迷い家の主人

@Tsurugi_kn

迷い人


 深い霧の中、一人の少女が歩いていた。彼女の名は白花しらはな、今年十六になる。病に倒れた唯一の肉親である母を支えながら、日々奉公に励んでいた。幼い頃から勉学の余裕もなく、働き詰めの毎日。今日も奉公先から僅かな暇を得て、母の元へと顔を出す予定であった。

 しかしどういうわけか、慣れ親しんだ道が白い霧で覆われ、遂には獣道さえ掻き消えた。母を残した集落は、山に囲まれた辺鄙な場所にある。とはいえ、人の通る道はきちんと整備されており、滅多な事では道を外れるとも思えないのだが。

「困ったわ」

 白花は青白い指先で口元を覆った。母の容態を気にするのも勿論、奉公先も直ぐに帰らねばならない。とはいえ霧の中で無闇に歩けば危険が伴う。どうしたものかと、不安から胸元に手をやると、そこに忍ばせた薬袋がカサリと音を立てた。購入したばかりの、これから母に届ける予定のもの。早く、早くこの霧を抜けねば。気持ちばかりが逸る。落ちた枯れ枝を踏み、木々の間を潜る。すると、何か焼けた匂いが鼻腔を刺激した。人里に降りれたのかと思い、白花は歩みを速めた。白い霧の中に、黒い煙が混ざる。こんな天気だというのに、一体何を焼いているというのだろう。まさか火事だろうか、新たな不安が産まれ、白花は早足のまま霧の中を進んでいった。

 気付けば、辺りを囲んでいた白い霧は、一面、黒い煙へと変わっていた。しかし火の赤は見えず、まるで霧そのものが黒く変化したかのように思える。しかし、最初に感じた焼けた匂いが濃くなる事は無い。ならば大規模な火事というわけでもなさそうだが、この霧の色は一体……。この摩訶不思議な現象に恐ろしさを覚えた頃、白花の目の前に、大きな黒塗りの門が現れた。

「ああ、助かった」

 ここはまだ山中なのか人里なのかも白花にはわからないが、とにもかくにも助けを求められる場所を見つけただけで非力な少女には有り難かった。住人さえいれば、霧が晴れるまで休ませては貰えないかと頼むことも出来る。白花は意を決し、門の先へと進んだ。門の先も相変わらず不気味な黒い霧に覆われている為、庭の広さは推測でしか無いが、玄関までの距離を考えると相当な広さがあるように思える。また、足元では数羽の鶏が遊んでいる気配がした。裏庭と思われる方角からは牛や馬の鳴き声も聞こえる。これほど家畜に恵まれた屋敷なんて、相当な富豪なのか……、白花は今更ながら緊張し、ゴクリと唾を飲み込んだ。

「ごめんください」

 玄関前まで辿り着き、中の住人に声を掛ける。返答はない。白花はもう一度声を張り上げるも、結果は同じ。戸に手を掛けると、施錠はされておらず、あっさりと開いた。

「あのう」

 広い玄関はしんとしているものの思ったより明るく、今にも廊下の陰から女将だの女中だのが出迎えてくれそうな雰囲気がある。しかし幾ら待ってもそんな人物は現れない。白花は悪いと思いながらもそうっと履物を脱ぎ、屋敷内へと足を踏み入れた。

 手近の部屋から襖を開けて行く。その襖の隙間から座敷が見え、火鉢があり、鉄瓶の中で湯が沸いているのを見た。ああやはり人はいるのだと白花は安堵の息を漏らし部屋に入るも、肝心のその住人の姿がない。厠、とも考えたが火の側を離れるだろうか。それとも、離れなければならない理由があったのか。

 意気消沈しつつも、白花は踵を返して部屋を出る。廊下に出たところで、はたと気付く。こんなに、長い廊下だったか――?そんな小さな違和感だったが、ここまでくれば玄関に引き返す選択肢は存在しなかった。更に奥の部屋へと進む。

