第42話

「改定後の条文にもよりますが、速やかな秩序復旧が行われます」

「速やかな秩序復旧と言うと?」

 グレゴール氏の説明に、桂花さんが突っ込みを入れる。

「一般的にはクリーニングでしょうか」

「クリーニングって?」

 近くで話を立ち聞きしていた空湖さんが、グレゴール氏に変わって説明を引き継ぐ。

「物理的にも情報的にも、綺麗にするんだ。何もなかったことにして、必要ならウソの記憶にすり替える」

 空湖さんは、極めて淡々と言った。

 チャルカ教とザ・シティがやってきたことを考えれば、やりたいことはよく分かる。真実は二の次、虚偽でもいいから秩序を保つ。街と平和を維持して人々を飼い慣らすためなら、記憶の改竄など微々たる問題だ。

「そのクリーニングって、拒否権はないの?」

 桂花さんの質問に、グレゴール氏は「残念ながら」と首を横に振った。

「全体のためです。例外は認められません」

「つまり、今回の事件も全部消されちゃう訳だ」

 桂花さんの言葉に、グレゴール氏は頷いた。

「被害者のことも、忘れ去られてしまう……」

 グレゴール氏は、僕の呟きにも振り向いてくれた。彼は僕にもゆっくり頷いた。

「気に病むことはありません。痛みの理由も、忘れてしまいますから」

 彼はあくまでも淡々と、機械的に言った。入駒の死も、ばあちゃんの存在も、駿との思い出も。たとえ家族であっても、関わったものは全て消される。辛いことも、楽しいことも、最初から全部無かったことになる。

「僕らでも、ダメですか?」

 再協議に臨む代表者ならと、一縷の望みをかけて聴いてみたが、グレゴール氏は頑なに「認められません」と答えた。

 真境名が起こした一連の事件を、無かったこととして忘れるのは構わないが、入駒のことやばあちゃんのこと、駿のことを、無かったことにするのは嫌だ。全部忘れる日がいつか来るとしても、それは何十年も後にしたい。

「新しい枠組みを望まれるなら、無期限凍結を申請ください。再協議にこだわる必要もないでしょう」

 グレゴール氏はそう言って、スッと出口へ向かった。空湖さんと桂花さんは、部屋を出ていく彼に頭を下げて見送る。引き止める様子はない。グレゴール氏と入れ違いに、米利刑事が部屋に入ってきた。

「おい、再協議は?」

 彼はグレゴール氏を目で追いかけながら、僕らに尋ねた。近くにいた空湖さんが、「再び、交渉決裂です」と告げた。

「無期限凍結の手続きが選ばれました」

 米利刑事は空湖さんの言葉に頷きながら、僕の近くまでやって来た。

「再協議をするにしても、無期限凍結の申請には賛成だ。そっちの方がタイムリミットが早いしな」

 米利刑事は自分を納得させるように、僕に向かって言った。彼の言い分も分かる。凍結申請が可能なのは、六時半前後。リセットそのもののタイムリミットより一時間は早い。先に申請だけ出しておいて、再協議を考える時間に充ててもいい。

「じゃあ、ハチ公タワーまで行かないとな」

 米利刑事は、今部屋に入って来たばかりだと言うのに、「よっしゃ。任せとけ」と部屋を出て行った。ハチ公タワーを管理する会社に連絡するためらしい。

「無期限凍結って、何するの?」

 桂花さんが空湖さんに尋ねた。彼は唸り声を上げ、「僕にもよく分からないんだけど」と前置きをする。

「平たく言えば、結論の先送り? 旅立って行った先人たちに、判断を委ねるらしい」

 空湖さんの解説によると、二千年代に地球を離れたご先祖さんは、月面に中継機地を残して遠くへ旅立ったらしく、ハチ公タワーから月へ向けて申請を送ることにより、協定に関する取り決めを全部一回放り出す意味合いがあるらしい。

