五十里の旅

かえさん小説堂

五十里の旅

 この三郎という男が、手前は武士だ、と名乗ると、さも餓鬼の戯言のように笑い飛ばされ、次には興味なさげに、そうかい、と形ばかりの返事を送りつけられる。三郎はそれを見ても何も言うことはなく、ただ己の小物さに悲嘆するのみであった。


 三郎は幼いころから臆病者、軟弱者として知られていた。竹刀を握れば虚空を切り、馬にまたがれば尻餅をつき、茶を立てれば苦みに顔を歪め、弓などは引くことすらできぬ。畜生も殺せぬような、そんな男であった。


 三郎は決して、身体が弱いわけでも、病を患っているわけでも、ましてやふざけているわけでもないのだが、どうもそのせいで哀れみと軽蔑を含めた目で見られることが多かった。


 そんな性分のせいか、三郎はいつもだらしのない恰好をさらしていた。細く、長い背は、老人のごとく丸められ、すっかり臆病に染まった眼は辺りを警戒するようにぎょろぎょろ動く。形ばかりの髷は、一度風に吹かれれば雑草のように散らかる。そのせいか、三郎は実際よりも一回りほど年老いて見られるのだ。


 そんな三郎だが、やはり、その存在は都合の良いものだった。


 貧しい農民なんかは三郎によってたかって喧嘩を仕掛けて、なけなしの金を盗っていくこともあったし、お役人などは、三郎をからかっては遊んでいる。


 あるときに、浪人共が集まって酒を交わすことがあった。そのときは、丁度朝方のことであっただろう。どこか彼方であほう鳥が鳴きだし、しかもその時に三郎がいたのだから、


「はて、こちらの阿呆は鳴きもせぬのに、鳥のほうが風流であったか」


 そう言ってからかう。それで笑いが起こるのだから、三郎は赤恥をかく。


 けれど三郎はその性分故に、言い返すことはおろか、顔をゆがませることすらしなかった。しなかったのではなく、できなかったのだが。

        

 その様子を見て調子に乗ったある者は、それ、鳴いてみせよ、などと言う。

 

 さらに笑いに包まれるなか、臆病な三郎が、何か言うことなんてできるはずもなかった。そのときは、只々、その場を乗り切るために、下手くそな鳴きまねを披露しただけである。

                             

 三郎は村一番の臆病者だ。そんな噂がたち、子供はおろか、犬にすら軽蔑されたような気がした三郎は、常日頃から、ある不安に苛まれていた。


 言うまでもなく、三郎は武士の身分で生まれながら、貧しい生活を送っていた。使える主君もなく、だいたい九つぐらいの時に、両親がここへ連れてきたのだ。


 その時はまだ何も思わなかったが、三郎がここまで臆病になったのは、その両親が処刑されるところを目の当たりにしたときだろう。


 両親は立派な館に仕える者同士だったけども、ある日に両親が主人の怒りを買って、切腹を命じられたのを逃亡してきたのだ。どんな処刑方で殺されたのかは覚えていないけれども、処刑中とされたその時間は、男と女の悲鳴が絶えず響いていたし、しかもその両親の死体は人の形すら残っていなかった。今もその時のことが夢に出てきては、思わず飛び起きてしまう。


 三郎は死を最も恐怖していたのは言うまでもない。そのせいで、三郎は、いつ来るかもしれぬ死の瞬間がたまらなく恐ろしくて、人に物事を言い返すことすらも億劫になってしまった。


 その瞬間がいつなのか分かればいいのに。そうすれば余計なことでおびえずに済む。死期さえわかっているのなら。いっそのこと、切腹でも言い渡されれば、いや、いけない。己がその前に死んでしまうかもしれぬし、切腹なんて、そんな恐ろしいことが出来るはずもない。どうして他の武士たちは、切腹なんぞ平気でやってのけるのだろうか。


 とにかく、最近になって三郎は、自分の死期がいつなのか知りたいと思っていた。そうでなければ、自分は、きっと、こんな薄汚れた生活を、それこそ死ぬまで送らなければならない。死んだほうがましだと、思うだろうか。いや、それでも自分は、意地汚く生きることにすがるのかもしれない。そんなことを思っていた。



