海にいるネコはウミネコでは無い。

広瀬 広美

第1話

 青よりも灰に近い穏やかな海に幾千もの波紋が生まれては消えている。それを見てもなお上山秋は雨が降り出したことに気づいていなかった。

 そんな上山は浮かれ調子で海沿いのウニ専門店『urchin』へと向かっていた。

 なんとも直接的な店名であるが、だからこそ上山は期待に胸を膨らませている。「こんな名前をするからには、よほど自信があるんだろう」といった感じに。とはいえ、楽しみなことはウニだけではない。今日は件の店を紹介してくれた素晴らしい人と待ち合わせなのだ。すなわち大事なデートの日である。

 有頂天のまま腕時計を見ると、時刻は十二時二十分を指している。到着まで残り徒歩五分といったところ。待ち合わせは十二時半なので多少ゆっくりできるか──

 そう思っていると、周りの通行人がまばらにビニール傘を差し始めた。近くの駐車場にいた猫達も、にゃーと鳴きながら車の下へ避難している。それに触発されたかのように、雨足も次第に強くなっていく。少なくとも、ようやく雨に気づいた上山にはその順番であるように思えた。

 上山の手に傘はない。彼は素朴にも朝の天気予報の晴天マークを信じ切っていたのだ。実際、地下鉄に乗る前は、すなわち三〇分ほど前には疑う余地のない青空だった。今思い返せば少しばかりアイスクリームに似た雲があった気もするが。

 不幸中の幸いにも、猛暑ゆえの汗染みを気にした彼のTシャツはゆったりめで色は黒。雨染みも大して目立つことはない。

 やってやったと勝ち誇り、歩いて向かおうとしたまさにその時、上山の右ポケットからピロリンと通知音が鳴った。どうやら待ち合わせ相手からのメッセージのようだった。とりあえず既読をつけないように細心の注意を払いながら、スマホのロック画面で内容を確認する。

[遅い]

 どこかのウニ専門店と似たようなシンプルなメッセージは、やはりそれだけで上山の心と体を動かした。

 足音が大きくなる。つられるように雨音もまた大きくなっていった。

 

 

「ねぇ、ちょっと『』しようよ」

 長谷川苗子はいたずらっ子のような笑みを浮かべながらそんな提案をした。対面に座る上山は『H,N』と刺繍の入った薄ピンクのハンカチを使って頭を拭きながら、それに苦笑いを浮かべた。

 その反応が面白くなかったのか、長谷川は口をとがらせながら「まだウニ丼はこないわよ~、頼んだばっかりだから」と不満気に漏らした。暗に強制する彼女の態度は、上山に首を縦に振らせる以外の行動をさせない。惚れた弱みは四回目のデートでも継続中だ。

 長谷川は上山と同じ会社の先輩であり、新人の上山に色々と教えてくれていた。その時に一目惚れした上山は長谷川に猛アタックをしかけ今に至る。

 上山がどんな賭け事かと尋ねると、彼女は嬉しそうに最新型のスマートフォンを操作した。華奢な手には少し大きいようで、何度か落としそうになっていた。

 おぼつかないままに操作を終えた長谷川は、大仰な咳払いをしながら高らかに宣言した。

「今からさっき撮ったばかりの音声を流します。この鳴き声がか当てて下さい」

 丁寧語は司会者を意識したものだろう。それよりも、ネコ?ウミネコ?一体どういうことなのか。上山の頭は鈍器のように鈍かった。

 その時、ふと耳を外に傾けると、雨とコンクリが激しく打ち合う音の中に、微かに獣の声が混じっているのが聴こえた。


 にゃー、にゃー、ニャー、と。


 上山の脳裏には来る途中に見かけたネコが浮かんだ。海馬のネコを隅へ押し退け、上山は慣れない考察を始めた。


即ち、早く来すぎた長谷川が、待っている間に暇だったので動物を撮っていたのだろう。そしてそこから遊びを思いついた……。もしくは最初からこの『賭け事』を出すつもりでこの店を選んだかだ。少なくとも、問題を作れる程に早くから来ていたのだとすれば、あの理不尽なメッセージにも納得がいく。理不尽なことに変わりはないが。