「ごめんください」

 白花はめげずに声を張り上げる。次の部屋は似たような座敷だったが、火鉢の代わりに、朱と黒の椀が乗った膳がぽつりと置いてあるだけだ。椀は二つとも逆さに置いており、食事の跡もない。白花は再びそうっと襖を閉める。溜息を呑み込み、更に屋敷の奥へと進んでいく。

 幾つかは似たような部屋が続いた。途中厨房らしき場所にも辿り着いたが、火鉢の時と同じく鍋の中で何かがぐらぐらと煮えていただけだ。裏口への戸を見つけ、厠にも足を運んだが、使用されているような形跡はあるののやはり人影はない。ただ、この場所で白花はこの屋敷の住人と遭遇した。生きては、いなかったが。

「ひ……」

 恐怖から飛び出た悲鳴を両手で抑え、白花はその住人から目を逸らす。青白く、透き通った半透明の人の手が、厠の中から手招きしている。白花は急いでその場から離れた。久方ぶりに見てしまった、などと思う。白花は幼い頃から、人ならざるモノを見てしまう目があった。誰に話してもそんなものはいないと言われるだけなので、彼女は必死にそのモノ達と関わらぬようにして生きてきた。ああ、ここは人ならざるモノ達の家だったのだ! 白花は声には出さず心の中でそう叫び、逃げ帰ろうとした。しかしどうした事か、ここまでの道程はそう難しくはなかった筈なのに、同じ部屋に辿り着けない、知った角を曲がる事が出来ない。

「誰か、誰か! お助けください! ああ、母様!」

 駆け抜けていく廊下ですれ違う、子供の影が嘲笑う。片脚のない男が行く手を塞ぐ。それらを避け、逃げ惑い、疲れ果て。白花はとある一室に飛び込み、崩れ落ちるように膝を着いた。早鐘を打つ心臓を押さえ、荒い呼吸を整える。乱れた長い髪を手櫛で整え、白花はぐす、と鼻を啜った。その時、白花は懐かしいような音を聞いた気がして、俯いていた顔を上げた。

 部屋の隅に、小さな洋琴ピアノが置かれている。格子窓からは紅い夕焼けが部屋に差し込み、室内を暖かく照らしていた。山道を歩いていた時は、まだ日の高い時間だった筈だ。そんなにも長い間彷徨っていたとは思えない。だが窓から見える景色は何処までも紅く、鴉の鳴き声が遠くから聞こえる。

 洋琴の上に、焼き菓子を詰めた籠があった。白花の祖母が好きだったものだ。

「おばあ、さま?」

 白花はよろよろと立ち上がり、洋琴へと近付いていく。幼い白花を愛し続けてくれた、優しい祖母。彼女が白花に音楽の楽しさを教え、母には内緒、と、菓子の甘さを教えてくれた。懐かしき日々に涙が滲み、切なく腹の虫が鳴る。裕福な生活が出来ていたのは、祖母が死去するまでの話。白花はその時七歳だった。

 祖母だけは、白花のどんな言葉も信じてくれた。夕焼けを見ながら、

『黄昏時には気を付けなさい。昔から、魔と出逢う時と呼ばれているから……』

 と、人ならざるモノを見てしまう白花に言い聞かせていた。

『可愛いお前が攫われないように。いいかい、もしもあの世に迷い込んだのなら、決して食べ物を口にしてはいけないよ。この世に帰って来れなくなるからね』

 祖母の言葉が直接頭に響くかのようだ。焼き菓子が目に入る。これは、あの世のものなのか。

「へぇ。洋琴に興味があるのかい、お嬢ちゃん」

「っ、!?」

 人の気配などなかった。だが、確かに声がした。低く落ち着いた、微かながらに嗄れた声。振り向くと、六尺はゆうに超えているだろう、背の高い男が此方を見つめていた。この屋敷に来てから、初めて出会う人間だった。

 身に付けている羽織や袴は上等な物だと一目見ればわかるというのに、癖の強い毛先が跳ねた髪と、無精髭とまでは言わないが、僅かに伸びた髭がどうにも目立つ。もう少し身形さえ整えれば、見目も良くなりそうな顔立ちだと言うのに。目元の皺の深さを見るに、歳は四十程だろうか。しかしまあ、ガタイは良いものの最低限の清潔な雰囲気から、山男という印象は受けない。