 ある日のことである。この村に、年若い旅僧がやって来た。もともと狭い村だったし、それほど栄えていない田舎だったから、旅人が来るのは物珍しく、旅僧のことも、あっという間に広まった。


 村には、神社とか寺とか、そういった仏教のものは、あまり置いてなかった。仏教を熱心に信仰する者もいない。あるのはせいぜい、不気味に微笑んでいる地蔵くらいだ。しかし、人というのはやはり、浅はかというか単純なもので、僧が来たと知れば、皆こぞってありがたいお言葉などをもらおうとするのである。


 その噂は、もちろん三郎にも伝わった。


 最初は何も思わなかった。しかし、近頃は仏教も勢力を増していると聞くし、世間でも出家をすることはそれほど珍しいことではなくなっているらしい。三郎は、ふとあの事を思い出して、旅僧に会ってみようと考えた。


 自分の死期。


 年若いと言っても、仏の道に仕えているのには変わりない。死後は仏のいるところに還るといううわさも聞いたことがあるし、もしかしたら、特定はできなくとも、ある程度は分かるかもしれない。


 思うが早いか、三郎は、いつもの臆病な姿をさらして町宿まで足早に進むのだった。


 町宿は、いつもならば人気を失って、立っているのも疲れたようにうなだれているのだが、今日ばかりは人がそれを支えているようだった。


 人だかりの中には、仏教なんて信じてもいいことあるのかね、と言っていた者もいれば、微笑む地蔵の装飾品を持って行って売りに出した者もいる。彼らはまるで人が変わったかのように、熱心に僧に会いたそうにしていた。


 三郎は人だかりを目の前に一度足を止め、しかし歩きづらそうに、おどおどと町宿に歩みを進めた。



 その旅僧を一目見ることが出来たのは、もう太陽が落ちかけているころだった。


 年若いと聞いていたのは本当で、背筋が伸び、短く刈り取られた頭に、凛と開かれた瞳は眼光を放っているかのようだった。


 ようやく人だかりから解放された旅僧は、疲れたように首を回していた。


 臆病な男、三郎は、見知らぬ人に話しかけるのすらも大きな勇気を振り絞らねばならなかった。村の人たちですらまともに話すのに一世一代の苦労をしているというのに、ましてや見知らぬ人間になど、安易にできるわけが無かった。だから今もこうして、ふすまの陰に隠れて盗人のように様子を窺っているのである。


 ふと、三郎が足を組み替えたとき。古くなっていた木材が、ぎい、と嫌な音を鳴らした。


 まずいと思ったのもつかの間、僧の若々しい声が聞こえる。


「どなたでしょうか」


 急なことに、三郎はやはり怖気づき、脱兎のごとく逃げ出そうと駆け出すも、二、三歩進んで、頭を床に打ち付けた。


 手も付けずに転んだせいで、額にもろに衝撃が走る。


「あの、大丈夫でございますか」


 背後からあの僧の声が聞こえる。


 三郎は、あまりの恥ずかしさに飛び起きて、「いや、いや、なんとも」と早口に言った。


「私に何か御用があったのでは」

「いえ、あ、いや、あった、のはあったのですけど、いや」


 しどろもどろになって何か言おうとする三郎だが、なかなか思うように言葉が出ない。


 旅僧が疲れているようだから休ませてやらねば、という気持ちと、自分の死期を知りたいという気持ちに挟まれて、自分が何を言いたいのかわからなくなっていたのである。


 その様子を器用にくみ取った旅僧は、三郎とは対照的に、落ち着き払って言った。


「ひとまず、中へどうぞ。額も赤くなっているようですし、私でよければ、話でもお聞きしましょう」

「ああ、えと、それじゃあ、お邪魔します」



 三郎は旅僧に諭されながら、だんだんと落ち着きを取り戻してきた頭で、自分が臆病であること、自分の死期が知りたいと思っていることを話した。


 旅僧は終始黙って聞いており、自分と目を合わせず話す武士に、ひどく優しい目を向けている。


「手前は、とにかく恐ろしくてたまらないのです。いつかおとずれるであろう苦しみが、どんなものよりも奇怪で、いやなものに感じられて、それがいつ来るかと思うと、夜眠るのすら、やっとのことなんです」


