百万人を移住させた微生物
染谷市太郎
百万人を移住させた微生物 一章
〇第一章 飢饉 前兆 ~一八五六年
・誕生
本書の主人公、ジャガイモ疫病菌(Phytophthora infestans)は南米で産声を上げたと言われています。
一八五〇年代は、顕微鏡の発明により人類が小宇宙をのぞき込み、約八〇年が経とうとした時代です。世界中がミクロの世界に対して未だ途上期だった頃、ジャガイモ疫病菌は凶悪な刺客として人類のもとへやってきました。
南米はジャガイモ疫病菌だけでなく、ナス科の植物たちの故郷でもあります。ジャガイモ疫病菌はナス科を宿主、つまり主食にします。ジャガイモ疫病菌は、誕生当時、南米のジャングルで餌であるナス科を探してサバイバル生活をしていたに違いありません。そのころはまだ、南米のジャングルは多くの植物、微生物たちがおり、生物の多様性が保たれていました。ジャガイモ疫病菌はその中の、数ある病原菌の一つに過ぎなかったでしょう。
しかし、ジャガイモ疫病菌に転機が訪れました。それは人類の農耕文化との出会いです。農耕は単一の植物を密集して栽培します。つまりその栽培植物を得意とする病原菌にとっては正にオアシス。人々が糧を育てる農耕地とは、病原菌にとっては食べ放題もいいところの培地なのです。
栽培作物の中でも、特にジャガイモは、十九世紀、世界中へと普及している時期でした。疫病菌誕生以前から食糧として重宝されており、南米をはじめ多くの地域で主要な栽培作物となっていたのです。その範囲は南米だけでなく、北アメリカ、ヨーロッパ全土にまで広がっていました。加えて、人々はジャガイモは単為生殖で増やし、まったく同じクローンばかりを利用していました。つまり、同じ病気に弱い者たちを密集させて育てていたのです。その恐ろしさは想像に難くないでしょう。
ジャガイモ疫病菌が訪れるヨーロッパは、人類との意思に反し、とびきりの生活環境となっていました。
・飢餓以前
南米で疫病菌が誕生した一方、アイルランドは強力なホストを有した農業国となっていました。
産業革命が推力となり、第二次産業を成長させた時代です。アイルランドでは多くの人々が畑を耕し、農業で生計を立てていました。その太客がイギリスでした。経済の成長に伴う農業生産物の枯渇に対し、アイルランドはイギリス、ひいてはヨーロッパの食糧庫となり、多くの農産物を輸出していました。
その輸出額は素晴らしいものだったでしょう。しかしその恩恵にあずかれる者はわずか、イギリス本土で優雅に暮らす地主のみでした。実際に鍬を持ち、土を掘り返しているのは、顔も知らぬ地主から、わずかばかりの土地を借りた小作人たちだったのです。
さて、小作人たちですが、この集団は二つに分けることができます。
地主を頂点としたピラミッドの中で、一方は地主から比較的大きな土地を借り、それらを又貸しすることで生計を成す中間層の人々。もう一方は又貸しされ跳ね上がった地代で土地を借りる底辺の人々です。
後者の小作人たちは、高い地代を払うためにわずかな、さらに痩せた土地で作物を育てていました。育てているものは、地主たちに収めるための作物と、自分達が食べるための作物です。麦などもありましたが、中心となる作物はジャガイモでした。主に使われた品種は白い花を咲かせ収量の多いランパー(lumpur )。アイルランドの土地をこの品種が占めていました。先述のとおり、ジャガイモは栄養生殖により増やすことが可能です。ランパーも収量の多いその優秀さから、コピーが大量に広がることとなりました。
栄養生殖とはすばらしいものです。親の優秀な特性を損なうことなく、短期間で増やすことができます。種子を取り、育てるということから比べれば、そのスピードは一目瞭然。ネズミ算も真っ青になるほど同一の作物を得ることができます。
しかし、このコピーの出回りが後に最大の欠点となります。同じ品種、同じ遺伝情報を持っているということは、同一の病気に対してまったく抵抗力を持たない、と言うことです。画一的な状況がどんなに危ういことか、それはアイルランドジャガイモ飢饉という事実が証明しています。
