後編

 「ボイスをどのように理解できるのか」、このような問いを美術館の展示を見た感想で抱くことに対し、私は違和感を抱かざるを得ない。なぜなら、美術館に展示されている作品はそれ自体、価値が明確化されていることが多いからである。美術館に所蔵される美術作品の多くは、その作品のそれぞれに明確な美術史的価値がつけられており、作品はその価値によって美術館に収蔵される権利を得ている。ボイスというアーティストも生前こそ批判されることも多かったものの、今では世界的に支持されているアーティストとして、現代美術史にまぎれもなく名前を刻んでいる。にもかかわらず、どうしてこのようなことを思うのか。その理由は明確に、私がボイスの社会彫刻を直接目にしていないからだ。そもそものこと、私はボイスの死去した1986年よりも後に生まれた世代だ。展示では確かに彼の作った作品が飾られ、彼の起こした数多くのアクションが体系化され、映像作品としてブラウン管テレビで上映されている。しかし、先ほどのキャプションにおいては彼の最も中心はいまそこで展開されている活動そのものであり、それは文章になることもなければ、映像に残されているものでもないものだ。アート・ドキュメンテーションという言葉は美学者ボリス・グロイスによるものであるが、一度為されたパフォーマンスのアーカイブはもはやその作品そのものではなく、別個の作品として位置づけられるべきだ。


 「ボイス+パレルモ」展は間違いなく、ヨーゼフ・ボイスに関わる展示を行っている展示会だ。しかしながら、その本質が体系化されないまま、その場にいた観衆に開かれた——その場にいた観衆「のみ」に提供された——のなら、私はそれを永遠に知ることができない。どれだけボイスの作品を見ることができても、その背景にある核心の〈ヨーゼフ・ボイス〉に私は到達することができないのだろうか。しかしながら、それこそがボイスの本質——到達不可能な〈ヨーゼフ・ボイス〉であるべき問題だろう。展覧会カタログにて、本展示の企画者でもある国立国際美術館学芸員の福元崇志による論考はその問題に積極的に取り組むものでもある。


「作者自身を媒介とするアクションは、その芸術において中心的な位置を占めるだろう。たえず動き、さまざまな関係を構築しては、自らを塗り替える……そんな既存の枠組みの全てに揺さぶりをかけんとするボイスの実践は、けっして静観され、味わわれるべきものではない[3]。」


 本展覧会において表象される〈ボイス〉とは決して明確に表象可能な存在ではなく、あいまいな輪郭を取りつつ鑑賞者へと送られている。展示される作品そのものはアクションの断片であり、それ自体は間違いなく「静観」されるものではあるのだが、しかしながら彼の作品をただ「静観」するだけでは、私は〈ボイス〉に到達することは決してできないのだ。ボイスが私に伝える、永遠に到達できない〈ヨーゼフ・ボイス〉のあり方。それは福元が論考内で「死はその芸術を完結させず、むしろ変質させる」と述べるように、彼の死後もなお続く彼からの問題提起であると言えるだろう。その問題は、ボイスの死後生まれた私のような人間にはなおも鋭く突き刺さっている。


 私はどのようにして、〈ボイス〉を知ることができるのだろう。そうした思いを抱えながら、私は展示を見終わった後の国立国際美術館に差し掛かる夕陽を、ただ呆然と見ていたのだった。


 _____


[3]福本崇志「ボイス以後のボイス」前掲書、20頁.

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