 三郎は、だいたいこんなことを言った。


「せめて、手前の死期が分かれば、この恐怖も、少しはましになるかもしれません。どうか、教えてくださいませんか」


 最後には、まるで命乞いでもするかのような口ぶりになり、縋りつくような眼を旅僧に向けていた。


 旅僧は少し考えるそぶりを見せて、そして短く息をつき、


「死への恐怖は誰でもあることです」


 と、声を和らげて言った。


「私はしがない旅僧、まだまだ未熟者です。それゆえ、私では貴方の不安や恐怖を完全に取り除くことはできないでしょう」

「では、お前様でも死期は分からぬと」

「残念ながら、我々、仏に仕える者でも、それが分かる者はないに等しいでしょう。しかし、死への恐怖をなくすのには、それだけが方法ではありません。どうでしょう、貴方も仏の道を進んでみては」

「いや、結構です、お疲れのところを邪魔して申し訳なかった。失礼仕る」


 三郎は諦めたように早口に言って、早々に部屋を立ち去った。


 三郎は、己を臆病にさせる漠然とした恐怖が、よくわからなくなってきた。


 三郎は死を最も恐怖していると思っていたが、話を聞いてみると、旅僧が言うような、いわゆる、死への恐怖というようなものでもないらしい。


 では、何か。わからない、しかし、それが胸の閊えになって、呼吸することも邪魔している。


 漠然としたもやもやに困り果てて、うんうん唸りながら、町宿を後にしようと歩いていた、その時。


「あの、お待ちになってください」


背後からの、あの若い声が三郎を振り返らせた。


「何でしょう」

「貴方が何に恐怖しているのかはわかりませんが、私が仏に仕えている以上、見過ごすことはできません」

「しかし、お前様には、」

「西国の方におられる、道雪という方をお訪ねなさい。あの方は浮世離れした風変りな方ですが、仏教徒で知らぬ者はありません」


 旅僧の言う道雪という名は、仏教に関心がない三郎でも、耳にしたことがあった。


 山に籠って仏教を信仰し、仙人になって十の心臓を手に入れただとか、仏の道を外れて天狗になっただとか、生きているのかさえも分からない、いろいろと不可思議な噂の立っている人物である。


「道雪、とは、あの?」

「左様です。私も噂程度しか存じませんが、ここから五十里ほど西に進んだ、笹下山という山のふもとにおられるそうで。あの方にお会いできれば、貴方の悩みも解決できるかも知れません」


 未熟者で申し訳ございません、と、一言謝って、若い旅僧は、貧乏くさい宿に帰っていった。


 残された三郎は、しばらくの間、ただぼうっと、夜が近づいた時のうす寒い風に当たっていた。


 突然に開かれた道に、困惑していたのだ。阿鼻叫喚に一筋の蜘蛛の糸が垂れてきたような、そんな感覚だ。


 普通の、三郎以外の人間なら、犍陀多がそうしたように、嬉々として糸を掴むことだろう。


 だがしかし、三郎は躊躇っていた。三郎は、糸に登って極楽へ行く事よりも、糸が切れて真っ逆さまに落ちることの方を、先に考えてしまっていたからだ。


 けれど、このまま阿鼻叫喚の中にいては、気が狂ってしまう。いつまでも続く恐怖から逃れるためには、やはり、なけなしの勇気を振り絞ってでも、糸を掴まなくてはならなかった。


三郎は、夜風に押されたように一歩を進めた。



 村から一歩を踏み出すと、漠然とした不安と恐怖が、三郎を襲った。


 荷造りをしている時点で、もうやめよう、行ったところで、生きているのかすらもわからないのだぞ、と、胸の奥底から声が聞こえた。しかし、それでも三郎は、脂汗をだらだらと流しながら、坦々と作用を続けたのだ。以前の三郎ではありえないことだった。


 そして今に至る。三郎は、ハエのように両手をごにょごにょさせながら、決して大きくない歩幅をゆっくり進めていた。


 数刻ほど歩いただろうか。さすがの三郎も、いつまでもびくびくしているわけでもなく、もうどうにでもなれと、半ば、やけになって足を進めていた。


 もう何回目のことか、後ろを振り返る。


 先ほどまで、あれほど近かった村が、もう豆粒ほどの大きさで、見えなくなる寸前にまでなっていた。普通の人には造作もないことなのだろうが、三郎はそれを見てわずかながら、得意げになっていた。勇気を振り絞って皆から見下されていた村から、一人で出ることに成功したのだ。