しかしこの問題は当然ジャガイモの原産地、南米でも発生するはずです。ジャガイモの栽培を始めたアンデスの民は、いったいどのように解決していたのでしょうか。
それは単純です。南米の人々は、狭い土地であっても標高差を利用し、多種類のジャガイモを育てていることで、同一の病原菌に全滅させられる、ということを避けていました。高地に居住する彼らにとって、そのような工夫は必須だったでしょう。仮にジャガイモが全滅してしまったら彼らは本当に食べるものがなくなってしまうのですから。
しかし、そのような、複数の品種を栽培するというやり方を、ヨーロッパの人々は採用しませんでした。複数の品種を育てるということは、収量のばらつきが発生するということです。当時は資本主義が加速していた時代。最短で高い利益を求めることを推薦されていた時代に、たとえリスクを回避できたとしても、その手法は歓迎されませんでした。
さて、労働力を必須とする農耕文化はリスクもはらみますがその分多くの利益をもたらしてくれる、ということは私たちの文化発展が表してくれる通りです。その農耕により、食料として得られたジャガイモは大量です。当然その日だけでは食べきれませんし、食べきってしまえば年を越すことすらできません。なので、収穫されたジャガイモたちは家族で分け合って食べるために地中に貯蔵されます。しかし、残念ながらジャガイモは穀類などの既存の食糧に比べ、長期の保存には向きません。収穫できたジャガイモは翌年の夏までが限界でした。貯蔵していたジャガイモが、芽が生えてしまうのであればまだいいでしょう。種芋として使えるからです。しかし貯蔵中に病気にかかってしまえば、目も当てられないほどに腐り決して食用には向かないものへとなり果てます。このような、貯蔵中の廃棄は現在でも取り組まれる問題です。まだ技術が発展していなかった当時、しかも貧しいアイルランドでは長期の保存はかなわなかったでしょう。
一方、ジャガイモの故郷、アンデスではどのようにジャガイモを保存していたのでしょうか。
彼らはなんと、フリーズドライの技術を利用していたのです。収穫したジャガイモを、乾燥、寒冷な気候を利用し、凍ったジャガイモを溶かして水分を飛ばし再び凍らせるという手法でチェーニョというジャガイモの保存食を作っていたのです。ジャガイモの水分量を減らすことで、微生物が利用できる水が少なくなり、チェーニョはカビやその他病原菌が生えにくくなります。あとは風通しのいい場所に貯蔵すれば、ジャガイモは穀物同様、一年を通して食べることができる食物になったのです。余談ですが、チェーニョによく似た保存食は日本にも凍み芋というものが存在します。チェーニョは当時、南米で税として徴収され、労働の対価として支払われていました。それほど有能なジャガイモの保存法、チェーニョですが、しかし、アイルランドにその製法が伝わることはありませんでした。仮に伝わっとしても、アンデスに比べ温暖で標高も低いアイルランドではそれらの保存食を作ることは難しかったでしょう。アイルランドはジャガイモを育てるには最適な環境でしたが、保存には適さなかったのです。
この保存という問題はアイルランドの小作人たちにとって重要な問題でした。ジャガイモが取れず、さらに保存も効かない夏から秋までは、どんなに努力しても食料が尽きてしまうのです。
そうなってしまえば、小作人たちは、資本主義のルールにのっとり金銭を介して食料品を購入しなければなりません。しかし、地代を払うことだけで精一杯の小作人たちは金銭を持つことは到底難しいということが現実でした。彼らは苦肉の策で、高い値段の食物を「ツケ」で買うしかありません。要は借金をするのです。ツケの内訳は収穫です。わずかな収穫すら持っていかれる小作人たちには日々を生きることだけで精いっぱいだったでしょう。
なぜ、小作人たちはこのように苦しい思いをしなければならないのでしょうか。このような貧しさに苦しむ小作人たちの背景には、支配者のイギリスと被支配者のアイルランドという問題があります。
