都市・文化芸術論

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都市

浄化されていく京都の街で——これからの「観光客」のための試論

はじめに

 23時。スポーツウェアに着替え、自室を出る。およそ1年前に市内に住み始めて以降、京都御所をランニングで一周することが私の日課だ。外出自粛要請が出ては消えてを繰り返すこの時代、深夜の京都はどこか静かである。23時といえば、市内を漏れなく走る京都市営バスの各種が最終便となって出発していく時間だ。今出川通りを東向きに走る私の隣を追い越していくのは、今日の最終便である錦林車庫行き203系統だった。最終便を表す赤いランプをともしたバスが、私を後ろから追い越していった。


 京都の学生として生活を続けてきた私にとって、京都市バスは最も慣れ親しんだ移動手段だ。通学定期券を持っていた私は、3か月で26,000円という高額な定期代の元を取るため、積極的にバスを使用していた。バス車内後ろ側の狭い椅子から、連続する赤信号や、行き先や運賃を確認する観光客と修学旅行生をよく見かけていた。今、京都にはどちらもおらず、ある意味で平穏であり、ある意味で不穏だ。日本にいながら毎日のように中国語や韓国語、あるいは聞きなれない方言が聞こえていた日常の方が、京都市内では普通だった。それがなくなった今こそ、むしろ異常なのかもしれない。


 とはいえ、私は大阪出身であり、1年前に京都に引っ越すまでは毎日のように府境を超えて京都にやってきていた。そんな私は、ある意味では観光客側だったのかもしれない。だがそれでも、ここ数年の京都の劇的な変化はリアルタイムで見てきた。そうした自分の感覚は京都市内に部屋を構えたことでより確信的になっている。誰一人疑うことはないだろう「観光都市」であったはずの古都・京都。そんな光景は気づけば過去のものになっているのかもしれないのならば、観光客なき観光都市のこれからについて、考える必要があるのではないだろうか。そうした問題意識をもとに、本稿では「観光客」という点に焦点を絞ってその先を考えてみたい。それにあたって、私が昨年に美術館で見かけたアーティストの下道基行氏の作品群、および彼の姿勢の変化を一つの補助線にして、思考を巡らせてみたく思う。

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