 これでもう馬鹿にされることはない。三郎は、飛ぶことを覚えたひな鳥のような気分で、しばらくは順調に飛んで行った。


 だがしかし、その数刻後にはもう、その自信は消え失せてしまっていた。


 夜が来たのである。言うまでもなく、田舎にある村から外にでれば、迎えているのは広大な自然たちだ。


 まだ日は落ち切ってはいないものの、もうだいぶ暗くなっており、少し先はよく目を凝らさないと見えなくなっている。


 夜の山は危険がつきものだ。野犬どもが周囲をうろついているし、山賊だって出るかもしれない。三郎は自分の手腕を自覚していたから、余計に不安になっていた。


 腰に掛けていた、ぼろぼろに古びた刀を、少しだけ抜いてみる。がりがりとした音とともに刀身があらわになるが、鋼のはずの刃が、抜かれるとともに欠片をまき散らしてこぼれた。これでは人間どころか犬を切れるかすらも怪しい。


 三郎は不安になりながらも、心の隅で、ほっとしていた。


 これで人を殺す心配はないな、と。


 さて、そんな三郎だが、もたもたしている間にも、夜は近づいていく。もう太陽は頭のてっぺんしか見えないくらいになっていて、樹木は宵闇に笑い始めていた。


 とりあえずは火をつけねば、と、懐に入れていた火打石を、かちかちと、うるさく鳴らす。


 かちかち、かちかち、と、一定のリズムで乾いた音を鳴らすが、押し入れの中に長くしまわれていたその石は依然として、明りをともすことはなかった。


 だんだんと夜は更けていく。三郎はもう見えなくなってしまった太陽を横目に、焦って勢い余り、火打石をどこかに落としてしまった。

 

「ああ、たいへんだ」


 急いで探すも、すっかり木の陰になってしまった地面は、目を凝らしても見ることはできない。


 三郎は、背中に嫌な汗を感じながら、何かないかと、巾着の中を漁った。手に触れる感触で何が何なのか判別しないといけないが、混乱した三郎には、何が何だかわからず、ぐるぐると中身をかき混ぜているだけだった。


 どこからともなく、狼か野犬かの遠吠えが聞こえる。


 どうしよう、どうしよう、と、息が荒くなっていくのを感じた。これは人間の本能だろうか、命に危険が迫っている、と、胸の左側で警鐘が鳴っていた。


 こんなことなら、一生阿鼻叫喚だったほうがましだ、


「そこでなにをなさっているのですか?」


 突然の背後からの声に、心臓が止まってしまいそうな勢いで跳ねた。


「もしかして、貴方は昨日の、」


 恐る恐る振り返ると、あの、年若い旅僧が、たいまつの明りを掲げてこちらを覗いていた。


「やっぱり、貴方はあの村の方ですね?」

「は、はあ、し、死んでしまうかと、思った」


 肩で息をしながら、間抜けに膝をついて、三郎は旅僧に縋りついた。


「どうなさったのです、そんな血相を変えて」

「ひ、火が、つけられなくて、野犬も、出そうだったから、怖くなって」

「なるほど、確かにその荷物では、夜を乗り切ることは難しかったでしょうね。まあ、落ち着いてくださいな、私もここで、夜を明かそうと考えていましたから」


 旅僧は、こなれた手つきで焚火を作り、手ごろな丸太を持ってきて、焚火を囲うようにして座った。何か手伝いましょうか、と三郎は言ったが、これも修行の一環ですので、と、やんわりと断られた。


 そして、もう辺りが完全に真っ暗になったころ。落ち着いた三郎は、旅僧から何があったのか尋ねられて、素直に答えた。


「お前様がおっしゃった通り、手前は、道雪様を訪ねに出たのです」

「ほう、貴方ご自身で?」

「ええ、まあ。五十里だったら、だいたい五日ほどでいける距離ですし、手前はこんなでも、武士の身分で生まれたものですから」


 三郎は、焚火にあたりながら、自嘲気味に言った。


「手前なんぞは、武士に生まれてくるような器じゃなかったのですよ。武芸の一つもまともにできやしない、こんな臆病者は」

「己を卑下してはいけません。言葉にすると言霊となって、それが呪いになってしまう」


 旅僧は、三郎の声を遮るようにして、はっきりと物言いをした。


「貴方は勇気を振り絞って、あの村を出てくることが出来たではありませんか。私の言葉を信じて、歩んでくれたではありませんか。それを卑下する権利は、この世の誰にもありません。もちろん、貴方自身もね」

