第38話 彼女の背中

「な~に負けちゃってんすか獅音兄ぃっ!!」


 若干涙目になりながらギャ~ギャ~喚くアリスを、ちゃっかりと空気を読んで彼女のもとに舞い戻っていた服部が、苦笑混じりに羽交い締めにする中。


 斑鳩は地面に仰臥したまま、史季に訊ねる。


「最後、ハイじゃなくてローで蹴ってきたの、そっちの方が折節にとっちゃ信頼できたからっつったところか?」


 まさしくその通りだった史季は、勝ってなおこの先輩ひとには敵わないなと思いながら答える。


「はい。もともとハイキックは使ものですし……〝あの時〟夏凛を守ることができたのも、ローキックのおかげでしたから」


〝あの時〟とは、夏凛が風邪を引いたところを荒井に狙われた時。

 つまりは、史季が荒井とタイマンを張って勝利した時を指した言葉だった。


 そのあたりについてまで察したかどうかはわからないが、斑鳩は悔しげに楽しげにケンカの敗因を語る。


「その違いが勝敗を分けちまったみてえだな。ちゃっかり、オレが脚一本で体を支える瞬間が狙われたことも含めてな」


 そしてそれこそが、最大限にローキックを効かせられるタイミングであり、斑鳩がハイキックを繰り出す瞬間を狙い澄ました理由だった。

 理想としては、ハイキックをかわしながらローキックを叩き込むことだったが、そんな器用な真似ができる体力など史季には残っておらず、結局相討ちになってしまった。

 そういった意味でもバツの悪さを覚えていた史季は、笑って誤魔化すばかりだった。


「あとはまあ、勝利の女神の差だな。オレについてた女神が、あんなチンチクリンじゃなくてレナちゃんだったら、もうちょい頑張れたと思うんだよなぁ」


 いまだ服部に羽交い締めにされながらギャーギャー喚いているアリスを、見もせずに親指で指し示す。

 つくづく、〝マインスイーパー〟でさえなければと思わずにはいられない残念っぷりだった。


 ケンカはケンカでも、タイマンを張ったというよりも、二人で強敵に挑んだ後のような雰囲気を醸し出す史季と斑鳩をよそに。


「折節の奴、これで小日向派テメェんとこ以外の四大派閥のトップ全員に勝ったことになるのか!?」

「おいおい、折節がやったのは鬼頭姉じゃなくて弟だから、全員じゃねぇだろ!?」

「けどよぉ、今の鬼頭派は姉と弟の二人が頭っつう話らしいぜ!?」


 不良たちが史季の勝利に熱狂し、


「相討ち上等のローキックか……」


 苦い記憶を呼び起こされた荒井が、その言葉以上に苦々しい表情を浮かべる。


「斑鳩は斑鳩で、相変わらずの大バカだな。最初にダウンを奪った時点でさっさととどめを刺していれば、楽に勝てたものを」


 もっとも、をやらないのが斑鳩だということは誰よりもよくわかっているので、荒井は舌打ち一つで苦みを抑え込んでから、宣言するように言葉をついだ。


「まあいい。折節には、いずれ力の差というものを教えてやるまでだ」

「今のケンカを見て、そんな台詞が吐けるアンタはアンタで大概だねぇ」


 呆れた様に言いながら、朱久里は隣にいる弟を横目で見やる。

 蒼絃は蒼絃で、史季の勝利を喜ぶと同時に、史季に先を越されたことを悔しがる、なんとも複雑な表情を浮かべていた。


(やれやれ、どいつもこいつも男の子だねぇ)


 あえて口に出すことなく、微笑を浮かべる朱久里。


 一方、小日向派はというと。


「マジかマジかっ!! 折節の奴、斑鳩パイセンに勝っちまったぞっ!?」


 千秋は喜びと驚きを露わにしながら、隣にいた冬華に抱きつき、


「そうね~、しーくんすごいね~」


 と言いながら、ちゃっかり千秋の高さに合うよう腰を落としていた冬華が、珍しくも大胆な友達のスキンシップに満面の笑みをたたえていた。


 そんな二人を尻目に、夏凛は一人、深々と安堵の吐息をつく。

 史季の勝利を信じていたとはいっても、相手は斑鳩獅音だったせいで、ケンカの後半はとにかくもう心配が尽きなかった。

 正直、自分がケンカしている時よりも余程疲れると、夏凛は思う。


「夏凛先輩! 今度こそ、史季先輩をにいってもいいですよね!」


 もう我慢できないとばかりに訊いてくる春乃に、夏凛が「いいぜ。あたしも付き合う」と返そうとした、その時だった。



 パァンッ!!



