vs嶋中先輩

 嶋中先輩が暮らすアパートは、随分と年季が入っていた。


「ボロいな」

「そうだね」


 それ以外の感想を持てなくて、僕らは曖昧に笑い合う。戌居君と一緒に、喜慈の会で最も信頼のできる相手に鬼児の会の情報を伝えに来た。戌居君にとってのそれは、嶋中先輩だったわけだ。


 休日の朝早くに叩き起こされる先輩の立場になると申し訳なくもあるけれど、僕らも危ない橋を笑っているのだ。この程度は許してもらおうじゃないか。僕と一緒に伝書鳩になった戌居君は、先輩が暮らすアパートを見上げて呟いた。


「もし先輩が鬼児のメンバーだったら……」

「どうしようもなくない?」


 戌居君の心配に無策で返す。


 僕らは一般人である。捜査令状を持っているわけでもなし、彼がシラを切った時点で何も出来なくなる。先輩が僕らを襲ってくれば話は別だが、それも過剰防衛として逆にしょっぴかれる可能性があった。僕らは危険を承知の上で、しかも警察には何の相談もなく先輩の元へと出向いているわけだから。


 二階建てのアパートだ。階段を登りながら、戌居君と話す。


「鬼児の会、警察にも会員がいたんだよな」

「今のところ、一人だけどね」

「直接の会員じゃなくても、懇意にしている奴がいればアウトだろ」

「だねぇ。桜田門組には頼れないってことだ」

「サイアクだな」


 言葉とは裏腹に、戌居君は獰猛な笑みを見せた。


 彼に殴られた時の痛みを思い出す。彼が戦っているところを見たことはないけれど、戌居君も相当の手練れなのだろう。その癖、表の空手大会で相まみえた記憶がない。ひょっとすると彼の主戦場は裏の舞台だったのかもしれない。聞きしに勝る経験というものだ。何も聞かず、彼についていってみよう。


「それじゃ、行くぞ」

「うん。殿は任せろ」

「俺達しかいねぇのに殿も何もないだろ」


 犬歯をみせて笑う彼が、呼び鈴を鳴らす。緊張している様子もない。彼はリラックスしていて、咄嗟の攻防にも耐えられそうだった。


 30秒ほど経っただろうか。ドアがゆっくりと開いて、寝ぼけ眼の嶋中先輩が姿を現した。直前まで眠っていたのだろう、寝間着姿だ。無精ひげが目立ち、表情からは日々の勤労の疲労が読み取れる。まだ21歳だと言われても疑問が残るほどに、今日の彼はくたびれている。


「……どうした、何があったんだ」

「先輩に頼りたいことがあって」

「事前の連絡くらいしろよ。ふぁ……あ」

「すいません。喫緊の用事なんです」

「……分かった。面倒ごとじゃないだろうな」

「捉え方によります」


 煙に巻かれながらも頷いた先輩が僕らを部屋に引き入れてくれる。


 先輩の部屋には筋トレグッズが並んでいた。ダンベル、グリップ、ディップスタンド……ところ狭しと道具が置かれている。僕は自重トレーニングばかりをしていたから、こうした筋トレグッズは物珍しくて興味を惹かれる。だが、今日は筋トレの面白さを追求しに来たわけじゃないのだ。


 酒の空き缶が並んでいたテーブルの前に腰を下ろす。

 先輩は水をがぶ飲みすると、ようやく目が覚めたらしい。


「んで? 何の話だ」

「鬼児の会について、です」

「……キジの会? トラブルでもあったのか」


 そういえば鬼児の会についての詳細は、まだ共有していないのだった。この反応だけでも先輩を白と判断していいが、念には念を入れておく必要がある。鬼児の会についてかいつまんだ説明をして、先輩の様子を窺う。徹頭徹尾、彼の知らない話題だったらしい。彼は逆に、僕らが嘘を吐いているのではないかと疑い出した。


