第12話 成果
ケンカレッスンを始めてから、二週間が経とうとしていた頃。
「おぉ……」「あら~……」
史季の回し蹴りによって盛大に跳ね上がったサンドバッグを見て、千秋と冬華が感嘆の声を上げ、春乃が「すごいです!」と拍手を送った。
ただでさえ強力だった史季のキック力が、ケンカレッスンを受けたことでさらに強力に仕上がっていた。
「蹴り方覚えりゃ、こんなもんだろ」
一人驚いていない夏凛の物言いは素っ気ないが、その表情は「あたしの教え方がよかったからだな」と言わんばかりのドヤ顔だった。
実際夏凛のおかげだが、謝意を口に出す勇気がなかった史季は笑って誤魔化すばかりだった。
「まー、逆の足でも同じくらい蹴れるようになるのは追々やってくとして……問題は実戦で同じように蹴れるかどうかだな」
「それって……前に言ってた、パンチ力が同じでも人を殴り慣れてる人とそうでない人とでは差が出るっていう話の?」
二週間前、史季が川藤を前蹴りで沈めた際に、夏凛が言っていた言葉を思い出しながら訊ねる。
「そう! それそれ! 史季の場合、実際にケンカになったら相手のこと本気で蹴れねーんじゃねーかなーって思ってさ」
「あら? 確か、しーくんって川藤って子を前蹴り一発で沈めたのよね? だったら、そう心配するほどのことでもないと思うけど」
「あん時の史季はヤケクソになってた上に、相手が自分をいじめてた奴だったから全力で蹴れたんだ。正直、実戦になってみねーと本気で蹴れっかどうかはわかんねーよ」
まさしく夏凛の言うとおりだと、史季は思う。
蹴り方を覚えたことで、確かにキック力は増強した。
けれど、それによって必然的に力の加減についても覚えてしまい、ひいては手加減の仕方まで覚えてしまった。
自分の性格を鑑みると、実際にケンカになった際は、相手のことを気遣ってつい手加減してしまっている自分を容易に想像することができる。
〝女帝〟の目を恐れてか、今はまだ不気味なまでにおとなしくしている川藤が報復に動き出した時、手加減なんてしたらどうなるかは……想像もしたくなかった。
そこまでわかっていてなお、本気で川藤を蹴れるかどうかわからない自分のことが、心底度し難かった。
「あ、そろそろ一八時だな」
夏凛がスマホで時刻を確認しながら言う。
不良校においては有って無いような完全下校時間を迎えたところで、ケンカレッスンを切り上げ、部屋の隅にあるロッカーから人数分の箒を取り出して掃除を開始する。
掃除を条件に予備品室を使わせてもらっている史季に配慮すると同時に、千秋のケンカレッスンの際に使ったBB弾を回収するための掃除だった。
それが終わったところで、史季たちは予備品室を後にする。
体育館で真面目に部活動に勤しむ人間は皆無だが、
その足で下足場へ向かい、五人は揃って校舎の外に出た。
「そんじゃ、また明日なー」
「はい、お疲れぇ」
「ば~いば~い」
「さようなら~先輩~」
学園の裏門をくぐる夏凛たちと別れて、史季は帰途につく。
一人だけ帰る方角が違うという理由もあるが――さらに言えば繁華街とも方角が違う――女の子四人に混じって町中を歩く勇気などあるはずもないので、帰りが別々になっていることについては少しばかりホッとしている史季だった。
だからといって、そのことに全く寂しさを覚えないと言えば嘘になるが、川藤にいじめられていた時のことを思えば贅沢がすぎるというもの。
(……よくよく考えたら、今の僕って本当に贅沢がすぎてないッ!?)
