現代魔女はひっそり楽しみたい(願望)
夏
前編
隕石が日本の太平洋側に落ちたのは、元号が変わって数年が経った頃だという。
けれど落ちた隕石は衝突直後に跡形もなく消滅し、空いた海の大穴からは恐ろしい怪獣が次々と現れた。
その怪獣はあとに、魔物、魔獣と呼ばれるようになる。
隕石衝突による影響はそれだけではなく、魔物や魔獣のほかに「大陸」を出現させた。
およそ北海道三倍の面積がある謎の大地は、「ポロネス大陸国」という、異世界の国であった。
ポロネスの民は、魔法という特殊な力を使って日本に侵入した魔物や魔獣を討伐した。
魔の獣は魔力を行使した攻撃しかダメージを与えられず、現代の軍事力をものともしなかったからだ。
「わあ、おっきいかいじゅう! シノならね、バーンってたおせちゃうよ!」
その歴史的瞬間を両親が青ざめていることも知らず、魔法少女やヒーローに憧れていた山田紫乃は、テレビの前で兄と一緒にけたけたと笑っていた。
それが今から、10年前の出来事。
あれから世界は大きく変わった。
***
紫乃は平凡な学生である。
都内出身、今年の春から都立高校に通う花の女子高生。
「おい、だーやま。早く全員分の飲み物、買ってこいよ」
「……わかった」
いかにもな風貌の不良――ではなく、いわゆるカースト高めな位置にいるグループの男子からの「お願い」に、紫乃はひとつ頷いた。
(お金をくれるだけ、マシではあるけれど)
千円を受け取った紫乃は、ため息を吐きながら階段のほうへ向かっていく。
「きゃはは! 山田、すっかりアンタらのいいなりじゃん」
「女子にパシリとか、かっこわる〜」
「何いってんだよ、俺らはお願いしてるだけだし。嫌なら嫌って言えばいーんだよ」
そんな会話が後ろから聞こえてきて、紫乃はさらに嘆息を深めた。
馬鹿なことしたな、とは今でも思う。
見ないふりをしていれば紫乃の高校生活はもっと平穏だったのだ。
紫乃がクラスの性悪陽キャグループに目をつけられるようになったのは、入学して一週間が経った頃のことである。
人見知りを発揮した紫乃は、一週間が経っても友達の一人もできず、昼休みも窓際の席に座って読書をしていた。
そんなとき、教室の後ろから騒がしい声が聞こえてきて振り返ると、性悪陽キャ男に絡まれている前髪長めの地味男が目に入った。
とはいえ、紫乃も黒髪に分厚い底の黒縁眼鏡をしており、前髪も長くて見た目だけでいったら地味男と大差ない。
むしろ高校生としてはこれが普通だとも思うが、この学校の生徒は妙に洒落っ気がありキラキラしているのである。
で、どうやら地味男は机に置いていた持参のおしるこを盛大にこぼしたようで、それが性悪陽キャ男の脚にかかり口論になっていたらしい。
紫乃を含め、「なぜ、おしるこ?」とは思ったが、それよりも事態が悪い方向に進んでいることに嫌な汗が出た。
「てめぇ、どうしてくれんだよ!」
「……立ち上がろうとしたら、消しゴムが落ちているのに気づかなかった。それで、体勢を崩し」
「んなことどうでもいいんだよ! 脚はあちーし、制服は汚れてるし、治療費とクリーニング代合わせて10万払えや」
そのとき紫乃は、心の中で「あ」と声を出していた。
おしるこ男子が踏んだという消しゴムが、昼休み前の授業で無くしたと思っていた紫乃のものだったからである。
なんだか凄まじい罪悪感が押し寄せ、さらに背中には汗が滲んだ。
(私の消しゴムがあの位置に転がっていなければ……)
今さら悔いても遅い。
思い悩んでいると、さらに大きな声が教室中に響く。
「おい、話聞いてんのかよ! モサ男が!」
自分よりも背の高い地味男に掴みかかろうとする性悪陽キャ男が目に入った瞬間、紫乃は動いた。
「10万は……さすがに、ぼったくり過ぎじゃないですか……」
なんとも弱々しい、震えた声だった。
自分の声だというのに聞いていて恥ずかしさに見舞われる中、紫乃は掴みかかろうとしていた性悪陽キャ男の腕を掴む。
「はあ? なに、お前」
紫乃を目に映した瞬間、明らかな嘲笑が相手からこぼれた。
「なになに? なんなの? まさかこのモサ男くんとデキてる感じ? なあなあ、地味子ちゃん」
注目の対象が紫乃に移る。
紫乃は心の中で「やってしまった」と頭を抱えた。
自分の落とした消しゴムが元凶でという、ちょっとした罪の意識と正義感が出たばかりに、こんなことになってしまった。
人見知りはするし、気弱だし、引っ込み思案だという自覚は紫乃にもあった。
けれど、それに反して誰かが困っていたり、傷つけられそうになっていたりすると、後先考えずに体が勝手に動いてしまうことが多々あった。