「ちょっとー? まだ続きがあるから戻ってきてー!」

 その声に、雨音が一瞬凪いだ気がして、直後にまた乱雑に鼓膜を叩かれた。

 上山の頭はやはり鈍い。もしこの場で目の前の彼女が死んだのなら、きっとそれは撲殺だろう。

「ネコかウミネコか、当てられたら上山くんに1ポイント、外したら私に1ポイント。で、2ポイント先取」そうして最後に、負けた方がここと最重要項目を付け足した。上山の頭の中にこれは『賭け事』なのかという疑問が浮かんだが、それを口にするよりも先にゲームが始まった。


 ニャー。


 上山の恋が冷めるのは案外早いかもしれない。度重なる彼女の理不尽な態度が愛情の裏返しであるという確証はどこにもないのだ。上山自身、そんなにムキになることではないと分かっているが、どこかこれまで以上の理不尽さを感じた。

 長谷川は問題の動画と上山の顔を交互に見ながら、楽しそうに口の端を歪ませている。

しかし、まだ諦める時ではない。なにせどんなにネコとウミネコの鳴き声が似ていようと、答えは二分の一で当たるのだ。

上山は決め顔でネコにベットした。

よくよく思い返せば、ウミネコは見ていない。しかしネコは見た。上山秋は(見たままに信じる者)だった。


 長谷川は未だに推定ネコが鳴いているスマートフォンを、くるりと回して上山に向けた。


 顔は白く、嘴は全体的に黄色で先端は赤と黒、羽は濃い灰。板の中のウミネコは長谷川が放ったスナック菓子を口に咥え、煩く鳴きながら飛び回っている。


「いえーい、1ポイント~」と言いながら軽くピースをして笑う長谷川に、上山は一目惚れした時のことを思い出した。

 海馬がひっくり返るような感覚が上山を襲った。


 ×


「えー、皆さん御存知の事だとは思いますが、我が社ではマンツーマンでのOJT研修を行っています。新入社員の皆さんには一年間、担当社員さんの仕事をお手伝いしながら仕事や社会人マナーについて学んでもらいます。お手伝いが主とはいえ、皆さんは既に弊社の社員であるという意識を忘れずに。えー、担当社員の裁量で、時には新入社員が主導で企画を行うこともあります。その時には、担当社員以外も色々とサポートを行いますので、恐れず、挑戦の意識を持って臨んで下さい。それから担当社員の方々がこちらの──」

 長々と長話を続ける課長の言葉を一字一句反芻できる者はいない。それは担当社員として課長に紹介される先輩社員の面々もそうであり、誰が担当になるのだろうと期待に胸を膨らませる新入社員の面々もそうであった。唯一例外がいるとすれば課長自身だろうか。

 課長が担当者の紹介を始める。二、三人の後に呼ばれたのはお淑やかな女性だった。

「──はい。ご紹介に預かりました、長谷川苗子です。インターンシップに参加した人は憶えているかもしれないですね。新入社員を受け持つのは初めてで、その『誰かを指導する』ということをしたことは無いのですが……、でも、仕事の事なら基本的には全部答えられるので、是非頼って頂けたらなと、思います。あっ、担当は秋山くんです。よろしくお願いします」

 白い会議室が拍手の音で埋められた。その音圧を形成する一つに上山秋も混ざっている。もし彼の脳味噌を二つに切り裂いて中身を見たなら、半分には『期待』が、もう半分には『残念』が詰まっていただろう。『期待』には仕事や新生活に向けたものもあるし、担当社員に向けたものもあり、極彩色に彩られていた。対して『残念』は単純な一色だった。自分の担当があの綺麗な人で無くて残念だという、邪な気持ちだ。上山は顔も知らない秋山という人物に虫も逃げ出さない程度の微かな敵意を向けた。

 その時、先輩社員の方では、新入社員の乱雑な拍手とは違うざわつきがあった。

「──え、名前違う? あっ! ごめんなさい! すみません、名前を間違えていました。秋山くんではなく、上山くん。上山秋くんが担当です。改めてすみませんでした」

 長谷川の頬は微かに上気していた。彼女は他の担当社員達の中に戻ると、右手を頭の後ろに回し、少し舌を出して「やっちゃった」と話した。それでも、次の担当社員の紹介が始まると、元の雅やかな出で立ちに戻った。

上山がそんな長谷川の様子を見ていると、ふと目が合った。顔は憶えていたようで、彼女は両手を合わせて前に掲げ、謝るような仕草をした。その顔は複雑だった。申し訳なさそうに、その上で穏やかに、そして恥ずかしさを隠すように、まさしく極彩色だ。