 の威力を鑑みれば冗談のように軽く、乾いた破裂音が響き渡ったのは。

 その音に馴染みはないが、不思議と心当たりがあった学園の不良たちが、揃って音が聞こえた方――広場の入口に視線を向ける。


 そこには、剥き出しになった日本刀ポントウ短刀ドスを携えた、こちらと似たり寄ったりの人数を揃えた《アウルム》の構成員たちと。


 彼らを率いる、の銃口を天に向けている《アウルム》のリーダー、入山いりやまあつしの姿があった。


 不良たちはおろか、四大派閥のトップである荒井や鬼頭姉弟さえもが息を呑む中、入山は怒気のこもった声音で言う。


「人ん根城で随分楽しそうにしてんじゃねぇか、ガキどもがぁ…………あぁッ!?」


「あぁッ!?」に合わせて、再び引き金を絞る。

 再び響いた破裂音に、いよいよみなが理解する。

 入山がその手に持っているブツが、本物マジモン拳銃チャカであることを。


 その入山が、構成員たちとともにこちらに向かって歩き出し……史季たちを遠巻きにする形で形成されていた不良たちの円が、いびつに崩れている。


 結果、否応なしに目につくところにいた史季と斑鳩を見て、入山は悪魔のように頬を吊り上げながら二人に銃口を向けた。


「だがまぁ、お前らがバカやってくれたのは、こっちとしちゃぁ好都合だったかもなぁ。なんせ元凶の二人が、こうして雁首がんくび揃えてくれてんだからよぉ」


 史季と斑鳩の処刑を示唆する言動に、不良たちにさらなる緊張が走る。

 とはいえ、いくら学園の不良たちといえども、銃を相手にケンカを売ろうなんて人間はそうはいない。

 いたとしても、当事者かその関係者くらいだ。


「離して翔兄っ!! このままじゃ獅音兄がっ!!」

「離すかよ……! お前さんに何かあったら、それこそレオンに申し訳が立たねェからな……!」


 すぐにでも斑鳩のもとへ飛び出そうとするアリスを、服部が羽交い締めにしたまま押し止める。

 服部とて、さすがに命が危ぶまれる状況で親友ダチの心配をしないわけがなく、つねならば軽薄でさえあったその表情からは、隠しようもない苦渋が滲んでいた。


「……ちーちゃん、煙玉は?」


 かつてないほどに真剣な表情で訊ねる冬華の問いに、千秋は冷汗が滲んだ額を左右に振ってから答える。


「ダメだ。このタイミングで使ったら、あの野郎が適当に銃をぶっ放しかねねぇ。バレねぇように移動して、ウチが横からあの野郎の銃を撃ち落とすから、ちょっと付き合ってくれ」

「わかったわ。りんりんもそれでい――……」


 不意に、冬華の声が途切れる。

 にいるはずの夏凛の姿が、いつの間にか影も形もなくな――



 パァンッ!!



 三度目の銃声が、広場に轟く。

 今度は天に向かって撃ったのではなく、史季と斑鳩の手前の地面に向かって撃った音だった。

 自然、史季と斑鳩の背中に氷塊が伝っていく。


「そうだぁ……そのツラだぁ……俺が見たかったのはぁ……おらおら! もっとビビれやクソガキどもッ!!」


 さらに二発三発と発砲する。

 その度に穿たれた地面の銃痕が、一歩一歩踏みしめるように史季たちに近づいていく。

 