「そんな情報、どこから仕入れたんだよ」

「天童が襲われて。その犯人から聞いたんです」

「マジな話? その犯人ってのも、天童も、どっちも無傷なんだろ」

「はは、そうですね」


 疑われて当然だ。

 僕が喜慈の会に入って日が浅いこともある。


 その状態で、鬼児の会と繋がっている相手と交戦し、互いに怪我無くその場を収めたというだけで不安要素も生まれるだろう。嶋中先輩から信頼を勝ち取る方法は、ここで彼に僕の強さを証明することだった。果たして、彼が受けてくれるか不明だけど。


「試してみますか?」

「……戌居は、こいつを信用するんだよな」

「はい」


 訝しげな視線を戌居君に向けた嶋中先輩は、彼が素早く返答したことでかえって言葉につまった。亀茲山での慈善活動を行う、喜慈の会。その内部に裏切り者がいる可能性があるのだ。


 戌居君が信頼するほどには、嶋中先輩は戌居君のことを信じられないようだ。戌居君が信じる僕を、手放しで信じられないのがその証拠である。僕らが考えた「喜慈の会から鬼児のメンバーをあぶりだす作戦」は、情報の共有者を限りなく減らすことで、漏れた場所を特定するものである。信じられない相手には情報が共有できず、そこで僕らの計画は頓挫してしまう。


 だから、戌居君が信頼できると言った僕を、嶋中先輩は信じなければならない。しかし、それでも躊躇っている。


「先輩。僕が、素人相手に怪我をさせると?」

「余裕で勝てるって言いたいのか」

「はい。僕は、天才なので」


 雉畑と同じように挑発してみる。


 先輩は動かない。真っ直ぐに視線を向けてくる。逃げることも、逸らすこともしない。彼は僕を試すことに決めたようだ。僕が嶋中先輩の思うよりも強ければ、百茂を捕らえた事実を好意的に受け止めてくれるだろう。そして、彼女を僕に差し向けた裏切り者を探すのに協力してくれるはずだった。


「怪我はするなよ」

「当然。先輩もね」

「はっ、」


 よく言うぜ、と彼が呟く。


 同時に、テーブルを乗り越えるようにして彼が飛び出してきた。歩くように自然な動きで蹴りを繰り出し、横へ避けた僕へ向けて回し蹴りを繰り出してくる。空手家の技ほどキレは鋭くないが、重量のある一撃だった。狭い室内で襟元へ伸びてきた手を、素早く弾く。顔を狙って突き出した拳は、先輩が防御の構えを取ったのを受けて胸元へのパンチに切り替えた。


「…………」

「喋らないんですね」

「…………」


 舌を噛むからね。しょうがない。


 先輩が踏み込もうとしたタイミングを見計らって、膝へと蹴りを打ち込んだ。初見の相手に防御的な姿勢を取るのは当然だが、僕には却ってありがたい。自由に攻められるし、自分の好きな手札を選べるのだから。


 先輩が柔術の得意な人だとは知っていた。だから掴まれた時、咄嗟に身体を捻った。懐に入られて、投げられたらお終いだ。この狭い室内で先輩がその選択をするとは思えないけど。


 捩じった姿勢のまま、蹴りを繰り出した。左足のアウトサイド、手刀に似た要領で突き出した蹴りが先輩の頸を捕らえていた。当ててはいない。ただ、僕は当てられましたよ、という姿勢のまま止めている。先輩の掌も僕の喉を押さえていた。体重こそ掛かっていないが、先輩が本気を出せば僕の喉は潰されている。


 互いに相手の急所を捕らえていた。

 なるほど。先輩も強い人だ。


「……分かった」

「ありがとうございました」

「こちらこそ。お前、強いな」

「先輩もやりますね」

「……鬼児の会の話、信じるよ」


 嶋中先輩とがっちり握手を交わす。

 これで、ようやく仲間が一人増える。


「この交渉、骨が折れるね」

「そのうち、ホントに骨折するぜ」

「かもしれないっすね」


 先輩が出してくれたお茶にありがたく口を付ける。

 鬼児の会と戦うための下地を、僕らはゆっくりと作っていく。

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