上山の脳味噌の半分が消し飛んだ。空いたスペースに雪崩れ込む感情を制御できずに、上山はフリーズした。その証拠にこの日これ以降何があったのか、海馬をひっくり返しても出てこなかった。覚えているのはようやく頭の処理が終わって、それが恋だと気づいたときからだ。四日後、上山が口にしたのは「この後、一緒にご飯でも行きませんか」だった。結局、二人きりでご飯を食べたのは、それからさらに半年後のことだったが。


 ×


「はい、じゃあ第二問~」

 長谷川の気の抜けるような声が上山の鼓膜を叩いた。今の長谷川には『お淑やか』も『雅やか』も感じられない。ふと上山は、記憶の中の長谷川苗子と今ここにいる長谷川苗子に違いはあるのかと疑問に思い、すぐさまそれを振り切った。そんなことよりも重大な、考えるべき事柄がここにある。


 にゃー。


 ネコかウミネコかの鳴き声が脳内を駆けた。ここを外せば上山の敗北が決定する。ウニ丼の価格は一品三二〇〇円、それが二つで六四〇〇円。お世辞にも財布に優しいとは言えない。


 上山の直感は脳内にネコを登場させた。なぜ自分がそう思ったのかという後付けの理由は単純明快だった。先程のウミネコの音声とは明らかに違っていたのだ。どちらの音程が高いか低いか、どちらの音質が良いか悪いかは全く判別できていないが、確かな質の違いを感じ取った。

 上山がネコだと回答すると、長谷川はジャーンと可愛らしく発しながらスマホの画面を上山へ向けた。


 背中は薄茶色でお腹は白、尻尾は黒と茶色のまだら模様。少し太ったネコは人間慣れしているのか、カメラを向ける長谷川に近づき、白いお腹を上へ向けた。長谷川はもう一方の手でネコを撫でながら「かわいい!」と漏らしている。


「正解! 上山くんに一ポイント!」と審判らしい公正なジャッジが下された。点数は並び、勝負は再び行方知れずとなった。長谷川は敗北が一歩近づいたというのに楽しげに「やるね~」と呟いた。そんな様子を見た上山の心は躍っていた。

「お持たせしました──」とウニの匂いと共に到来した声を聴くまでは。

 若い男の店員が「ごゆっくりどうぞ」とマニュアル通りの言葉を投げかけ、店の奥へと去っていく。長谷川がそれに軽く会釈をし、上山もそれに続いた。後には一つ三二〇〇円の黄金のように輝くウニ丼が二つ、長谷川の前に揃えられている。長谷川は一つを上山の前に寄越した。

「じゃあまあ、勝負はお預けだね。先食べよう」

 長谷川の言葉に上山は頷いて応えた。二人で頂きますと言って、待ちに待ったウニ丼を口に運んだ。

 上山は何か感想を言おうとして、初めの言葉すら禄に出ずに黙り込んだ。大した表現も思いつかないのは舌が肥えていないからか。それとも何処か、自分に異常でもあるのか。不安になって長谷川の表情を見ると、視線に気づいたのか、口に入れていたものを飲み込み「美味しいね」と言った。上山はそれに笑って、同じような言葉を返した。

 その言葉が、彼女の耳に届いたとは思えなかった。


 ×


「それでは調を始めます。あなたには黙秘権がありますので、自分の不利になることは無理に言わなくても構いません」

 明るめな狭い部屋には三人の男が詰められている。うち二人はスーツを着込んだ警察官だ。部屋の扉は開き切っており、誰かしらの声が絶え間なく聞こえている。昨今の『視える化』の影響であり、だからこそ警察官は目の前の凶悪犯にも丁寧に対応した。

スーツを着ていない男は格子付きの小窓を背に「はい」と頷く。

「ではまず、氏名、住所、職業について、あなたは──」

 警察官の確認事項に「間違いありません」と同意する。すると警察官は「早速ですが」と前置きし本題に入った。

「あなたは包丁を手提げバッグに忍ばせて地下鉄に侵入した、これに間違いはありませんか?」

「はい、間違いないです」

「その包丁を使って右隣に座っていた被害者の喉元を一刺し、その後、倒れた被害者に馬乗りになって八回刺した……」

「多分、間違いないです。回数は憶えてないですけど」

「……では、初めから包丁を凶器として、被害者を殺害する目的で持ち込みましたか?」

「……最初は殺すつもりは無かったんですよ。ただ、いつもむしゃくしゃした時に包丁をバッグに入れてるんです。何と言うか『俺はいつでもこいつらを殺せるんだ』って、そう思えて。自分が上だって思えると心がすっきりするんです」