 男は手にした煙管を口に運ぶと、かちん、と吸口を噛み歯で音を立てた。

「出迎えが遅れてすまねぇな。俺はこの屋敷の主だ。名は赤芽あかめという。大したもてなしも出来ねぇが、ゆっくりしていきな」

 燻んだ眼を白花へと向け、皮肉じみた笑みを見せる。白花は戸惑いから口を何度か開閉させ、反射的に頭を下げた。

「……し、白花と、申します……。病の母の為に、帰路を急いでいたところ、霧が出てきて……数歩歩くのも困難になりまして」

「この屋敷に助けを求めたんだろう? いいぜ、好きなだけ居てくれて」

 受け答えがあまりにも普通過ぎて、今迄の事は幻だったのかと疑う。白花は顔を上げ、今一度赤芽と名乗る男の顔を見た。透けてもいない。顔も歪んでいない。白花が知る限り、ここまで意思の疎通が取れ、ハッキリとした人の姿を取る魔の類はいなかった。だが、と白花は拳を強く握る。言葉と共に赤芽が差し出したのは、洋琴の上にあった焼き菓子だ。それをどうしても素直に受け取る事が出来ない。

「……いえ、そういうわけには」

「ああ。早く帰りてぇのか」

 やんわりと断ると、案外あっさりと赤芽は引いた。籠を洋琴の上に戻し、煙管を深く吸い込む。その時、白花は赤芽の口から黒い煙が吐き出されるのを見た。煙管の煙が黒くなる事などあるのだろうか。いや、この煙には見覚えがある、あの、恐ろしく不気味な深い霧の色だ。さぁと血の気が引いた。

「安心しな。出口はある」

 一気に青ざめた白花に、赤芽が優しささえ感じられる声色で言う。白花は藁にもすがる勢いでその言葉に食い付いた。

「何処に、何処にあるというのですか?」

「すぐそこに」

 赤芽が指し示したのは、菊の花が描かれた襖の先。その襖の隙間から、無数の目が此方を見ていた。何の感情もない、冷ややかな目が、瞬きをして。今まさに、深淵へと白花を導こうとしている。

「ひっ、あああぁぁぁぁ!」

 絶叫にも近い悲鳴を上げ、白花は真逆の襖を蹴破らん勢いで開き、再び長い廊下を駆け出した。息は切れ、喉から心臓が飛び出るかと思う程に逃げて逃げて逃げて。行き止まりにぶつかった。振り向くと、深淵が迫って来ている。直ぐ傍の部屋に飛び込もうにも、襖が固くて開かない。

「開いて! お願いします、お助けください……!!」

 無我夢中で、半狂乱に陥りながら襖を拳で叩く。襖は石壁のように硬く、白花の細い手首が折れてしまいそうな勢いだ。その間にも闇は迫る。しかし闇よりも速く、床板を軋ませる存在がいた。家主を名乗った、赤芽である。彼は泣き噦る少女に近寄ると、そっとその手首を掴んだ。

「落ち着きな」

「嫌! 離して!」

「離しても良いけどな、良く見な」

 低く落とされた声を耳元で囁かれ、白花は抵抗する動きを止めた。すると急に足元から生温い風が吹き上がる。

「え、あ、」

 その空間だけ切り離されたような奈落が、白花の眼下に広がっていた。腰が抜けそうになるも、背後から赤芽に抱えられ、難を逃れる。引き摺られるように後ろに下がり、赤芽の腕が離れると身体中の力が抜けて白花はその場にへたり込んだ。

「あと一回、襖を叩いていたら落とされていたな。この屋敷は煩い奴が苦手なんだ」

 へたり込む白花に家主が言う。まるで家そのものの意思のように言うものだから、手を這わせた床板さえ恐ろしくなる。

「この家は生きて、いるとでも……?」

「なぁに、気をつけていれば可愛いもんさ」

 白花の問いに明確には答えず、赤芽は手にした煙管を深く吸い込むと、口から黒い煙を細く吐いた。その煙は奈落の穴へと向かい、穴を隠すように広がると、暫くその場にモヤのようになって留まる。煙の色が薄まり、目視出来なくなると、奈落は元の床板の姿へと変わっていた。