今さらすぎることに驚く自分に呆れると同時に、今の今までそんなことにも気づかないくらいに余裕がなかったことを自覚する。
然う。
今の自分の状況は、男から見れば贅沢がすぎるものだった。
四人中三人が不良とはいえ、全員が全員美少女だと言っても過言ではない集団の中に、唯一の男子として混じっている。
これを贅沢を言わずとして何を贅沢というのか――と言いたいところだが。
哀しいかな。
これまでの史季の人生の中に女子が絡んできたことは極端に少なく、高校に上がってからいじめられていたせいもあって、その手の幸せに対する免疫ができていなかった。
ゆえに、今自分が置かれている状況を素直に喜ぶことができなかった。
女子の中に男子が一人という状況への気恥ずかしさや、学園内においてかなりの人気を誇っている小日向派に混ざり込んだことで、周囲――主に男子生徒から不興を買っているのではないかという危惧の方が、喜びよりもはるかに大きかった。
さらに哀しいことに、その危惧は正しかった。
日が沈みつつある学園内を歩くよりも、町中を歩いた方が不良に絡まれる危険が少ないことを知っていた史季は、裏門で夏凛たちと別れた後、学園を囲うフェンスに沿って歩き、正門の方角にある自宅を目指した。
その途上、道行く先から聖ルキマンツ学園の不良の群れがこちらに向かって歩いてくるのが見えたので、目線を合わせないよう気をつけながら道の端に寄ろうとするも、
「見つけたで、折節史季」
相手が自分のことを知っていた上で呼び止めてくるとは夢にも思わなかったせいもあって、思わずビクリと震え上がりながらも足を止めた。
その隙に、不良どもはいやに統率のとれた動きで史季を取り囲む。
数は五人。
先程史季の名前を呼んだ、バリバリのリーゼントに薄いサングラスという、時代錯誤のヤンキースタイルの男がリーダー格のようだ。
などと、瞬時に分析できているのは、夏凛たちのケンカレッスンのおかげで自信がついたなどという理由では断じてなかった。
弱者ゆえに、不良どもの機嫌を損ねないよう相手のことを事細かに分析する必要があり、その癖が出たというだけの話だった。
分析が正しかったことを証明するように、リーゼントの男が関西弁で絶望的な言葉を吐いてくる。
「いきなりで悪いが、ワイはテメェのことが好かん」
「ぼ、僕の何が、気に入らないのでしょうか……?」
恐る恐る訊ねると、男はサングラスの下の双眸をカッと見開き、懐から一枚のカードを取り出して、こちらに見せつけてくる。
カードには『三年七組
史季は思わず「へ?」と、間の抜けた声を漏らしてしまう。
わざわざ学年とクラスを書いているということは、会員証と思しきカードは年度が替わる度に更新し直しているのかとか、会員ナンバーの「0」の数の多さとか、ツッコみが脳内で大渋滞を起こしていた。
「ええか、折節ぃ……小日向派っちゅうのは、夏凛姐さんが統べる
力説する白石に呼応するように、
「会長の言うとおりじゃボケェ!」
「お前何様のつもりで夏凛姐さんと一緒にいやがる!」
「ブチ殺すぞゴラァ!」
「俺と代われやクソッタレェ!」
一人だけ、ただ欲望を垂れ流しにしていることはさておき。
ファンクラブ会員と思しき取り巻きどもが、好き勝手に凄んでくる。
さすが世紀末学園と言うべきか、ファンクラブ一つとってもガラが悪いことこの上なかった。
白石に関しては、年上であるにもかかわらず「姐さん」呼びしていることも含めて。
(恐いと言えば恐いけど……)
絡まれている理由が理由だけに、史季の中にあった恐怖心やら緊張感やらがゆるゆると緩んでいく。
会長の発言を無視して、ただ己の欲望を口走っている会員が混ざっているから、なおさらに。
白石がスッと手を上げると、四人の会員はピタリと野次を止める。
史季を取り囲んだ時の動きといい、どうやら性欲以外の統率はとれているようだ。
「折節ぃ。今からテメェに極めて重要な質問をする。先に言っとくが嘘は言いなや。最悪、命に関わるさかいな」
ただの脅しだろうと思うが、それでも史季はゴクリと息を呑んでしまう。
「心して答えぇや……」
そう前置きしてから、白石は至極真剣な顔でこんなことを訊ねてきた。
「テメェ……夏凛姐さんにヤられたんか?」
「……はい?」