「包丁を持ち込んだのは優越感を得るためだったということですか?」

「はい、そうです。そうだと思います」

「では、被害者と面識がありましたか?」

「俺には覚えがありましたけど、あちらに覚えがあったかは……」

「では、被害者を殺害した動機は何ですか?」

「……黙秘します」

 男と対面する警察官の眉がピクリと動く。ふぅと息を吐いて冷静に続ける。

「分かりました。では、むしゃくしゃすると包丁を持ち込むと言いましたが、その怒りは一体何に対してですか?」

「……仕事で上司に怒鳴られて。自分の勘違いの癖に俺のせいにしたからムカついて、それで」

「その件と被害者になにか関係はありましたか?」

「あると言えばあるというか、いや、直接的にはないんですけど……」

 警察官は人差し指で二回、テーブルを叩いた。

「詳しく、具体的にお願いします」

「……俺、就活に失敗してて、一年間就職浪人してるんです。それで今のブラック企業に入ったんですよ。で、大学四年生の時に、第一志望だった企業でグループディスカッションがあって、その時に一緒だったのが、その人です。名前は憶えて無かったんですけど、顔は憶えてたので一発で分かりました」

「それで、どのような関係が?」

「いや、隣に座られた時に『あっ、あの時の』ってすぐ気づいたんです。その時に、その人スマホ見てたんで、俺も目に付いちゃって。そしたら、丁度メッセージ来てて『遅い』って。送り主が『長谷川さん』だったんです。その名前に見覚えがあって、例の第一志望の企業のインターンシップの時の人だって気づいたんです。長谷川さん、すごい美人だったので」

「……それで?」

「あっ、こいつ受かったんだって思って。なんで俺が落ちてこいつが受かったんだろうって。グループディスカッションじゃ絶対俺の方が評価高かったはずなのに。俺はあの糞上司の下で働いて薄給なのに、こいつが美人の下で良い企業で働いてるって思うと、すごいムカついてきて、気づいたら刺してました」

「……それが動機ですか?」

 最大限に怒気を排除して、そう尋ねた。

「まあ、はい、そうですね。結局言っちゃいましたけど」

「何か、何か被害者に、今、冷静になって思うところはありますか?」


「まあ、悪いことしたなとは思います」


 ×


「じゃ、最後の問題行っちゃおうか」

 長谷川の言葉に、上山はのろのろと反応した。でも、食べ終わって居座るのは良くないのでは、と。

「何言っているの? 

 上山はテーブルの上にある二つのウニ丼を見た。一つは長谷川の前にある。それは、米粒一つ残っておらず、残っているものはどんぶりだけだ。対して、上山の前には一切の綻びなく、運ばれてきたままのウニ丼があった。

 上山はウニの味を思いだそうとした。何度も咀嚼し、舌鼓を打ったはずだ。目の前の長谷川苗子と同じペースで食べ、同じ感想を言い合ったはずだ。

 。ただそこにあるだけだったはずの実在、上山にとってのあらゆる指標の、その全てが失われていくようだった。ネコとウミネコの鳴き声の違いを、あるいは違いがあったということさえも消えていくような気がした。さらに最悪を想定するならば、果たして、目の前にいる長谷川苗子は実在するのか。あるいは長谷川苗子にとって目の前にいる『その男』とは、果たして上山秋なのか。上山秋は、上山秋として一度でも言葉を発したか。


「上山秋くん」


思考の渦が止まる。長谷川は上山秋の眼を真っ直ぐに見て、ただ名前を言った。

「最終問題、行くよ? 負けたら六四〇〇円だからね」

 そう続けるとスマホを操作し、最終問題の準備をしている。

 上山はハッとした。そうだ、もし負けてしまったらお金を払わなければならない。ウニ丼すら食べられないのに、どうやって払えばいいのか、上山の鈍い頭ではアイデアは一つとして浮かばなかった。ならば、勝つしかない、もし次負けたのならば今度こそ上山秋という実在は破綻する。そう上山は直感していた。破綻の意味する所が、二度と長谷川に会えないということも。

