第15話

 昼食を終える頃、不意に呼び鈴が鳴った。母さんが、モニター付きのインターホンで応対してくれている。流石にポテトが多過ぎたかと思いながら、食べ終えた真珠の包み紙を受け取った。

「アナタのお客さんだって」

 母さんは僕の方を見て言った。やり取りを変われと手振りで言われる。後片付けと来客対応とを入れ替えてもらう。モニターを覗き込むと、ベネチアンマスクで目元を隠した、いかにも怪しげな人物が立っていた。身につけているものの雰囲気、デザイン性はグレゴール氏が纏っていたものと似ている気はする。

 六月の昼過ぎに、いかにも分厚そうなあの生地だとキツそうな気もするけど、男女の別も分からない相手は、教団からの使者だと名乗った。声を合成していなければ、恐らく男性だろう。

「上がってもらったら?」

 母さんは、食卓を片付けながら言った。普段なら、事前に言えとうるさいのに。どうするか答えが出ないまま、とりあえず玄関のドアを開けた。中へ案内するものの、相手は「こちらでもよろしいですか?」と上がり框に腰掛けた。座っているのに、かなりの存在感がある。教材や置き薬の訪問販売みたいなスタイルで、彼は話を切り出した。キッチンから、麦茶を持たされた駿が、お盆を持ってやって来る。

「迷える若者を導きなさい、と言われましてね」

 彼はそばに置かれたグラスを見て、「よろしいんですか?」と僕らの方を見た。運ばせた本人は、ドアの向こうでよく見えないが、多分問題はないのだろう。代わりに頷いた。

「では、ありがたくいただきます」

 謎の訪問者は、ゆっくりとした動作でグラスを両手で持ち、よく冷えた麦茶を一口飲んだ。すぐ近くで、駿が相手のことをじろじろ観察している。次の言葉を待っている間に、胸ポケットに入れたケータイが震え始めた。会話を中断して通知を確かめると、米利刑事からの電話だった。

 訪問者へ一瞬目をやると、彼は「どうぞ」と手で促した。遠慮なく、電話に出た。

「すまん。部下がやらかした」

 電話口の米利刑事は、随分と早口で言った。後ろが少々騒がしい。どうやら外、それも街中らしい。少し強めにドアを開閉する音も聞こえるような。車にでも乗り込むのだろうか。

「やらかしたって、何を?」

「アイツの監視だ。神出鬼没の奴だから、しっかり見張れって言ってたのにな」

 一瞬声が遠くなり、「チャカル教の教会だ」と小さな音が聞こえた。シートベルトを引き出すような音と、小さな金属音も一瞬聞こえる。

「足取りを追跡中だ。そっちも、警戒頼む」

 米利刑事は、そこで一方的に電話を切った。

「どうかなさいましたか?」

 訪問者は、ケータイを握りしめている僕を見た。どう説明するか組み立てている間に、リビングへ通じる後のドアが開いた。昼食を終えた真珠が、二階の自分の部屋へ帰るところらしい。

 駿は上手に避けて、道を作る。真珠は訪問者を認めるなり、無邪気に「こんにちは」と挨拶した。訪問者は自然に「こんにちは」と返す。真珠はそれ以上気にすることなく、マイペースに横の階段を登っていく。訪問者は、真珠の後ろ姿をじっと見ていた。

「妹さんですか? 相変わらず、お元気ですね」

 訪問者は、麦茶を飲み干してグラスをお盆に戻した。

「隣の部屋に、美味しいラムネが隠してあるって、教えてあげなくていいんですか?」

 訪問者は、真っ直ぐ僕の顔を見る。ベネチアングラスの奥が見えても、正体はきっと掴めない。彼は上がり框から腰を上げた。

「さ、参りましょうか」

 彼は僕らの方を振り返った。こちらが従わない限り、ドアの前から退く気はないらしい。僕は彼に、「ちょっと待ってもらえるかな」と伝えると、彼は「どうぞ」と答えた。

「車を回して参ります」

 彼はそう言うと、玄関ドアを開けて外へ出た。僕はお盆とグラスを回収し、駿を伴ってリビングに戻った。まだキッチンにいた母さんが、「あら、もういいの?」と呑気に言う。僕はお盆とグラスを彼女に差し出し、「ちょっと、出かけてくる」と言った。