「赤芽様」

 一連の流れを見ていた白花は姿勢を正すと、この屋敷の主に問い掛けた。

「ここは一体、何なのですか」

「ここはマヨヒガ、居場所をなくしたものが辿り着く場所」

「居場所、を?」

 煙管を吹かしながら答えた赤芽の言葉を繰り返し呟き、白花は唇を震わせる。その不安げな様子に赤芽は笑い

「何、例外もある。ただ迷い込んじまった、って奴もいるさ。全ての人間が帰れないというわけじゃあない。帰る場所がある奴は、問題なくこの家から出られるぜ」

 そう言葉を続けた。

「ここは、家の無い者達が、最後に辿り着く家ということでしょうか。そして稀に、帰る場所がある者も、迷い込むと……故に、迷い家と」

「そうさ。嬢ちゃんには――」

「母様が、私の帰りを待っております」

「そうかい。そいつぁ、良かった」

 自信を持ってそう言い切ったが、赤芽はそんな白花を嘲笑ったり憐れむような笑みを止めない。それが素の顔なのかもしれないし、白花の過ぎた思い込みの可能性もあるが、とにかくこの男から感じるのはなんとも言えない胡散臭さだった。赤芽の言葉全てを信じる事も出来ないが、母が待つ家に帰らなければならない、と言う思いはずっと、抱き続けている。最悪、奉公先などは、白花一人欠けたところで何の問題もない。稼ぎ口がなくなって白花本人が困るだけだ。他に交流もなく、友もいないが、母は別だ。何より肉親、病もあり、白花という娘がいなくては生きていくのも困難なのだ。そんな母を持つ白花は赤芽の言葉で言うなら“例外”であり、ただの迷い人なのである。

 しかし、一つの疑問がある。家、居場所の無い者達は、この屋敷から出る事が出来ないと言うのなら。その者達は一体、何処へ行ったのか。これまで目撃した人ならざるモノ達を思い出す。ああして、ここの住人になるのか、もしくは……。

「赤芽様。わたくしはここで失礼致します」

 家主に出口を聞く、という選択肢はなかった。白花は一刻も早くここから、いや、赤芽から距離を離したかった。厨房で嗅いだ、強い、香草の匂いを思い出す。煮込まれていた鍋の中身は、牡丹でも紅葉でも桜でもない。白花の知らぬ肉。

 この男は一体、何を食べている。

 そんな思考がぐるぐると渦を巻いていた。


 赤芽は引き留める事はしなかった。家主と別れ、白花はまた一人、屋敷内を彷徨う。足が棒になるほど歩いても、廊下の先は見えず、部屋には人の気配も無い。だが時々、中身が無い酒瓶が転がっていたり、折り紙で遊んだ跡があったりなど、そこで過ごす誰かはいたのだと思わせるものがある。

 何故自分はここに迷い込んだのだろう。白花は少し冷えた頭で考え始めた。

 白花は父に愛された記憶がない。言葉を交わした記憶も数回あるかないか。まともに目すら合わせた事もなかった。

 父は、白花と母を捨てた。

 祖母の葬式が終わって直ぐの出来事だった。知らぬうちに父は海の向こうで新たな家庭を持ち、置き手紙を一枚だけ残して去っていった。それまで住んでいた家からは当然のように追い出され、母は幼い白花を連れて故郷へ帰る事となった。母側の祖父母は既に他界しており、やむなく親類を頼ったが母が病気になると厄介者として扱われた。今の家も親類が手配したものではあるが、隙間風の酷いボロ屋だ。勿論、家があるだけマシではあるが。親類の手助けはそれ以上はなく、白花は幼いうちから奉公へ出なければならなかった。祖母の教えもあって最低限の教養こそ身に付いてはいたが、基本は肉体労働ばかりである。