 史季は顔の血の気が引いていくのを自覚しながらも、立ち上がれない斑鳩を庇うようにして彼の前に立ち、小声で訊ねる。


「斑鳩先輩……動けますか?」

「オマエがバカやってやがるおかげで、動ける気がしてきたわ。だからどけ、折節。自分テメエの身ぃくらいは自分テメエでなんとかする」

「でも――」


「何をコソコソ喋ってやがる!」


 一際近い地面ところを撃たれ、史季と斑鳩は言葉を呑み込む。


「言っとくが、弾切れを期待してんのなら無駄だぞぉ。弾倉マガジンをたんまりと持って来てやったからなぁ。だが、そうだなぁ……お前らみてぇなクソガキ相手に、あんまり無駄弾使うのも馬鹿らしいから――」


 入山の銃口が、史季に向けられる。


「――まずはお前から、射撃の的にしてやるよぉ」


 無駄な抵抗だとわかっていながらも、史季は両腕で、自身の頭と胸を防御しようとする。

 そんな史季の行動を嘲笑いながら、入山は引き金を絞る。


 次の瞬間、史季の耳朶じだを打ったのは甲高い銃声――

 それ以上に甲高い、音だった。


 腕で頭を守ろうとしたため、視界が制限されていた史季は、おそるおそるその腕を下げる。

 ほどなくして目に飛び込んできたのは、


 いつの間にか史季と入山の間に立っている、、小日向夏凛の後ろ姿だった。



 ◇ ◇ ◇



「……は?」


 入山の口から、間の抜けた声が漏れる。


(あの女……今、銃弾を弾かなかったか?)


 ……あり得ない。あり得ていいわけがない。


 人間が銃撃を見てから弾くなど、それこそ幻想ファンタジーというものだ。

〝世紀末の女帝〟の強さが、高校生ガキとは思えないほどに図抜けていることは認めるが、いくらなんでもは認めていいわけがない。認められるわけがない。


 そんな入山の胸中とは裏腹に、現実が、〝女帝〟が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。

 静かな怒りをたたえた双眸で、こちらを睨みつけてくる。


「……ざけんな」


 それは理不尽を前にした虚勢か、それとも理不尽に抗う怒りか。


「ざけんなよクソガキがぁああぁああぁッッ!!!!」


 確実に当てるために、〝女帝〟の鳩尾あたりを狙って引き金を引く。

 反動リコイルによって上振れした弾丸が、〝女帝〟の眉間目がけて真っ直ぐに空を切り裂くも。


〝女帝〟は、右手の鉄扇を振るい、その扇面せんめんで銃弾を弾き飛ばした。


「ありえ……ねぇ……」


 引き金にかけた指が、拳銃を握る手が、カタカタと音を立てて震え出す。

 その間にも、女子高生の形をした化け物が、ゆっくりと近づいてくる。


(撃て……撃てよッ!!)


 そう自分の体に命じるも、カタカタと震えるだけで動いてくれない。

 ほんの少し人差し指に力を入れるだけで済む話なのに、それができない。


 こうなったら――と、かろうじて動いた顔を後ろに向け、刃物ヤッパで武装した構成員たちに向かって叫ぶ。


「な、何してやがるお前らッ!! 早くこのクソガキをぶっ殺……せ……」


 怒声じみた懇願が、尻すぼみになっていく。

 どうやら構成員たちは「〝女帝〟が弾丸を弾いた」という事実を正しく認識しているらしく、誰も彼もが信じられないという顔をしながら、金縛りにあったかのように固まっていた。