またしても、思わず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「テメェのようなナヨナヨした野郎が、夏凛姐さんをヤれるわけないやろ。せやから訊いとんねん。夏凛姐さんにヤられたんかってなぁ?」
史季も男である以上、白石の言葉の意味はちゃんと理解している。
理解しているからこそ、どう答えても殺される未来しか見えなかった。
こういう手合いは、「NO」と答えたところで絶対に信じないことがわかっているから。
そんな風に戦々恐々としながらも、
『ちなみにね~、りんりんはね~、遊び慣れてそうとか~、経験豊富そうとか~、とにかく悪ぶってる感じに見られたいお年頃なの~』
という冬華の言葉どおりに、周りからそういう風に見られていたことを知ったら、夏凛がどういう反応をするのか少し気になっているあたり、今の自分は意外と余裕があるのかもしれないとも思う。
「……ほう。
白石は、これ見よがしに会員どもに視線を巡らせる。
「真っ黒じゃねえかボケェ!」
「つうことは、冬華姐さんにもヤられてるってことになるじゃねえか!」
「死刑確定じゃゴラァ!」
「俺と代われやクソッタレェ!」
またしても一人だけ欲望を垂れ流しにしているだけなのはさておき。
中世の魔女裁判でも、もう少し被疑者の話を聞くよねと言いたくなるほどに容赦なく、史季の死刑が確定する。
「判決は決まったなぁ。とはいえや、いくら死刑執行っちゅう大義名分があっても、一人を相手に大勢でなんてダッサい真似したら、夏凛姐さんに嫌われてまう」
そもそも好かれてもいないと思うんですけど!?――などと割と失礼な独白は、勿論口には出さなかった。
「ちゅうわけで折節ぃ、ワイとタイマンせぇや。ワイに勝てたら、執行猶予つけたるわ」
史季の見た目がまかり間違っても不良には見えないせいか、白石の表情は自身の負けを考慮していないどころか、史季をボコボコにすることしか考えていない風情だった。
「ちょちょちょっと待ってください! こういうやり方も、小日向さんは嫌うと思――」
「馴れ馴れしく姐さんの名前呼ぶなダボがぁッ!」
「名字呼びでもアウトなの!?」
悲鳴を上げる史季に構わず、白石はこちらの顔面目がけて容赦なくパンチを繰り出してくる。
その瞬間、史季は今までにない感覚を覚えたことに困惑した。
遅く見えるのだ。
連日夏凛とスパーリングごっこを繰り返したことで、彼女の図抜けたスピードに多少ながらも慣れたおかげか、白石の動きが遅く見えるのだ。
(これくらいなら……!)
たとえ〝ごっこ〟でも、夏凛がスパーリングを続けた意味を得心しながらも、迫り来る拳に合わせて体を横に傾ける。
かわされるとは思ってなかったのか、白石は盛大にパンチが空振ったことで泳いだ体をどうにか踏み止まらせた。
「い、今のをかわすとぁな。なかなかやるやんけ」
それっぽい台詞で会長としての威厳を保ちつつも、白石が再び殴りかかってくる。が、自分で驚くほどにケンカレッスンの成果が如実に出ている史季には、何度パンチを繰り出してもかすりすらしなかった。
(このままかわし続けるのは、そう難しくなさそうだけど……)
それだけでは、この状況を打破することはできないと史季は思う。
白石の体力が尽きるまでかわし続けたところで、相手は「ナメられた」と判断し、余計に激昂するのが目に見えている。
しかし、タイマンという作法に則って正々堂々白石を倒せば、逆に一目置かれて約束どおりに執行猶予がつくかもしれない。
少々希望的観測が過ぎるが、それでも、このまま白石の体力が尽きるまでかわし続けることよりは、状況を打破できる可能性ははるかに高い。
やることは決まった。
けれど、覚悟がなかなか決まらなかった。
傲慢な考え方かもしれないが、夏凛のおかげで異常なキック力を有していることを自覚したことで、本気で蹴ったら相手に取り返しのつかない怪我を負わせてしまうのではないかという心配が、どうしても湧き出てしまう。
同時に、手加減したことによって相手を余計に怒らせてしまい、余計に事態が悪化するかもしれないという不安も湧き出てしまう。
「テメェ……! 逃げてばっかで……! ええ加減にせぇや……!」
段々息を上がらながらも、白石は拳を振り回してくる。
もうこれ以上迷ってはいられないと思った史季は、
(手加減は少しだけ! それでもってローキックならたぶん大怪我にはならないはず!)