 父がいてくれたならと思う事はない。だが、捨てられたという悲しみだけは根強く心に残っていた。せめて、母が病にならなかったら。母も働ける体だったのなら。そう思う事はある。こんなに惨めで寂しくて苦しい思いをしなかったのでは、と。

「母様、申し訳ありません……」

 こんな両親、最初から要らなかった、と。一瞬でも願った、報いなのか。白花はただ、許しを請う事しか出来なかった。

「お許しください……」

 布団を被り、声を押し殺して泣く母の姿が思い出される。そんな母を見てきたから。白花はじっと耐える事が出来た。例え、奉公先で酷い虐めをされても。暴言を吐かれても。厳しい折檻を受けても。

 お許しください。お許しください。

 そう泣いて、鞭を打たれ続けた日々。

「いや……」

 ただでさえボロの着物が破れ、背中に傷が増えても、白花は耐えた。奉公先の主人に強いられ、破瓜を味わうことになっても。

「おゆるしください、おゆるしください……」

「怖いのか?」

 気付けば、白花は大粒の涙を流し、その場に蹲っていた。声を掛けられても動けず、頭を垂れて、体を好き勝手に嬲られたあの日のように、泣いて懇願するばかり。

「どうか、どうか。おやめください。おゆるしください。いや、いや……」

 白花の体がずるりと引き摺られ、襖が閉まる。

 それは苦痛だったのか、慰めだったのかは白花にはわからない。ただ久方振りに、深く眠ったような気がした。


 白花は布団の中で目を覚ました。普段使っているようなカビ臭いものではない、滑らかな手触りの、分厚く中身が詰められた温かなものだ。これほどあのカビの匂いが恋しいと思った事はない。全て夢の中での出来事だったら、どんなに良かっただろう。白花の顔を覗くのが黒い顔の子どもではなく、少しやつれた顔をした母だったなら。泣いて甘える事も出来ただろうに。

 全てを諦めたかのような顔で、白花は気怠い体を起こす。影のような揺らぎを見せる子どもが白花の動きに合わせて跳び退き、小さな手で水の入った桶を差し出した。寝起きの主人や病人に差し出されるような桶。使って、良いのかと瞬くと、影の子はこくんと頷き乾いた手拭いを見せて来た。寝起きや疲労といった理由で頭が回らず、白花は差し出されるがまま桶の水で顔を洗う。井戸から汲んできたばかりらしい、冷えた水が心を落ち着かせてくれる。

「どうも、ありが、とう」

 途切れ途切れに礼を言うと、黒く不透明な影の子の顔が、微笑んだような気がした。次に白花が瞬きすると、子どもの顔は黒く塗り潰されたようになり、眼球の位置に鈍く光る白い穴が二つ、確認出来るだけだったが。影の子は白花が使用した桶と手拭いを持つと慣れた手付きで立ち上がり、廊下へと繋がる襖から部屋を出て行ってしまう。白花はそんな背中を見ながら、自分も奉公に出たのはあのくらいの背丈の頃であったと、ぼんやりと思った。布団から這い出ると、自分が薄紅色の寝間着を着用している事に気付く。元に着ていた着物や袴は枕元に畳んで置いてあった。触ると、洗濯どころか、気にしていた染みやほつれすら直されている。何故こんなに手厚い歓迎をされるのだろうか。何だかおかしくなり、白花が思わず笑うと、布団を早く片付けたいらしい影の子の存在に気付く。素早く着替え、せめてもと布団を畳むと仕事を取らないでと影の子が困ったように手を振ったので、声の無い訴えに観念して中途半端に寝室を後にする。果たしてそこは昨日と同じ屋敷だったのか。時間の感覚さえ狂っているが昨日と例えていいだろう。それほど明確な違いがあった。とはいえ屋敷の全体的な雰囲気は変わらない。大きな変化は白花の精神状態である。あれほど遠ざけてきた見えてはならぬモノ達に意識を向け始めたのだ。なにぶん今更目を逸らせないのだし、と。するとどうだろう、昨日は恐ろしく感じた住人が、今日はただ忙しなく働いている小間使いにしか見えない。白花の起床の手助けをした影の子もそうだが、廊下を進んで行くと、似たような影が床の拭き掃除をしていたり。膳を運ぶ影達とすれ違ったり。偶然厠に辿り着いた時はそれはもう驚いた。青白い手の主はせっせとちり紙を補充していたのである。昨日の恐怖は何処へやら、ただただ拍子抜けしてしまう。とある部屋には、竹籠を編んでいる成人男性らしき影の姿もあった。よく見ると片脚は無かったが、手先は大分器用なようだ。その他にも老婆らしき影とも出会う。彼女は厨房担当らしく、手際良く食材を刻み、鍋を掻き回していた。中身こそ見えなかったが、刻んでいた食材から察するに山菜汁だ。