「おい」


 押し殺してなお怒気が滲んだ〝女帝〟の声が、耳朶じだに触れる。

 おそるおそる視線を前に戻すと、手を伸ばせば届くほどの至近に、〝女帝〟――小日向夏凛の姿があった。


「ぁ……あ……」


 意味を成さない言葉が、勝手に口から漏れ出ていく。

 そんな入山とは対照的に、夏凛は銃口を前にしてなお怯むことなく彼に告げる。


拳銃そんなもんまで持ち出したんだ……当然、覚悟はできるよな?」

「ぁ……いや……」


 この期に及んでなお漏れた否定の言葉。

 それこそが引き金の役割を果たしたのか、夏凛は新たに取り出した鉄扇を左手で握り締めると、


「ぐぎゃッ!?」


 さながら弾丸の如き速度で、鼻と上唇の間にある急所――人中じんちゅうを鉄扇で突き穿ち、前歯をへし折りながらも一撃で入山を昏倒させた。


 背中から地面に倒れるリーダーを見てますます臆したのか、刃物で武装した構成員たちが揃いも揃って後ずさる。

 そんな彼らを睨みつけながら、夏凛はあくまでも静かに、されどよく通るで問いかけた。


「てめーらも……刃物そんなもん持ち出してきたってことは、当然覚悟はできるんだよな?」


 その問いが契機だった。


「ひ……ひぃいぃいぃいぃぃッ!!」


 一人が、情けない悲鳴を上げて逃げ出すと、


「ま、待ちやがれッ!!」

「お、俺は下りるぞッ!!」

「こんなの聞いてねえぞオイッ!?」


 まるで逆流する雪崩のように、構成員たちは入山を置いて逃げ出していった。


 拳銃を持った入山を、刃物で武装した半グレたちを、たった一人で退しりぞけた〝女帝〟に、不良たちのみならず、アリスも、服部も、鬼頭姉弟も、荒井でさえも唖然とする。


「やっぱ、小日向ちゃんには敵いそうにねえな」


 特等席とも呼べる位置でその所業を目の当たりにした斑鳩が、苦笑混じりに言う。


「……ですね」


 あまりにも遠い、守りたい女性ひとの背中を眩しそうに見つめながら、史季は同意する。


 兎にも角にも、これにて本当の本当に一件落着――かに思われたが、遠くから聞こえてきたサイレンの音がそれを許さなかった。


 聞こえてくるサイレンの種類がパトカーのものであることを瞬時に把握した不良たちが、にわかに狼狽え始める。


「お、おいこれ、パーカーの音じゃね!?」

「なんでもうポリ公が嗅ぎつけてんだよ!?」

「やべぇッ! さっさとズラかんぞッ!!」


 入山が刃物で武装した構成員を引き連れていたところを誰かが通報したのか、《アウルム》をマークしていた警察が、銃声を聞いてここぞとばかりにヤードに踏み込もうとしているのか。

 理由はともあれ、警察が来るとわかった途端、不良たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ出そうとする中、こういう状況においては誰よりも頼りになる朱久里が声を張り上げた。


「体力が有り余ってる奴は、さっさと走ってヤードの入口から逃げなっ!! サイレンの遠さからして、こっちに着くまでにはまだ時間があるからねぇっ!! 走って逃げれる気がしない奴はヤードの奥へ向かいなっ!! 連中が造った抜け道の入口に、目印として鬼頭派うちもんを待機させてるから、そこから脱出しなっ!!」


 ちゃっかりと派閥メンバーに抜け道を発見させた上でちゃっかりと確保している、相も変わらず抜け目のない朱久里に、史季が呆れ混じりに感心していると、


「ほ~ら~! ちゃっちゃと立つっすよ獅音兄っ!」

「だァーッ! お前さんは肩貸せるほどの背丈がねェんだから手伝わなくていいッ!」


 アリスと服部が、斑鳩を立ち上がらせるのに四苦八苦していた。


「わりぃな。脚やられたから、ちょっと歩けそうにねえわ」


 そんな台詞を吐かれたら、史季としては謝罪の一つや二つしてしまいたくなるところだけれど。

 当の斑鳩が笑いながら言っているものだから、言うだけ野暮だと思った史季は、喉元まで出かけた謝罪の言葉を嚥下した。

 斑鳩とケンカする前だったら、そんな考え方はしなかっただろうと思いながら。


「つうか、実際これめんどくせェぞ!? おいアリス! ちょっと派閥の連中呼ん――」



「その必要はない」



 服部の言葉を遮ったのは、いつの間にやら傍まで来ていた荒井だった。

 荒井は一瞬だけ史季を睨みつけるも、まだ心の内にケンカの熱が残っていたせいか、史季自身が内心で驚くほどに、少しもビビることなく見つめ返すことができた。


 夏凛と知り合ってまだ間もない頃、廊下で出会った荒井にビビり倒していた雑魚と同じ人間とは思えない反応に、荒井はつまらなさげに「ふん」と鼻を鳴らすと、まるで米俵のように軽々と斑鳩を脇に抱える。