「おっ、あった、あった」と、遂に最終決戦の場が整えられた合図がした。

 長谷川はスマホで口元を隠すようにしながら音声を再生した。


「にゃー」


 上山は瞼を閉じ、思考を回す。鈍いで終わらせるわけにはいかなかった。

(一問目と二問目の違いは、ウミネコとネコの違いじゃない。ウミネコは餌を欲している時の鳴き声で、ネコは甘えているような、撫でて欲しいような鳴き声だった。そういう方向性の違いが、なんとなくの違和感となっていたんだ)

 ならば、今回はどのような方向性なのか。上山はひたすらに思考を回す。既に雨が止んでいるような気がした。

(方向性を感じたのは、映像と合わさったからだ。お菓子を食べるウミネコが、お腹を向けるネコがそこにはあった。なら、今回は?)

 上山はなんとなく目の前のスマホを見た。それは裏面で、画面は当然見えない。そこにヒントは無く、音声だけが聞こえてくる。

もちろん、その先の彼女が否応無しに目に入ってきた。

目尻が細く、切れ長の目。シースルーの前髪に艶やかなセミロングの黒髪。いたずらっ子のように笑う口元、その端だけが見えている。

上山はいたずらっ子のような彼女を、理不尽な彼女をよく知っている。

 上山の脳内に映像が浮かぶ。それはネコでも、ましてやウミネコでもなかった。

「答えは?」と、長谷川が聞く。既に答えに辿りついたことを察したようだ。


「長谷川さん、長谷川苗子さん」


 上山の声に、長谷川は一瞬驚いた顔をして、その後スマホを上山に向けた。画面は真っ黒だった。

「にゃー」と、長谷川は鳴き真似をした。今度はスマホで顔を隠していない。

「正解! いやー、強いね、上山くん。私の負けかー」

「最後になんて問題出してるんですか」

「最初に言ったでしょ『賭け事』だって。私は上山くんなら分かるはずだって賭けてたんだよ」

「いや、よく分からないですけど」

「なにおー!」

 と、そこに一人の店員がやってきた。上山は少しうるさくしすぎたのかも知れないと反省した。


「こちらのウニ丼、もしよろしければお下げしましょうか?」


 店員は長谷川の対面にある一つのウニ丼を見て言った。空席に置かれた不可解なウニ丼を。

「いえ、食べるのでそのままで大丈夫です」と、長谷川が言うと、店員は「失礼いたしました」と言って奥へと戻っていった。

 長谷川苗子はウニ丼を手元に引き戻すと、誰もいない対面の席に言葉を放り投げた。

「私の奢りだから、上山くんが食べないなら私が食べてもいいよね」

 返事は一つとして帰ってこない。

 長谷川は二つ目のウニ丼を完食し、きっちり六四〇〇円を支払った。

 店を出ると既に雨は止んでいた。雲間から天使の梯子が差し込んでいる。

 雨の無い静かな海には、ネコとウミネコのなき声だけが響いていた。


 ×


 後に長谷川苗子はとある事件をニュースで知る。それからさらに時間が経ち、その事件の犯人に懲役十五年の実刑判決が下された頃、長谷川苗子は墓参りをしていた。

「ねえ、上山くん。あの犯人、うちのインターンに来てたらしいんだけどさ。私、それ最近知ったの。やっぱり名前憶えるのって苦手かも。上山くんも最初間違えちゃったし、改めてごめんなさい」

 そう言って手を合わせる。果たして許されたのだろうか。上山くんならきっと許してくれるだろうと、長谷川は思った。

「じゃ、またね」と、そう言って立ち去ろうとしたとき、墓石の横にちらりと何かが見えた。

 近づいてそれを拾う。

 それは一枚のハンカチだった。薄ピンクで『H,N』と刺繍が入っている。

 ハッとして、辺りを見回す。しかしそれらしい人物は見当たらなかった。一度あんな体験をしたのだから、もう一度くらいあってもいいじゃないかと、長谷川は頭の中で文句を垂れた。

「……ふぅ」と、何の気なしに息を吐く。

 そして長谷川は素朴に確信する。やはり上山くんは許してくれていると。そういう優しさに私は惚れたのだと。

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海にいるネコはウミネコでは無い。 広瀬 広美 @IGan-13141

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