十九世紀、イギリスの領地であったアイルランドの土地は、イギリス人、あるいはプロテスタントに占領されていました。カトリック派のアイルランド人は職業、選挙権、そして土地の所有すら制限されていたのです。
カトリックの多くは、山間部などの街から離れた場所に村を造り、村という単位だけで閉じた小さなコミュニティで成り立っていました。中心にはカトリックの教会があり、神父が教えを説き、若者たちはそれに従います。閉じた環境は情報が入りにくくなり、さらにアイルランドの村は文字の読み書きすらできなくなっていきました。特に女性の識字率は絶望的だったと思われます。低い識字率では、職業選択の幅がさらに狭まります。少ない選択肢の中で、唯一開かれた道は出稼ぎか、農奴か。小作人を両親に持つ子供は働ける年齢以前よりそれらの肉体労働に就き、結婚し、子供ができる。勉強などできません。このようなサイクルで、小さな村でありながらも人口はどんどん増え、一八四〇年代に入る頃には、アイルランドの人口は八〇〇万を超えました。
この人口増加を支えたものが、ジャガイモだったと言って過言ではないでしょう。人口増加の爆心地、カトリックの村々の狭く痩せた土地で育つ作物は限られました。そのわずかな食物がジャガイモだったのです。
ジャガイモがアイルランドに入る一六〇〇年代以前はオートミールを主食にしていました。しかしジャガイモはそれまで主食にしていたものよりも栄養価が高く、加えて一つの株から多くの収穫が得られます。ジャガイモはうってつけの作物でした。
さらに特殊な器具が必要ないという点は特に小作人たちを魅了しました。小作人たちにとっては、農具一つでも馬鹿にならない支出になります。例えば、当時「鋤」は土地の社会的ランクの象徴として扱われるほどでした。つまり、その土地の農家がより鋤を多く持っているほど、よい土地ということです。しかし鋤は年間の借地料にも匹敵するほど高価なものでした。小作人にとってはとても手が出せるものではなく、アイルランドには数えるほどしかありませんでした。しかし、ジャガイモを作るためにはこのような鋤は必要ありません。しいて言うのであれば、「踏鋤(スペード)」という安価で使い勝手の良い農具があればいい程度です。このように、アイルランドはジャガイモを主食にする環境が整っていました。
当時のアイルランドにとって、ジャガイモは家庭の味でした。鍋一つあれば簡単に調理できます。燃料は「ターフ」と呼ばれる泥炭です。泥炭はコケがパルプ状になった燃料です。沼地から採集され、火が消えにくい、小作人たちからすれば最も身近で優良な燃料でした。石炭よりも安価で、自分たちで採ることができるという点が特に小作人たちの味方です。
泥炭は、湿度が高く冷えやすいアイルランドで、小作人たちを温めたり、簡単に火をつけることができる点から調理の簡易化をしたりすることをかなえました。しかし、泥炭は雨が降れば乾きにくくなり、品質が落ちます。低品質の泥炭は大量の煤を発生させ、煤けた子供たちは洋服を洗うのもおっくうになり裸でゆでたジャガイモをほおばります。
当時の小作人たちは、衣服に対する支出が年単位でゼロであることは普通でした。ボロとも言えない布をまとい、日々労働に従事し、帰ればジャガイモを食べる。家は換気が悪く、毎日カビと煤のにおいが充満しています。家畜と寝食を共にする家族もいました。
当時の小作人たちの生活を想像できましたか?まるで不幸な貧乏人を思わせる文章でしょう。しかし、彼らは決して貧しさに負けているわけではありませんでした。
それをイギリスの農業経済学者であるアーサー・ヤングの旅行が証明しています。彼がアイルランドの小作人たちを訪れると、貧しくともその土地を訪れた旅行者に対し彼らができる一等のもてなしをして迎えるのです。泥炭の刺激が強い煙がでるなかでも、家の中で一番快適な場所に通し、もてなします。このような精神を向ける相手は、旅行者に限った話ではありません。小作人たちの玄関はいつも開けたままでした。お腹を空かせた誰かに室内を利用させるためです。彼らは、決して裕福な生活ではなかったにも関わらず、その心には何物にも代えがたい豊かさがありました。