 そんな意外すぎる行動に、史季はおろか、アリスと服部も目を丸くする中、抱えられた当人はイタズラ小僧じみた笑みを浮かべながら要求する。


「どうせ運んでくれるなら、お姫様だっこにしてくれよ」


 あからさまな冗談に対し、荒井にしては非常に珍しくも冗談で返す。


「本当にやってやろうか?」

「すみません普通に絵面がキモいんで勘弁してください」


 白旗をあげる斑鳩を鼻で笑ってから、荒井はきびすを返して歩き出す。

 そんな彼の背中を、アリスが困惑しながら、服部が「こんなこともあるわな」と言いたげな顔をしながら追いかけていく。


 その様子を半ば呆然と見送っていると、


「肩の一つや二つ貸してあげようかと思ったけど、どうやらもう、一人で歩ける程度には回復してるみたいだね。折節クン」


 背後から蒼絃が話しかけてきたので、振り返って応じる。


「うん。さすがに走れる気はしないけどね」

「そこまで回復してたら、それこそ異常というものさ。……今回でまた差をつけられてしまったけど、僕もすぐに追いつくから、首を長くして待っててくれ」


 それだけ言い残すと、蒼絃は、不良たちの誘導を続けている朱久里のもとに戻っていった。


「し、史季先輩!」


 横合いから春乃の声が聞こえてきて、そちらに視線を向けると、春乃のみならず、美久、千秋、冬華もこちらに駆け寄ってくる姿が目に映り、自然、史季は頬を緩める。


「い、今怪我を診ますからちょっとそこでじっと――」

「春乃ちゃん! さすがに今は後回しにした方がいいよ!」


 また鞄の中身をポロポロ落とすことを警戒したのか、美久が慌てて春乃を押し止める。

 そんな中、千秋は史季の胸を軽く小突き、


「マジで斑鳩パイセンに勝っちまうなんてな――って、なんか荒井ん時も、んなこと言ってた気がするな。まぁ、とにかくおめでとさん、だな」


 こそばゆさを覚えながらも「ありがとう」と返す史季に、今度は冬華が話しかけてくる。


「ワタシたちは走ってヤードの入口から逃げるけど~、しーくんはさすがにそういうわけにはいかないから、りんりんと一緒に抜け道の方から逃げてちょ~だいね~」

「え? 夏凛も?」


 と訊ねる史季には構わず、冬華は打って変わって真剣な声音で言葉をつぐ。



 それはいったいどういう意味なのか。

 史季は問い質そうとするも、これ以上は何も言うことはないとばかりに、冬華は千秋とともにきびすを返し、春乃と美久を連れて、ヤードの入口の方へと駆け出していった。


 兎にも角にも「頼んだわよ」と言われた以上――というか状況的に夏凛を置いて行くなんて選択肢は史季にはなかったので、すぐさま彼女のもとへ向かうことにする。

 近づくにつれて、かすかな違和感が史季の心の内に生じ始める。


 こちらに背中を向けている夏凛が、立ち尽くしたまま、その場から微動だにともしていないのだ。

 弾丸を防いだ、右手の鉄扇は開いたままになっており、入山を打ち倒した左の鉄扇も含めて、仕舞わずに手にげたままになっていた。


 そのことを不思議に思いながらも史季はさらに歩み寄り……手を伸ばせば届くという距離まで来たところで気づいてしまう。

 鉄扇を提げた夏凛の両手が、小刻みに震えていることに。


 まさか――と、史季は思う。


 銃口の前に立つ。

 距離が離れていたとはいえ、史季自身もつい先程体験したことだから、それがどれほど恐ろしいものであるのかは、それこそ身に染みてわかっている。


 もし、同じように夏凛も恐怖を覚えていたとしたら?


 もし、弾丸を弾くという絶技が、だったとしたら?


 血の気が引いていくのを感じながら、史季は震える手で、震える夏凛の手を掴む。

 ハッとしたようにこちらを見返してきた夏凛の顔は、史季とは比較にならないほどに血の気が引いていた。


 こんな時、斑鳩ならば気の利いた言葉の一つや二つかけて上げられるのかもしれないけれど。

 そんな言葉も余裕も持ち合わせていなかった史季は、ただ一言絞り出すだけで精一杯だった。


「……行こう。夏凛」

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