そう自分に言い聞かせてから、白石のパンチをかわした直後に、彼の左太股目がけてローキックを叩き込んだ。
瞬間、バチィッと聞くだけで痛そうな音が
「ほぎゃぁあぁああぁああぁああぁッ!!」
立っていられなくなった白石は、左太股を両手で押さえながら地面を転がって悶絶した。
そのあまりの悶えっぷりに、会員たちは「会長!」「会長!」と泡を食ったように叫びながら彼のもとに駆け寄る。
「ぉおおぅ……おぉおぉう……」
よくわからない呻き声を上げながらもいまだ悶え苦しむ白石を見かねてか、会員どもが一斉に
「会長にナニさらすんじゃボケェ!」
「お前何様のつもりで会長蹴りやがった!」
「ブチ殺すぞゴラァ!」
「俺が代わりに相手なってやろうかクソッタレェ!」
さすがに一対四は無理だと思った史季が、心の中で(ひぃいぃ……!)と悲鳴を上げていると、
「ま、待てやオマエら……何勝手にワイが負けたみたいな空気出しとんねん」
かろうじて立ち上がった白石に、会員たちは「会長!」「会長!」と感極まった声音で叫ぶ。
「今の一撃でわかった。このまま続けても、ワイの勝ちは目に見えとる。とはいえ、コイツもまあまあ根性を見せた。せやから……」
白石は、生まれたての子鹿のようにプルプルと足を震えさせながらも、どこまでも上から目線でこう言った。
「今日のところは、この辺で勘弁しといたるわ」
その言葉を最後に、白石は会員どもに肩を貸してもらいながらも、ヒョコヒョコと史季の前から立ち去っていった。
「……なにこれ?」
自分がいったい何を見させられたのか理解できず、ついそんな言葉が口をついてしまう。
「正直あたしが聞きてーよ」
突然背後から夏凛の声が聞こえてきて、史季は瞠目しながらも振り返った。
「小日向さん!? どうしてここに!?」
「予備品室にスマホ忘れちまってさ。取りに戻る途中に、史季が連中に絡まれてるのが見えたから助けに入ろうと思ったけど……自力で追い払えたじゃねーか」
我が事のように嬉しそうに笑いながら、夏凛は言う。
そのことに照れくささを覚えながらも、彼女の笑みに釣られて史季も笑い返した。
「小日向さんが、ケンカのやり方を教えてくれたおかげだよ」
「教えたっつっても、まだ序の口もいいところだけどな。それはそうと……」
笑みの形を困ったものに変えながら、トンと史季の胸を叩く。
「やっぱ、本気では蹴れなかったみてーだな」
「そ、それは……」
口ごもる史季に、夏凛の笑みが、今度は優しいものに変わる。
「ばーか。別にそれがわりーだなんて一言も言ってねーだろ。どっちかっつーと、あたしらや、うちのガッコの
ケラケラと笑いながら、夏凛。
そんな彼女の態度がなんとなく納得できなかった史季は、「小日向さんたちは、他の不良たちとは違う」と言おうとしたけれど、例によって気恥ずかしさが勝ってしまい口を噤んでしまう。
幸い今回は顔に出ていなかったのか、夏凛は史季の心中に気づかないまま話を続けた。
「ただ、世の中には手加減なんてしちゃいけねー野郎がいるってことも、ちゃんと肝に銘じとけよ。特に川藤がマジで報復にきた場合、手加減なんてしたらたぶん余計にブチギレるだろうしな」
まさしくその通りだと思った史季は、今の夏凛の言葉を言われたとおりに肝に銘じる。
「ところでさっきの人たち、自分たちのことを小日向さんのファンクラブだって言ってたけど……」
「あーあーあー! 聞こえない聞こえない!」
耳を塞ぎながら、夏凛は大声を上げる。
この時点で、ファンクラブの存在が非公認であることを確信した史季は、これ以上白石たちについて突っ込んだ話をするのはやめておこうと心に決めた。
そうこうしている内に街灯が
「……って、あんまり僕のことで時間をとったら駄目だよね。月池さんたちも待ってるだろうし」
「あー、千秋たちのことなら気にする必要ねーぞ。先に春乃のことを送ってもらって、その後はノリで合流するかどうか決めるって感じになってっから」
などと言いながらも、なぜか夏凛はこちらの腕をガッチリと掴んでくる。
「まーでも、一人でスマホ取りに行くのも何だし、史季も付き合えよ」
いったい何が「何だし」なのかはさっぱり理解できなかったが、どういうわけかこちらの腕を掴んでいる夏凛の手が、絶対に逃がさないと言わんばかりに力がこもっていたので、拒否権がないことだけは理解できた。
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