さて、皆さんが小学校で習うように、ジャガイモは同じ土地で育てることは推奨できません。何度も育成を繰り返せば、その土地にジャガイモを好む虫や病原菌を集めることになります。これが連作障害としてジャガイモの収穫量を下げるためです。
狭い土地で何度もジャガイモを育てた結果、アイルランドはジャガイモ飢饉以前より、何度もジャガイモに関する病気が発生していました。ジャガイモの収量が減れば、それに頼る小作人たちの腹は満たされません。常より食料を買う余裕もなく、ジャガイモ疫病菌が侵入する以前より、アイルランドの、特に土地を持つことが叶わぬ小作人たちは疲弊しきっていたのです。
貧すれば鈍するとも言います。それでも彼らにあった心の豊かさは、一八四五年、ジャガイモ疫病菌が奪ってゆくのです。
・渡欧
ジャガイモ疫病菌は、一八四三年にはアメリカを襲い、その存在を世に知らしめていました。当時の人々は、このカビもどきの真核生物をどう思ったでしょうか。そもそも未だ宗教の幻想が流布し、病原菌の存在自体が一般的ではない時代です。アメリカの被害は、ヨーロッパの多くの人々にとって遠い海の向こうの災害、対岸の火事、その程度の認識だったと推測されます。
しかし疫病菌にとって人間の事情など関係ありません。一八四五年、ジャガイモ疫病菌は海を渡り、はるばるヨーロッパへとやってきました。
どんな渡航方法だったのでしょうか。南米からヨーロッパにかけて大西洋を泳いだ、ということは考えにくいでしょう。ジャガイモ疫病菌は、遊走子の鞭毛で移動することが可能ですが、その速度から現実的なものとは言えません。さらに疫病菌は水道水の塩素で活動が低下します。いわんや海水おやといったところでしょう。
では、未だ飛行機も開発されていない時代に、疫病菌は大西洋上空を飛んだとでも言うのでしょうか。仮説としては悪いものでははありません。疫病菌とは異なる病原菌ですが、胞子が数百キロの距離を風に乗って飛んだ記録もあります。病原菌の中には、上空の気流を利用して大西洋を横断するものも存在します。あるいは鳥や、埃、昆虫という運び屋に付着する可能性もあります。
しかし、最も有力な説は、人の手によるものです。
アメリカ大陸発見以来、ヨーロッパと南米間を多くの貿易船が行き交っていました。十九世紀も同様、ヨーロッパ各国が南米に植民地を持ち、さらにアメリカやカナダを行き来する船もたくさんあります。様々な国が輸出入を繰り返していました。そして南米発、ヨーロッパ行きの便にジャガイモ疫病菌は、人間の衣服や動物、あるいはジャガイモそのものに付着し、密かに乗り込んだのでしょう。
・欧州デビュー
ヨーロッパへ侵入したジャガイモ疫病菌は、まずベルギーでデビューを果たしました。その後、フランス、オランダ、そしてイングランドとヨーロッパじゅうを旅します。その間、ジャガイモ疫病菌はその幸福な光景に歓喜したでしょう。ヨーロッパの各地でジャガイモ疫病菌を感受する(ジャガイモ疫病菌に弱い)品種のジャガイモが栽培されていたのです。そう、先述したランパーです。ヨーロッパは、ジャガイモ疫病菌にとって入れ食い状態でした。
ジャガイモ疫病菌はヨーロッパ大陸にて、ランパーたちに暴力を尽くしました。ある地主は、昨日まで元気だったジャガイモ畑が立ち枯れ、風に触れてただかさかさと悲しい音を奏でる光景を見たという記録があります。その訪れは突然だったのです。枯れてゆくジャガイモに、当時の農民たちに非情な衝撃を与えたでしょう。
しかし、それらヨーロッパ大陸におけるジャガイモ疫病菌の被害は深刻なものとはなりませんでした。
大きな理由は、ジャガイモ以外の食物が容易に手に入ったことです。まず、ジャガイモは麦などの作物とは栽培や収穫がずれることにより輪作、つまり連作障害を避ける目的で栽培されていました。そのため、農民たちはジャガイモの収穫が減ったとしても、すでに手元にある他の食物で賄うことができました。特に麦などは保存性が高く、湿度に気を付け上手に貯蔵していれば一年を通して食べることができます。
