第7話 願いと旅立ち

「やはり性急すぎたのだろうか。彼女にきちんと出会った時の話をしていなかったのもいけなかったのかもしれない……」

悄然とした様子でぶつぶつと呟く主の姿を見て、ネイサンは呆れ交じりの視線を向けるが本人は気づいていない。


「1度しか会ったことがない相手を12年間想い続けたと告げれば、重いのを通り越して気持ち悪いと思われるかもしれませんがね。大体あの令嬢には陛下の魅力が通じていないようでしたし、とりあえず婚約を承諾してもらったのだけ良しとすべきではありませんか」

鬱陶しいほどに落ち込んでいたカイルだが、後半のセリフに顔を上げた。


「そうだな。これから徐々に俺の気持ちを知ってもらえばいいだけだ!はあ、シャーロットが結婚するまでは諦めきれなかったが、周りの雑音を聞き入れないで本当に良かった」

繁栄を誇る大国の皇妃の地位を狙う者は多い。未だに皇妃を迎えていないのは皇帝のお眼鏡に叶う女性がいないのだとか、その苛烈な性格に耐えられないのだとか、ひどいものだと男色家だなど色々な噂が囁かれているが本人は些事だと放置していた。おかげで周囲はやきもきさせられたものだが、婚約が公になれば噂は下火になるだろう。


ネイサンの目下の懸念事項は婚約相手となったシャーロットのことだった。

聡明な主ではあるが、色恋に——というよりシャーロットに関してはポンコツなのだ。


(そもそも彼女にそれだけの価値があるのか?)

幼少の頃から受けていた王太子妃教育の賜物で礼儀作法や必要な知識を持ち合わせており、学業のほうも優秀だという報告を受けている。その辺りは皇帝の婚約者として、ひいては皇妃として申し分ないと思うが、皇帝に向ける眼差しは冷ややかだ。


容姿だけに惹かれないのは好感が持てるが、カイルの言葉には不信感を滲ませているようだった。

長年の婚約者に捨てられたのだから、まだ心の整理が付いていないせいかもしれない。そう思う一方で感情を失ったような静か過ぎる雰囲気が気に掛かる。

普段であれば相手の感情の機微を瞬時に見分ける主だが、長年の恋心が報われそうだと浮かれているため気づいていないのかもしれない。


「シャーロット嬢が同じ想いを返してくれるとは限りませんよ?」

喜びに水を差したくはなかったが、珍しいほど上機嫌な様子に釘を差しておくことにした。落差が激しいほど報われなかった時の傷は深い。

何より彼女はカイルに妻になる気はないと告げたというのだ。皇妃の仕事は務めるが、私的な部分で寄り添う気はないと宣言したも同然である。


「それでもいいんだ。彼女がもう一度幸せそうに笑ってくれるなら、すべてが報われる」

嬉しそうな、でもどこか寂しさが混じった笑みを浮かべた主にネイサンはそれ以上何も言えずに恭しく一礼した。




「シャーロット、本当に良いのか?」

サイラスの表情に不安そうな色がよぎる。まるで心から娘を案じる父親のような姿に胸の奥がちくりと痛む。

「もちろんですわ、お父様」


カイル皇帝の訪問からわずか1ヶ月に満たない期間で、シャーロットのエドワルド帝国行きが決まった。エドワルド帝国側からの働きかけも大きな要因だが、レザレ王室としても王太子からの婚約解消は評判に関わることでもあり、国にとっての慶事として速やかに事は動いた。本来なら出国前に王室への挨拶も必要なのだが、それはサイラスが反対したと使用人たちが話しているのを耳にした。


(もしもあの時のお父様の言葉を聞いていなかったら、どんなに嬉しかったことだろう)

変えられない過去を何度夢想したか分からない。それでもだからこそ皇帝の申し入れを受けたのだと思えば、必要なことだったのだろう。

いつまでも以前の婚約者に心を残すわけにもいかないから、今回のことは良いきっかけなのだとシャーロットは思うことにしたのだ。


(不名誉な娘が少しでも役に立ったのなら良かったわ)

大切に愛されていたはずの少女時代が胸に去来する。


『シャーリー、私の愛しい娘。どうかお父様とずっと一緒にいておくれ』

母が亡くなったあと、寂しそうな笑みで告げるサイラスの顔は今でも記憶に残っている。いつの間にか愛称で呼ばれることがなくなったが、代わりにその名で呼び続けていたのはラルフ王太子だった。


(でもラルフ王太子殿下も少し前からシャーリーと呼ばなくなった。あれはカナ様が現れてからのことだったかしら)

いつの間にか思考が別の方向に逸れたことに気づいて、シャーロットはゆっくりと瞬きをして最後の挨拶を口にする。


「今まで育ててくださって、ありがとうございます。ブランシェ侯爵家の名に恥じぬよう精一杯皇帝陛下にお仕えいたします。……どうかお元気で」

二度と戻ってくることがないのだと思えば、僅かに言葉が揺れる。嫌われていたとしても唯一の家族であり尊敬していた父親をシャーロットは憎み切れずにいた。


「辛い事や困ったことがあればいつでも連絡しなさい。――お父様はいつでもお前の味方だ、シャーリー」

先ほどまでのシャーロットの思考を読んだかのようなタイミングで、サイラスが優しい表情で愛称を口にした。まるで幼少の頃に戻ったかのような親密で温かい雰囲気に、涙腺が緩みそうになるのを堪える。


「……ありがとうございます」

かろうじて感謝の言葉を述べ、シャーロットは別れの挨拶を終えた。

既に帝国からの迎えの馬車は待機しており、シャーロットの出発を待っている。


頼る者もおらず身一つで努力して周囲に認められなければならない。だがそのことに関してシャーロットは不安を覚えていなかった。国内でも、侯爵家内でも信頼できる者など最早いないのだ。そしてまた新天地のエドワルド帝国であっても誰かを信頼することなどないだろう。


(私はただ与えられた責務を果たすだけ。それが私に残された矜持であり生き方だわ)

そんな決意を胸に秘め、シャーロットは慣れ親しんだ生家に別れを告げた。

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