 出口を求めぬ探索を続けて、暫くした頃。くん、と白花の着物の裾を引く者がいた。見ると、他と比べても随分と幼い雰囲気の影の子がいた。歳を考えるなら三つほどか。

「どうしたの?」

 白花は人の子にするように体を屈ませ、影の子と視線を合わす。すると、影の子はある方角を指差し、控えめに何度も裾を引いた。まるで着いて来てほしい、と言っているかのようだ。白花はその幼子の願いを聞く事にした。

 影の子に連れられ、白花はそのまま中庭に面した縁側へと移動する。中庭にも見事な紅白の椿が咲き誇り、鯉が泳ぐ池もある。その先、山桃の木だろうか、幾つかの実は青いが、赤黒く熟した実にザラメをまぶしたような表面が確認できる。その木の枝には、見事な装飾がされた鞠が引っかかっていた。

「あれをとってほしいの?」

 白花が問うと、影の子はこくりと頷いた。丁寧に沓脱ぎ石には草履が揃えられており、客人への配慮に事欠かない。それを履き、白花は中庭へと進んでいく。鞠は大人の背ならば手を伸ばせば届く距離。伸ばした指先でてい、と押し込めば向こう側へと落ちていく。てん、てんと跳ねて転がる鞠に影の子が飛び付き、無邪気にその場で駆け回ってみせた。

 人の子と変わらぬ仕草に、現状を忘れてしまいそうになる。影の子は、白花に向けて鞠を投げてみせた。

「遊んでほしいの?」

 またこくりと頷く。声なき無邪気さが、白花の心を溶かしていく。

 幼い頃から奉公に出ていた白花は、遊びの仕方さえ忘れていた。遠き日に覚えた歌を口ずさんでみる。そうそう、確かこうして、歌に合わせながら鞠をつくのだ。とん、とん、と小気味よく連続で鞠を跳ねさせると、影の子がぱちぱちと拍手した。可愛らしい賞賛に少し照れ、今度は白花から影の子に鞠を投げる。気付けば、子どもの数が増えていた。順番に鞠が投げられ、それぞれが自由に遊ぶ。皆黒い影の姿をした、人ならざる子ども達ばかりだったが、白花は最早恐怖など感じなかった。

「ここの住人達は、役目を求めていてね。だからみぃんな、小間使いの真似事をしてるのさ」

 その輪の中に、赤芽の姿があった。子ども達の中に混ざれば直ぐに気付きそうなものだが、赤芽が口を開くまで、白花は気付く事が出来なかった。なんとも当然のような顔をして、鞠を足の甲に乗せて高く跳ね上げさせ、器用に額の上に乗せたりなんかしているものだから。

