第14話

 シェンは走った。夢の中なのに息が切れるのは、シェンが現実の感覚を引きずっているからだ。


 普段だったら、これは夢の世界だぞと自分に言い聞かせれば多少改善出来た。だけど今は無理だった。


 何故なら、シェンは今自身の村の道をひた走っていたからだ。だってこの道は知っている。あの家の先を左に曲がれば、シェンの家がある。


 何故、全く関わりがない筈の老婆の夢にシェンの村の一部が存在しているのか。考えたくない事実はすぐそこに答えを持って待っていたが、どうしてもこの目に焼き付けたい光景があり、シェンはその答えからあえて意識を背けていた。


 見知った家の角を左に折れる。正面に飛び込んできたのは、やはりシェンの家だった。家の中からは明かりが漏れており、シェンは家から数歩手前で足を止める。


 開かれた窓から中を覗くと、中に人影が見えた。


 長い銀髪のシェンが、椅子に腰掛け同じ銀髪の母に髪を梳いてもらっている。


「母さん……」


 何故、どうして。


 自分が泣いていると気付いたのは、顎にぬるい水滴が垂れてきたからだった。


 何故老婆の夢に自分と母が存在しているのか。何故幸せだったこの瞬間をわざわざ選ぶのか。


 顎が小刻みに震え、シェンの判断は鈍る。


 すると、髪を梳き終わった母が、こちらを振り向いた。


「あら、どちら様?」


 まごうことなき母の声だった。間違いない、この夢に関わった者は、母をよく知る人物なのだ。


 本来目があるべき場所には黒い闇しかなく、そのことでこの母が影であることが分かった。だが、母はすでに他界していて獏になることは不可能だ。ということは、この影はこの夢に取り憑いている獏が生み出した夢、なのだろうか。


「シェン? 髪の毛を切ったの?」


 母が微笑む。


 いつの間にか中にいたシェンの姿は消えており、シェンは自分がこの夢の世界に組み込まれつつあることを知る。


 すると、家の中から母が出てきた。


「シェン、勝手に出ていっちゃうから心配したのよ」


 母が近くに寄ってくると、優しくシェンの頬を撫でる。目は何も映していなくとも、その暖かさと優しい触れ方は母そのものだった。


「母さん……」

「父さんも心配していたのよ」

「……え」


 父さんと聞いて、あり得ない懐かしい時間に呑まれそうになっていた意識が戻ってくる。いけない、この夢に巻き込まれそうになってしまっていたらしい。


 母が、シェンをそっと抱いた。


「もう心配かけないで。どこにも行かないで頂戴」

「母さん……俺……」


 これは夢だ。分かっているのに、突然奪われた母の温もりが今目の前にあって、シェンはこれを振り切ることがどうしても出来なかった。


「すっかり大きくなって」


 泣きそうな声で言われて、抵抗が出来ようか。


「母さん……っ」


 いけないと、これは幻だと分かっていても、シェンは自分の行動を止められなかった。


 母の細い身体を抱き締めると、懐かしい母の香りがする。涙が滲むと、もう止まらなくなってしまった。


「母さん、母さんんん……っ!」

「泣いちゃってどうしたのこの子ってば。いいこね、シェン」


 母は小さな子供をあやす様にシェンの頭を撫でる。ずっと会いたかった、最期にさようならを言いたかった。だけどそのどれも叶わなかった。


 図らずも、それはこんな形で叶ってしまったけど。相手は気を許してはいけない影だと分かっているのに。


 そこへ、懐かしい低い声がシェンに声を掛けてきた。


「シェン、母さん、家の中に戻ろう。外は冷えるよ」


 泣き顔を上げると、家の玄関の前に立っていたのは、足許に影がある父だった。

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