「受理はいつになるのか、そもそも受け取る相手がいるのかどうかも、僕には分からないし、地球を放り出していなくなったご先祖様なんて信じてないけどね」

 空湖さんは両肩をすくめた。

 それで、無期限凍結の「申請」と言ってたのか。申請方法が微妙にアバウトなのも、受理より届出が優先されるからなのか。妙なところで、随分大雑把な取り決めをしている。

 結局、チャルカ教もザ・シティも神の意向や威光には、従うしかないようだ。この星の本来の持ち主、先住民族の意思が最優先らしい。

「申請さえすれば、リセットの執行も棚上げになって、新しいやり方、枠組みをゼロから決めることになる」

「だから、クリーニングにも異議申し立てができるのね」

 桂花さんの言葉に、空湖さんは「その通り」と言った。

「再協議で条文を丁寧に策定すれば同じことは出来るんだけど、チャルカとかザ・シティの思惑、枠組みを取っ払って何かしたいなら、新しいやり方を選ぶべきかもね」

 空湖さんはそう言って、僕らに微笑んだ。


 米利刑事は運転席でハンドルを握りながら、片手で甘ったるそうな菓子パンに齧り付いた。助手席の織林刑事はナビと目の前の路面状況を見ながら、隣の米利刑事に進路を伝えている。運転席の彼はバックミラーで、後部座席の僕の顔を見た。

「やる気になってくれて、何よりだ」

 そういう彼に、隣の織林刑事は即座に「前見てください、前。前」と告げる。米利刑事は心底だるそうに、「へいへい。分かってる、分かってる」とパンを加えたままハンドルを両手で握り、前を塞いでいた障害物を避けた。真境名がばら撒いたトラブルの種はそれなりに片付けたようだが、戦いの痕跡が色んな所に残っている。電車やバスといった交通機関が回復しないのも、その一つ。

 幸い、自動運転周りの不具合は解消されたらしく、自動運転機能を搭載した車両でも、手動による運転で走行する分には問題ないらしい。拠点にしていた中之島のホテルからハチ公タワーまで、徒歩なら最短でも一時間ちょっと。テーマパークがあったところより、さらに西へ行く必要がある。歩いてもギリギリ間に合うが、車で近くまで行けるのならそれに越したことはない。

 米利刑事が妙に張り切って、その後の段取りを進めてくれた。路面状況を確認しながらでも、歩くより遥かに早く到着できるとあって、準備が整うまでの時間、僕らに朝食を薦めてくれた。

 僕はあまり食欲は湧いてなかったが、桂花さんや家族のこともあり、その申し出を素直に受けることにした。先に彼らを朝食会場へ向かわせ、僕は寝汗を流すためにシャワーを浴び、それから朝食を摂りに向かった。

 病人然とした見窄らしい格好から、少しは外を出歩くのにふさわしい格好になったはず。先日と同じ荷物をカバンに詰め、桂花さんと共に米利刑事が運転するパトカーの後部座席に収まっていた。

 米利刑事のパトカーは、あっという間に港区へ入った。この調子なら、六時過ぎにはハチ公タワーに着く。先端とやらへ到達するための所要時間は特に聞いていなかったが、三〇分もあれば十分だろう。

 打ち倒された実験動物の死骸や、破損したロボットの残骸、暴動によって発生した瓦礫等を避けながら進んでも、それほど大した迂回にはなっていない。他に街中を走る車両が少ないこともあって、パトカーはぐんぐん西へ向かって進んでいく。

 隣で静かに窓の外を見る桂花さんの横顔も、僕にはとても眩しく見えた。それを見逃さない米利刑事は、再びルームミラーを見ながら、「青春だねぇ」と呟いた。僕がそちらに視線をやる頃には、彼は織林刑事と戯れ合いながら、前を向いてハンドルを握っていた。

 地下鉄の高架に沿ってしばらく進むと、駅の先から海底トンネルに切り替わる。これで一つ目の人工島へ辿り着く。そのまま駅の下を道なりに潜り、夢洲へのトンネルに差し掛かった。トンネルを抜ければ、目的地付近。

 米利刑事が車内に持ち込んだ菓子パンを食べ終える頃、海の方に天高く聳えるハチ公タワーが見えてきた。

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