「でも、それだけだ。手前は何も成し遂げていない。現に今だって、お前様がここを通ってくれなければ、手前はどうなっていたことか」


 自分が嫌になる、そんな思いで、三郎は吐き捨てた。自分の命運ですら人にゆだねないといけないなんて。両親がここにいなくてよかったと、つくづく思った。


「夜はいけませんね、気分が下がってしまう。お疲れでしょう、もうお休みになってください」


 三郎は、その言葉に素直にうなずいて丸太にもたれかかりながら目を閉じた。


 またあの夢を見るのだろうか。寝る前は決まってそう考えてしまい、数刻ほどしないと眠れないのだが、今日はやけに疲れたようで、考える間もなく目を閉じるのとほぼ同時に眠りについた。


 旅僧は焚火を枝で突きつつ、自らの上に広がる夜空を仰いだ。


 その日はあいにく雲が多く、星どころか、月すらも濁った空の下に隠れていた。



 それから、三郎と旅僧は、ともに道雪のもとを訪ねることになった。旅僧の方も、もともと西国の方へ向かう予定だったらしく、それに、自分が言い出したのだからと、三郎の旅へ同行することに決めたそうだ。


 三郎は思わぬ味方ができたものだと、内心ほっとしながら着々と歩みを進めた。


 旅僧は道中の村々にあった寺や神社に訪ね、己の修行に手を抜かなかった様子だった。時には三郎も一緒にえらい高僧とされる方の説法を聞くこともあったが、ぼやくような声で発せられる摩訶不思議な言葉には、眠気を誘われた。


 そんな日々が風のように過ぎ去って、とうとうこの時が来たのだ。


 本来なら五日ほどで到着するのを、七日ほどかかってようやく到着したそこは、奇妙な噂が流れるとして知れた、笹下山だった。


 その噂が言霊となったのか、山には鬱々とした妖気が漂い、まだ日が高いというのに、そこだけ影になったような、おどろおどろしい何かが感じられた。


 その空気に、三郎は思わずたじろぐ。


「何も怖がることはありません。仏の道を究めたとして名のある方だ、妖怪などという類ではありませんよ」

「ですが、噂では天狗になったとか、仏の道をはずれたとか」

「あくまで噂にすぎませんよ。せっかくここまで来たのです、早く行くとしましょう」


 笹下山の空気を臆することもなく、旅僧は、平然と足を進めていった。その背中に引かれるように、三郎は遅れて駆け出した。



 山を頂上の少し下まで登って、獣道を少しだけ歩いたその先に、仙人とまで呼ばれた高僧の住処があるとされていた。


 旅僧は器用に山を登り進めていく。時には崖のようなところも登り、道なき道を真っすぐと進んだ。


 三郎も、旅僧に支えられながら何とかついていく事が出来たらしい。それでも、崖から落ちそうになった時は肝を冷やしたものだが。


 数刻が過ぎて、辺りはもう暗くなってきた。木々の隙間から見える日光も、赤色を携えている。


 三郎は焦り始めていた。普通の山でも野宿するのには慣れないものなのに、こんな怪しげな山で野宿をするなど、自殺行為に等しいからだ。かといって、仙人の家に着いたとして、そのまま宿泊させてもらうわけにもいくまい。結局のところ、三郎たちは仙人のところを訪ねてから、下山しなければならないということだ。


 けれども、そんな余裕があるはずがない。もうじきに真っ暗になって、闇色が辺りを覆いつくすことだろう。


 三郎は、ほぼ諦めたような声で言った。


「まだかかりますかね」

「もうすぐですよ。ほら、見えてきた」


 旅僧が振り返りざまに指をさす。


 その方向に目を向けると、一つの民家が、本当にポツンと器用に建っていた。三郎は、本当にあったのか、と小さくつぶやいて、高鳴った心臓を押さえつけるようにゆっくりと呼吸した。


