極めるのが仕事でもある」
「ではあなたから見て、私はどのように映るのでしょう」
「知らない男にチョコレートを恵んでくれる、気前のいい貴族様……ってのは誰だってわかるよな。しかしただの親切心だけでなく、あんたはそれによって新しいことが起こるのを期待している。無作為に種を蒔き、知らない花が咲くのを退屈しのぎに待っているわけだ」
「なるほど。初対面でそこまで見抜くとはやりますね」
「最初に目が合ったとき、実験をする直前の仲間の顔を思いだしたからな」
ちょうどそこで、注文していたチョコレートドリンクがカウンターに置かれた。飲みかけのコーヒーが入ったカップから、新しく来たほうに持ち替える。
「俺の名はアルフレッド。世界を変える予定の錬金術師だ。チョコレート一杯でこの出会いを得たあんたは、いずれ誰も見たことのない花を咲かせるだろう」
出まかせの『本質』を語りつつ、景気よくカップに口をつける。自分を高く売りつける目算だったが――チョコレートドリンクを飲んですぐに喉が焼けるような刺激を覚え、たまらず吐きだしそうになってしまった。
……苦くて甘いものだと聞いていたのに、なんだこの辛さは。
「あっはっは! この店のオリジナルは香辛料たっぷりだからねえ。君もまた私との出会いによって、思いもしなかった体験を得られたみたいだな」
青年の口から敬語が消えている。アルフレッドが眼鏡越しにじろりと睨みつけると、相手は目に涙をためながら手を差しだしてきた。
「私はシン。君のような学生をからかって遊ぶのが大好きな放蕩者さ」
つまり最初からいたずらが目的だったわけか。純朴を通り越して幼稚な青年だ。
油断していたところで一杯食わされたものの、不思議なことに腹は立たなかった。マエッセンと馬鹿騒ぎしていた寄宿学校時代を彷彿とさせるからだろうか。
それにチョコレートドリンクも、辛いとわかっていれば悪いものではない。
「最初はぎょっとするかもしれないけど、慣れてくると癖になるだろ? 物事の本質を見極める錬金術師なら、辛さや苦さの奥にある複雑な味わいに気づくこともできるはずだ」
「先に言わないでくれないか。今、味について述べようと思っていたのに」
カップをちびちびとすするアルフレッドを眺めながら、シンと名乗った青年は満足げな笑みを浮かべる。そして見ているだけでは我慢できなくなったのか、自分も同じものを注文し、ビスケットを頬張る子どものような顔でチョコレートドリンクを飲みはじめた。ひとまず楽しみを共有したいという一点においては、純粋な厚意と見て間違いなさそうだった。
しかし癖になる味、という言葉はもっともだ。
表面はメレンゲのように泡立っていて舌触りはなめらか。舌をぎゅっと締めつけるような強い苦味を感じたあと、ほのかに感じる甘みとともに香ばしい風味がやってくる。それが余韻を残すように去ってから、チリペッパー特有のぴりりとした痺れが迫ってきて、暖炉に火を灯すかのごとく口全体に広がっていく。
そうして気がついたころには、カップの中身をすっかり飲み干していた。
「……この一杯だけじゃなんとも言えないな。もうちょっとだけ飲んでみれば、チョコレートドリンクとやらの本質について見抜くことができるかもしれない」
「それはなんと頼もしい。だったら次は、辛くないやつにしてみようか」
調子のいいアルフレッドに合わせて、シンは次々と注文を重ねていく。
バニラや砂糖、ミルクを使って甘く仕上げた定番のチョコレートドリンクから、ジャスミンや少量の竜涎香などを加えた最高級の逸品。さらには最近になって出回ってきたという、固形化させた板状のチョコレートまで。
付け合わせのナッツ、果実の砂糖漬けを頼むころには十年来の友人のようになかよく肩を組んで乾杯し、シンから「今晩と言わず気がすむまで私の屋敷に滞在するといい」とのお墨つきをいただくまでになった。
本質を見抜く錬金術師と豪語しながら、アルフレッドは周囲の違和感にまったく気づいていなかった。コーヒーハウスの常連客や店員がなぜ、シンと目が合いそうになると慌てて顔を背けるのか。はたまたこの美しい青年の足もとにはなぜ、本来あるはずの影が存在しないのか。
ルヴィリアの別名は、神秘の町。
そちら側に踏み入りたくなければ、近寄らないのが身のためだ。
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