また、ジャガイモ疫病菌侵入当初は、いまだアイルランドは健在で、そこからの穀物や畜産の輸入品で賄うことができました。
そんなアイルランドにも、当然ヨーロッパ大陸を経たジャガイモ疫病菌がたどり着きます。
・発覚
さて、病気が成立するためには、三つの要素、環境、宿主、病原菌が揃うことが必要です。逆に言えば、これらどれか一つでも欠ければ、例えばジャガイモ疫病菌が存在していたとしてもそこにジャガイモが存在しなければ、病気というものは成立しえません。
一八四五年。この年、不幸なことに、ジャガイモ疫病菌は、初夏の異常気象という環境を伴ってアイルランドに上陸しました。
その年の六月から、アイルランドはどんよりとした雲に塞がれ、低い気温を保っていました。この低温高湿の気候はジャガイモ疫病菌が好む環境であり、その進出を手助けすることになります。それでなくともアイルランドは偏西風によって一年を通して湿度の多い土地です。ジャガイモ疫病菌や、その他病原菌の繁殖地としてうってつけだったと考えられます。
この、気候という点においては不運としか言えません。三つの要素がそろってしまった、という点のみを見れば、ジャガイモ疫病菌による飢饉を、天災と言うことができたかもしれません。
しかし、アイルランドの人々が、この招かれざる客に気付いたのは、夏が過ぎ秋、ジャガイモの収穫を迎えたころでした。
同年九月、アイルランドの農家たちは、奇妙なジャガイモを見つけます。そのジャガイモはぶよぶよとした感触で黒ずみ、明らかな腐臭を放っていました。その一つ目を掘り起こしたとき、彼らは冷や汗をかいたでしょう。またか、と。ジャガイモの異常は飢饉の前兆です。明日の糧のために、どうか、他のジャガイモだけは無事でいてくれ、と神に願ったでしょう。
しかし、その祈りは届かなかったのです。地面から掘り出されたジャガイモは、外の皮でかろうじて形状を保ち中の組織はドロドロに溶け腐っていたのです。どれもこれも掘り当てるジャガイモは異様な様相で、小作人たちはその現実に、目の前が真っ暗になったかもしれません。
この、腐ったジャガイモの、目に見える異常は、小作人たちに衝撃と危機感を与えたでしょう。しかし、残念ながらこの腐った芋はジャガイモ疫病菌によるものではありません。
ジャガイモに侵入したジャガイモ疫病菌は、感染から四、五日で根に入り込み、ジャガイモの可食部、芋の部分に病斑を現します。この病斑はとても食べることができるようには見えませんが、硬く乾いた質感で、腐ったという表現は合いません。小作人たちを絶望の淵に落とした、ジャガイモスープをつくったのは、地中に潜んでいた別の菌です。ジャガイモの腐食に関してはジャガイモ疫病菌への冤罪ですが、しかし、このようなプロセスなど、明日の食糧が無くなった小作人たちには関係ありません。誰が犯人であれ、そこに横たわるのは、食料がないという事実なのです。
さて、収穫期になりようやく発覚したジャガイモの被害ですが、ジャガイモ疫病菌は、小作人たちが、病に侵されたジャガイモを掘り返すよりももっと早くに、葉や茎を変色させていたはずです。その、葉や茎が枯れた病徴ははっきりと見て取れたはずです。しかし当時のジャガイモは、連作障害により、多くの病気に罹患していたと考えられます。ましてや知識の乏しい小作人たちでは、ジャガイモの正常さを正しく判別するなど不可能だったのかもしれません。
・委員会
同年十月。イギリス政府はアイルランドの被害を受け、対策委員会を設立します。
この時点で、なにか有効策を、あるいは当時の全力を尽くしていれば被害は抑えられたでしょう。しかし、委員会の行動は教会に行って神に祈れと言うだけの神父と何ら変わりはありませんでした。委員会が出す対策はジャガイモ疫病菌の侵攻を防ぐことはできませんでした。それも当然です。彼らはジャガイモが腐った原因を微生物であると突き止めることはできなかったのですから。結果、小作人たちはジャガイモ疫病菌にたいしてまともな防衛もできなかったのです。