「ここに来る前に、皆お前は要らないって言われた奴等ばかりでね。少しでもいいから、役に立ちたいって働こうとする健気な奴等さ。可愛いだろう」

「役に……」

 赤芽の言葉に、白花は周囲を見渡す。子ども達は早く順番を回してと赤芽を急かしている。赤芽は右隣りの子に鞠をやり、話を続けた。

「働くばかりじゃない。こうやって遊ぶ事も必要でね。過去、満足に出来なかった事を求めているのさ」

 白花にも見に覚えがある。

 同じ年頃の子供達が無邪気に遊ぶ様を遠目で見ながら、働きに出ていた――、

「俺はそんな奴等と、こうして付き合ってやるのが、仕事でね」

「貴方様は、一体……」

「さて、どう見えるかは嬢ちゃんに任せよう」

 輪が回り切った。鞠が、白花の手元に帰ってくる。すると、一番初めに鞠を取ってくれと強請った、周囲の影よりも一回り小さな子どもが白花の前へ出る。もう、影の子とは呼べなかった。黒く不透明だった表情が、ハッキリとひとのものとして浮かびあがっていた。頬がふっくらとしていて、目はまん丸くて、鼻は少し低い。額に痣が見えたが、悲しき理由を知る間もなく幼子は満足気な笑顔見せて、そして、そのまま姿を薄くさせて。最終的には光の粒となり、消えていった。

「……あの子は、満足されたのですか?」

 半ば呆然とそれを見送り、白花は赤芽に問い掛ける。

「ああ。楽しかったってさ」

「赤芽様……」

 つまりは満足したと言う事なのか。この世の未練を断ち切った、と。白花にはあの子どもが成仏したように見えたが、それが真実かは確かめる術がない。赤芽の言葉を信じるしかないのだ。

 やはりここの住人達は迷い人の末路に違いない。現世に居場所をなくした者が辿り着く場所というのも頷ける。住人に子どもが多い理由も察した。所謂、口減らしではないだろうか。山に捨てられた子ども達が、家を求めた結果、現れたのがこの家、マヨヒガなのではないだろうか……。無論、推測に過ぎない。だがあの幼い笑顔は、まことのものだと思うのだ。

「私は、勘違いをしておりました。ここは、たいへん恐ろしい場所だと、思っておりました。なんて、なんて優しい場所なのでしょう」

「そうかい。嬢ちゃんはそう感じたかい」

 白花の言葉を否定せず、肯定もせず、迷い家の主人、赤芽は鞠を受け取ると、側に控えていた影の子にそれを手渡した。それがお開きの合図となったのか、影の子達は散り散りになり、再び自分に与えられた仕事の場へと戻っていく。白花は、深く深く、赤芽に頭を下げた。

「私は、帰ります。母が、待っておりますので」

「病気とか言ってたな、心配だろう」

「はい……」

 頭を上げ、沈んだ表情を隠しもせずに、白花はそろりと口を開く。

「あの、赤芽様、もし……」

 唇が震える。おそろしいのだ。言葉にすることが。

「もしも、母が……、私に報せが届く前に。奉公先から家へ帰るまでの道程の間に、亡くなっていたのなら」

 可能性として考えていた。ここに己が迷い込んでしまった条件のひとつとして。

「私は迷い人の条件に当て嵌るのではありませんか。だとしたら私も、この影達と同じようになるのでしょうか」

「不安かい?」

「……」

 おそれているのは、

 母が既にこの世からいないこと?

 己が影の姿になること?

