世界一の椅子
猿会 合
世界一の椅子
世界一のものは
芸術大学に通っていた頃、進路選択の指針となった言葉だ。これは誰かが言っていた言葉ではない。俺自身が考えついた言葉だ。そんな考えに至ったのは極めて安直な発想からだった。
例えば、「足が速い」ということ自体にはそこまで価値は無い。だから足が速いからといって大金を稼ぐことは出来ない。しかしそれが「世界一足が速い」だったらどうだろうか。国際大会に出て簡単に賞金を稼げる上に、スポンサーがついた暁にはガッポガッポ間違いなし。
つまり、どんなことでもいいから世界一になってしまえば金を稼ぎ放題なのだ。それなら話は簡単だ。自分の得意なことで世界一になればいい。
では一体なにで世界一になろうか。俺には大した趣味や得意など無い。しいて言うならば、大学で専攻していた彫刻だろうか。まあ、特別成績が良かったわけではないのだが。
彫刻で世界一を目指すというのが過酷なことくらい流石の俺でもわかる。そもそも芸術なんてものは価値基準が多すぎるから、世界一を決めることなど無理なのだ。それが芸術の面白さであり難しさなのだから。
彫刻の授業を振り返ってみると変な授業ばかりだった。立方体の木片から綺麗な球体を掘り出したり、時には自分より背の高い石から自分そっくりの像を掘り出したりもした。自画像ならぬ自石像だ。
彫刻自体は好きだったが、課題としてやらされた途端気がノらなくなった。自分の作りたいものを作れればこれ程楽しいことは無いのだが、主体性の無い創作は楽しさをストレスが上回る。それもあり、どっちつかずの成績しか取れなかった俺だが、一度だけ課題で最高評価を得たことがある。
それは忘れもしない、「椅子」の課題だった。一人一つ、椅子を掘り出すに十分な大きさの木材を与えられ、一週間で椅子を完成させるというものだった。何故かこの課題は夢中で取り組んでいた気がする。徹夜で作業したのもこの時が初めてだった。
何故その課題には没頭出来たのか、今ならわかる気がする。おそらく、椅子というものは実用性が伴う必要があるからだ。つまり、「実用性」という確固たる価値基準があったのだ。そうは言っても芸術の授業なのだから、シルエットの美しさなどの芸術性も求められる。しかしその芸術性というものも実用性に直結する範疇でのことだ。
今わかった。俺という人間は具体的な価値基準さえあれば迷わず作品を作れるのだ。そしてそれを形にする技術も持ち合わせている、彫刻に関しては。
そこでアイデアが浮かんだ。「世界一○○な椅子」を作れば良いのだ、と。○○の部分を考えるのはそう難しくない。なぜなら椅子は実用的なものだからだ。当然真っ先に思いつくのは「世界一座り心地の良い椅子」だった。しかしこれには問題がある。座り心地の良さは主観が入ってしまうため、この企画に向かない。もっと具体的にする必要がある。
そこで思いついたのが「世界一柔らかい椅子」だった。柔らかさは感覚の差異が少ないだろう、と考えたからだ。
すぐに試作を始めた。柔らかい素材を思いつく限り集めてみた。綿、羽毛、砂、水、スライムなどなど、数えてみたら三十種類の素材が揃った。そしてそれらの素材を一つずつ最高級シルクの生地で包み、木で作った椅子の枠組みにあてがう。全ての素材を試してみたが、どれも世界一柔らかいとは到底言えない。
究極に柔らかいものの案として「空気」が挙がった。空気を上手いこと生地で包み、同様に試してみたところ、びっくりな結果だった。気圧というのはバカにできないもので、座った途端反発をくらう。まさかの一番固い試作品となった。
しかし、この案は次の突破口を開いた。いくら素材が柔らかくても、布で包んでしまえば圧力の関係で固くなってしまう。冷静に考えればすぐ分かることにようやく気がついた。
どうすれば布で覆うことなく椅子を造形できるだろうか。この問いに直面してからは長かった。全くアイデアが出てこない。
手も足も出なくなってから二週間ほど経ったある日のこと。その日は絵のように晴れた一日だった。散歩帰りに空を見て、「トイストーリーの壁紙みたいな雲だな。」なんて思っていたのも束の間。
「これだっ!」
やっと閃いた。
急いで家に帰り、計画書を書き上げた。それから電子機器を扱う業者と連絡を取り合い、必要な機器を発注した。
それから一ヶ月程で材料が全て揃った。業者の説明を受けた通りに組み立てる。大掛かりな作業だったが全て一人でこなした。
完成したその機械はとにかく大きかった。軽自動車一台分くらいはありそうだ。
早速電源をつけてみよう。スイッチを上にカチッとやる。そうすると中が何やら動き出したようだ。重低音が部屋に鳴り響く。
次に一つ目のボタンを押す。そうすると機械の前に白い雲が発生した。業者が言っていた専門的な話はよくわからなかったが、大気中の水蒸気をどうにかして雲に変えているらしい。
そして二つ目のボタン押す。すると、立ちこめていた先程の雲が徐々に集まり始めた。なんということか、三十秒もしないで雲は椅子の形にまとまった。これは電磁波によって雲を成型しているのだ。確かそんなようなことを業者が言っていた。
これで椅子の完成のはずだ。俺は恐る恐る触ってみた。嘘みたいだ。ハッキリと触れる。それでいて極上の柔らかさだ。次にゆっくりと腰を下ろしてみる。なんだこれは。柔らかいなんて話ではない。もはや宙に浮いている感覚だ。
とうとう完成した。完成してしまったのだ。間違いなく「世界一柔らかい椅子」が。
俺は産まれてから一番の喜びを感じた。それは世界一になったという確固たる自信から来たものだろう。自分の手で掴み取った世界一には何事にも代えられない快感がある。
雲で出来た椅子に座りながらそんな余韻に浸っていたところに一本の電話がかかってきた。
「もしもし。久しぶりだな。今こっちに帰ってきてるんだけど会えないか。」
大学時代の友人の声だとすぐにわかった。俺と同じく彫刻を専攻していた奴で、今は東京で家具を扱う会社を立ち上げている。経営が厳しいという噂を耳にしていたから、会って話を聞きたいと思っていたところだった。
でも今の俺は内心それどころではなかった。俺は浮かれた気持ちを隠しながら答えた。
「いいね。会おうよ。」
午後七時頃、学生時代によく通った居酒屋に入ると、懐かしい気持ちと懐かしい顔がそこにあった。
「すまん、待たせたね。」
「久しぶりだな。」
「あぁ、四年ぶりくらいか。」
「最近どう?」
「いや、それがさ…」
待ってましたと言わんばかりに俺は話を切り出した。
「凄いものを作り上げたんだよ。世界一の椅子さ。」
「なんだそれ、凄そうだな。」
凄そう、という言葉だけで嬉しかった。それから、開発の経緯から仕組みまでを事細かに説明した。
「雲の椅子か。凄い発想だな。」
「まあ、なかなか大変だったけどねぇ。」
「実はさ、俺も最近新しく椅子を開発しているんだよ。」
「奇遇だな。どんな椅子なの?」
「いや、お前みたいに凄い椅子なんかじゃないから恥ずかしいんだけどさ。」
「なんだよ、教えろよ。」
「名前は『パイプ椅子』っていうんだけど…………」
数年後、彼が言ったその椅子は世界一売れた椅子となった。
世界一の椅子 猿会 合 @monkey_rerendezvous
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