 それから、三郎が民家に着くまでにさほど時間はかからなかった。茶色のどこにでもありそうな普通の扉の前に立つ。


 すると、旅僧は何のためらいもなくその扉を開けて、ずかずかと中へ入り込んでしまった。


「な、何をなさっているのですか!」


 どんな人かもわからないのに、そんな無礼を働いては何が起こるか、と、三郎は焦ったように叫んだ。


 しかし、扉の向こうを見ても誰もおらず、簡素な居間の真ん中に、囲炉裏がおかれているだけであった。


「自分の家に帰るのに、礼儀も何もないでしょう」


 旅僧は、笑いながら三郎に言った。


 その言葉が意味するのは、旅僧が、三郎の求めていた存在、道雪、その人であることだった。


 三郎は驚きに目を見開いて、硬直していることしかできない。


「そんなところにいないで、中へどうぞ。薄汚いところで申し訳ありませんが」


 もはや緊張と驚愕で思うように頭が働かない三郎は、言われるがままに、民家の敷居をまたいだ。


「は、いや…まさか」

「まあ、名前を聞かれればお教えするつもりだったのですがね、聞かれなかったものですから」


 どうぞ、と、旅僧、もとい道雪が茶を手渡す。


「近隣の村の方々は、私を不思議がって、いろいろな噂を立てるものですがね、私はこの通り、ただのしがない僧でしかないのですよ。この山だって、かわいらしい小鹿がいるだけで、魑魅魍魎の類は、一度だって目にしたことはありません」


 何ともなく話す道雪に、三郎はまだ緊張をほぐすことが出来ず、正座していた。


「私もまだまだ修行が足りぬ身ですから、時々こうやって旅僧をしているのですがね、人を招いたのは、初めてですよ」

「で、ですが、なぜ手前なのです? 手前など、ただの足手まといにしかならなかったでしょう」


 お茶をこぼしそうになりながら、三郎は言った。


「仏は人を選びません。それに、うれしかったのです」

「な、何がでしょうか」

「貴方が勇気をもって、私のところへむかってくれたことです」


 道雪は、今まで三郎が向けられたことのないほど、優しい笑みを浮かべていた。


「私は、あえて私の身分を隠して、さも他人かのように貴方をここへ導きました。でもそれは、私の勝手な遊びではなく、貴方に勇気があるのかを確かめたのですよ」

「確かめる、というと?」

「自らの苦悩を乗り越えるためには、自らが変わらなくてはならない。貴方がそれをするだけの勇気があるのか否かを問うたのです」


 道雪は、心から嬉しそうに告げた後、落ち着きを取り戻して、こう言った。


「私も占い師ではありませんので、貴方の抱えている恐怖を、一目見ただけで判断することはできません。ですが、助言をすることならばできましょう」

「何です、それは。手前が抱えている恐怖とは、何なのですか」


 三郎は、はやる気持ちを抑えきれなくなったように身を乗り出す。


「一言で表すには難しいですが、言うなれば、怒りへの恐怖、でしょうか」

「怒りへの?」


 復唱して言う三郎に、左様です、と道雪はうなずく。


「私が言えることはここまでです。自らの苦悩は自らで解決せねばなりませんから」


 道雪はそれだけ言ってしまうと、囲炉裏に火を灯しはじめる。


 三郎は目を閉じて、自らのことを思った。


 思えば、三郎は何かに対して怒ったことがない。村の人間から、子供から、浪人から、様々な罵倒の言葉を吐かれても、言い返すこともできなかった。

 

 心の奥底まで透明になっているような感角を覚えて、三郎は黙り込んでしまった。

だんだんと昔の記憶がよみがえってくるような感覚が三郎を襲う。今までは両親の断末魔にかき消されていた事実が、徐々にあらわになっていく。


 両親は、自らの主人が年貢を違法に過剰摂取することに怒り、反乱を起こしたところを、主人から切腹を命じられたのだった。


 それと同時に、今まで村人たちから浴びせられてきた罵詈雑言が、一つの熱い感情と共に、ふつふつと湧いて出てくる。


 三郎はうつむいていた。ぎゅう、と着物の袖を握りしめて、唇を血がにじむほど噛みしめていた。



 囲炉裏の中の炎が、音を立てて燃え上っている。



 





 

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