「居場所ってなぁ、家や、人の事だけじゃあねぇさ。帰りを待っていた、その事実さえ残ってりゃそこはもう、嬢ちゃんの居場所さ」

「赤芽様……」

「俺は此処で待ってるぜ」

 赤芽の姿が霧に包まれていく。中庭だった場所が、門の外へと変わっていた。

 白花は門を背に、歩き出す。影達があの屋敷で役目を与えられたように。白花にも、役目がある。

 私は、母の役に立ちたい。

 そう、強く願って一歩、進む。


 かさり


「……あ」

 ずっと胸元に忍ばせておいた薬袋が、何かしらの要因で地面へと滑り落ちた。それを拾い上げようとして、ぐらりと、白花の視界が揺れる。

 思い出される、床に臥せった母の姿。

『……ああ……帰ったのかい……白花、』

『ただいま、母様。さぁ、お薬を買ってきましたよ』

『ごめんねぇ、こんな母様で、ごめんねぇ』

『いいのよ、母様。どうか元気を出して』

『お前の為にも、いっそ、死んじまった方が良いんだろうねぇ……』

『母様、やめて。そんなこと言わないで。ほら、今芋煮を作るから。お薬、ちゃんと飲んで……お願いよ』

『ごめんねぇ……白花、ごめんねぇ……』


 白花の歩みが止まる。霧が深く深くなっていく。

「そう、だ……、私、は……」


 山の麓の集落で、潜めた声がふたつ。

「とうとうくたばったねぇ、あそこの……」

「ああ、何処ぞに地主様ン所に嫁ぎに行ったってのに、旦那に追い出されたっていう? 追い出されたうえに流行病なんてねぇ……しかも子連れで帰ってきて」

「まあ、娘さんは、元気にやってるみたいじゃないか。学校も通わず、奉公に出て……」

「ええ? わたしゃ、他所に男を作って出ていったって聞いたよ? 病気の母親なんぞ、抱えてらんないって」

「あの娘に限って、そんなことはないと思うけどねぇ。いつも忙しそうで、挨拶くらいしかしたことないけどさ、健気で可愛らしい子だったよ。まあ、ちょっと色白で不気味ではあったけどね……」

「いやいや、年頃の娘なんだよ? 母親の死に目にも帰って来ないんだから、男が出来たって考えるのが普通さ」

「そうなのかい? だけどさぁ、そうなると母親が可哀想じゃないか。旦那だけじゃなくて実の娘にも捨てられちゃあ」

「いやぁ、そうとも言えないよ。母親だったら、娘の幸せの方を願うだろうさ」

「なるほどねぇ。寧ろ、奉公に出掛ける度に、こう思ってたかもしれないねぇ」


「もう、帰ってくるなってさ」


「ああ、それも親の愛かもしれないねぇ……、年頃の娘を老い先短い命に縛り付けるくらいなら……ってね……」

「あの子、帰ってくるかねぇ。といっても、こんなボロ屋、壊さねぇと火事の元だからね」

 潜めた声は、やがて風の中に消えていく。


 白花は再び黒塗りの門の前にいた。そこには、迷い家の主人が立っている。

「おかえり。どうだった?」

 その言葉を聞いた途端、白花は膝から崩れ落ち、顔を両手で覆った。

「わかって、いました……! 本当は、わかって、おりました……!」

 気付かぬふりを続けていた。母には自分がいなければ駄目だと思い込んでいた。

「わたくしは――母様に、必要とされていなかった……! 届けていた薬は、母様には毒だった! わたくしはそれでも、それでもかあさまに生きていてほしかった! それこそ私の罪でした、縋る対象が欲しかった、私の生きる理由が知りたかった。だって、だってそうじゃあありませんか!」

 髪を振り乱し、泣き喚き、絶望の底に落ちた白花の前に、赤い果実が差し出される。

「食いな」

 赤芽が言う。それが何を意味するか、互いに理解している、そんな中で。

『いけないよ白花。その男は天邪鬼だ。優しい嘘でお前を惑わして、お前を喰ってしまうつもりなんだよ』

 祖母の声が、聞こえたような気がする。

「いいえ、お祖母様。だとしても、良いのです。白花は、もう、嘘でも良いのです。例えこの方が鬼だとしても。私を喰らう直前まで、優しい嘘を吐いてくださるのなら」

 白花は虚ろな目で、矢継ぎ早に言葉を綴る。

「そうです。母様は。一度も私に、おかえりなんて、言ってくださらなかった。いつも御免ねと謝るばかりで、私を迎え入れてはくださらなかった! 私を迎え入れてくださるのなら、もう……白花は、鬼の腹にだって参ります」

 差し出された果実は鞠を取る時に見かけた、山桃の実。白花は小さく口を開き、赤黒く熟したそれを、種を噛まぬように周りの果肉を削るように食む。赤芽の指先から水が滴り、白花の顎へと流れ落ちる。それと同時に白花の喉が上下に動いた。


 ――おかえりと言ってくださった、迷い家の主人の傍らを。白花は新たな居場所と致します。

「はい、只今戻りました――旦那様」


 果汁に濡れた唇で、白花は笑って見せた。新しき住人を迎えた屋敷は、黒い霧に包まれ搔き消える。消えた先が地獄か極楽か、知る者はもういない。


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