とはいえ、問題はこれだけではありません。例え正しい情報を公開したとしても、高い文盲率、閉鎖的な社会であった小作人たちに、それらの情報が正しく利用できるよう伝わることすら難しかったでしょう。
しかし、科学は屈したわけではありませんでした。
ジャガイモ疫病菌は未知の存在ではありましたが、飢饉と同時並行的にその正体を明かそうとする人々もいました。アイルランド国立植物園の学芸員たちです。
この植物園のジャガイモは小作人たちが気づくよりも早く、八月二〇日、病にかかっている様子が発見されます。そのジャガイモ(ランパー種)を、当時資金も権力もない一学芸員である、ムーア(David Moore)は観察し、数種類の糸状菌を認めました。彼らはジャガイモの異常がカビによるものだと判断し、糸状菌説を飢饉の対策委員会に提出します。しかし、当時はそもそも微生物の研究すら進んでおらず、さらに、ジャガイモそのものが弱っていることが原因だという生理的要因説が対抗馬として出てきます。こちらの生理的要因説はリンドレイという著名な植物学者が推していました。糸状菌説はバークレイという微生物学者と聖職者を二足のわらじで行う研究者が援護しましたが、その努力もむなしく、彼らの努力が飢饉を止めることはできませんでした。
同年十一月、対策委員会が名前負けしたイギリス政府は、次に、救済委員会を設立します。救済委員会は文字通りアイルランドの飢えた人々を救おうとする組織です。もっとも、委員全員が、特に高い給料をもらって椅子に座るだけの方々が、そう思っていたのかは不明です。
救済委員会は、食料をかき集め、一八四六年四月にアイルランドへと配給を行います。しかしそれらが正しく飢えた人々に届くことはありませんでした。配給は無料ではなかったのです。
無料ではないとはいえ、配給は特別高かったわけではありません。むしろ良心的値段だったとも言えます。しかし、当時の小作人たちは土地代から毎年のツケから何から何までわずかな収穫を持っていかれ、手元に残るお金などないのです。そんな彼らにはわずかな値段であっても手の届かない高級品でした。
しかし、そうであっても配給の有料化は撤廃されませんでした。理由は市場の健全性を保つためです。市場に食料が出回っている以上、無料で配るなどということはできないのです。
政府にとっては市場経済の安定、自由経済の原則こそが聖典でした。
・一八四六年
ジャガイモ疫病菌の洗礼を受けた一八四五年に続き、翌一八四六年も飢えが蔓延する年となりました。
一八四六年は、世界的な穀物不足とイギリスの産業不況も相まって世界的に重苦しい空気がただよいます。しかし、国民が歩く骸骨となっても、政府は自由な経済を守るため、情けをかけることすらしませんでした。
秋になればジャガイモが収穫され、小作人たちの腹は満たされる。それまでの辛抱だと、自分たちは腹を満たしながら沈黙していたのです。
しかし、その予想は外れました。ジャガイモ疫病菌は、越冬し土壌や、ジャガイモの残渣に潜伏していたのです。前年の生き残りは、冷たい土の中で、ジャガイモが植え付けられる時を待っていました。前年にすでに疲弊していたジャガイモたちは、ふたたび疫病菌の脅威にさらされ抵抗する術もなかったでしょう。さらに連作障害により、菌量は前年よりもさらに増えていたと考えられます。菌が残りやすい茎や葉をそのまま肥料として利用した可能性もあります。少なくとも、当時の小作人たちは、大地そのものにジャガイモの敵となる小さな生物が潜伏しているとは思わなかったでしょう。
結果、一八四六年、秋の収穫は、約八〇%以上の減収となってしまったのです。
この年の不作はただ食料がなくなるというわけではありません。ジャガイモが収穫できない夏、小作人たちはツケ払いで食料を買います。しかし、収穫で払えるはずだったツケは不作により不可能になります。担保として払っていた寝具を取り返すこともできずに、厳しい冬を迎えることになるのです。
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