「遅くなるなら、ちゃんと連絡しなさい」

 彼女は昨日のことで、まだブーブー言いたいらしい。夕方六時に連絡しても、ダメらしい。もっと早く連絡すると伝え、自室へ荷物を取りに行く。駿の荷物も、僕の部屋に置いてある。

 隣の部屋から、微かに午後の授業が始まったような音声が聞こえてくる。駿は声の調子を落として、口を開いた。

「どうしたんだ、一体」

「今日はお開き。悪いけど、帰ってくれ」

 駿は、「まだ、昼過ぎだぜ」と文句を言いながらも、僕が慌ただしくしているからか、素直に散らかった荷物をカバンに詰めている。財布や例のカード、ケータイの充電器と、どこへ行くときにも持っていくものをリュックに詰め、支度が済んだ駿と共に下へ降りる。リビングの方へ「行ってきます」と言い、駿と共に外へ出た。

 表には、訪問者の言っていた、立派な黒塗りの車が停まっている。彼は車の横に立ち、僕らが出てくるのを待っていた。

「お友達も一緒にどうですか?」

 不服そうな顔で立ち去ろうとしていた駿が、足を止めて振り返った。口調こそ終始丁寧だが、拒否させない謎の威圧感が含まれている。

「帰れって言ったけど、付き合ってくれ」

 無理やり帰らせたのに、舌の根も乾かぬうちに撤回する羽目になるとは。駿は困惑した表情と、嬉しそうな感情が入り混じった顔で、訪問者がドアを開けた後部座席に乗り込んだ。僕はその隣に座る。

 訪問者は車をぐるっと周り、僕の目の前、助手席に乗り込んだ。お抱えらしい運転手が、文句の一つも言わず、車を発進させる。どこへ行くのか、行き先は聞いてない。

「いい加減、暑いんじゃないですか。先生?」

 僕は目の前に座っている人物に、ぶっきらぼうに話しかけた。

「いえいえ、快適ですよ。温度センサーは切ってありますから」

 彼は玄関先でやり取りしていた時は少し砕けた調子で、フランクに答える。

「もうそのマスクぐらい、取ってくださいよ」

「これを外しても無意味ですよ」

 サイドミラー越しに微かに見えるその口元は、微笑んでいるように見えた。米利刑事達の、必死の裏取り捜査、追跡調査は丸っ切り徒労に終わるかもしれないなと、その一瞬、脳裏に過ぎった。申し訳ない気持ちも、微かに湧いてくる。

 カバンを胸の前に抱えた駿が、小声で耳打ちして来た。

「なあ、これ、どこ向かってんの?」

 一瞬前に目をやるが、前の二人はどちらも何も言わない。助手席の彼は聞こえているだろうに、楽しそうに窓の外を見ている。

「とりあえず、いきなり命の危機はないと思う」

「命の危機って、お前……」

 僕は耳打ちせず、前の二人に聞こえるように言ったつもりだが、やはり二人は微塵も動かない。運転手は完全に、自動運転の付属品と化している。僕は駿に、大人しく座っているように手で合図して、前を向いた。

「目的地は、教えてくれないんですよね?」

「着くまでのお楽しみと言いたいところですが、もうすぐですよ」

 彼は、奥に見えてきた建物を指差した。先日も訪れた、命輝大学。江辺野さん、彼女のお父さんと共に、真っ暗な構内を歩いた瞬間は今もまだ鮮明に覚えている。

 何故そこへ向かうのか、次の質問を考える間に車は目的地に到着した。僕も先日停めた駐車スペースに車を停め、謎の人物は、僕らに降りるよう言った。

 彼の先導に従って、大学構内を歩く。僕の少し後ろから、周囲を見回しながら歩く駿が付いてくる。僕らが連れてこられたのは、例の研究室ではなく、大学の図書館だった。

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