それは無邪気だった幼い頃に、魔法少女やヒーローといった特殊な力を持つ存在に憧れていた結果なのかもしれない。
今回は消しゴムのことがあったものの、紫乃にはこうして、たまに自ら面倒ごとに突っ込んでしまう癖のようなものがあった。
(あーあ……私の高校生活……)
結局、クラスで一番のカースト上位のグループに目をつけられた紫乃は、お願いと称してパシリ要員にされてしまったのである。
それから二週間、購買と教室を何往復したかわからない。
ちなみにあの「おしるこ男子」は、紫乃がパシリ認定された次の日から一度も学校には来ていなかった。
***
学校でのことも悩みのひとつだが、それよりも紫乃には重大な問題があった。
「また、濃くなってる。どうして?」
自宅の洗面台の鏡をじっと見つめて、紫乃は執拗に瞳の色を確かめていた。
小さいころは、たしかに目の色は真っ黒だった。
それなのに気がついたら徐々に紫色に変わり始めていて、今では黒よりも紫みのほうが強くなってしまっている。
調べたところ目の色というのは後天的に変わることはないらしい。それなのに年々、鮮やかな紫に色づいていく現象に恐怖を感じた。
眼科に行っても原因不明といわれ、その他に身体的な影響はないものの、周りに紫の瞳をもつ人はいない。
カラーコンタクトと言い張るには色合いが恐ろしく鮮やかで、妙に惹き付けられる。悪目立ちしないように黒いカラコンを装着しようとしたときもあったが、体質的に合わず粘膜が腫れてしまったので早々に諦めた。
そのため紫乃は、なるべく瞳を晒さないように学校ではぶ厚い眼鏡をかけて過ごしていた。
「ふー……」
自宅マンションは都内唯一の中核市、八王子。
賑やかな駅前から五分ほどの距離にある。
部屋のベランダから外を一望する紫乃の視界には、幾人もの浮遊者が飛んでいる。
(いいな。私にも、お兄ちゃんみたいに魔法の素質があったらよかった)
10年前、紫乃が五歳の頃。
日本の太平洋側に落ちた隕石によって世界は大きく変わった。
魔物、魔獣といったファンタジー的要素満載な生き物が至るところに蔓延るようになり、それに伴い魔法士の存在が確立されたのだ。
魔法士とは、窒素や酸素、アルゴンといった大気物質に混じって発生する「魔素」を用いて魔法現象を操る人々の呼称だった。
さらに区別すると、男性なら魔法使い、女性なら魔女と括る場合もある。
専用の魔法具を身につけることにより、水や炎、風や雷、その他にも色々な魔法を発現させることができた。
元々は隕石落下後に現れた「ポロネス大陸国」の民だけが扱える御業のようなものだったが、地球に魔素が溢れるようになってから現代人にも魔法の素質ある者が誕生するようになった。
紫乃の兄、燈真もそれに該当する。
そして現在は魔法士のいろはを学ぶために、ポロネス大陸国首都にあるポロネス魔法士アカデミーに留学中であった。
残念ながら紫乃には兄のような魔才はなく、日本で寂しく暮らしている。
両親はとっくの昔に離婚済み。
父親が兄の、母親が紫乃の親権を握っている。
お互い経営者ということもあって衣食住に困ることはないものの、多忙な母親が帰宅することはなく、広いマンションで一人きりだった。
(空を飛べたら、楽しいだろうなぁ……)
絨毯や箒で自由に浮遊する魔法士たちを見て、いつも羨ましく思う。鬱蒼としてしまう気持ちも、空を自在に飛べれば晴れる気がする。
今日も今日とて紫乃がぼんやりと夕日と浮遊者を眺めていると、部屋着のポケットに入れていたスマホが「ミョン」と鳴った。
確認すると、ポロネス魔法士アカデミーにいる兄からの通知だった。
《とーま兄:紫乃、もう夕飯は食べたか? 風呂は? 歯磨きは? そっちはまだ肌寒いだろうからあったかくしろよ! 高校はどうだ? 友だちは焦って作るもんじゃないからな、ゆっくり合いそうなやつを見つけてもいいし、無理につるむ必要なんてねーぞ。それと、同級生とか上級生にちょっかい出されてないか? さっきネットニュースで学校でのトラブルってやつがトレンド入りしてて焦ったよ。もし変な言いがかりとかパシリなんてさせられたら兄ちゃんに言うんだぞ、すぐにでもそっちに戻って……いやそんなことよりも紫乃は可愛いからな。ストーカーとか不審者に気をつけて、なんかあったときは迷わず足を――』
その後も兄の長文は続いている。
最後に《今夜から一週間ぐらいギルドの依頼で首都を離れるから、スマホが使えない(ぴえんマーク)。誕生日プレゼントは先に送っておいたからな。当日の夜頃マンションに届くはずだ》と締めくくってあった。
スマホの電波がポロネスの首都に入るようになったのは最近で、それまでは手紙でやり取りをしていた。
スマホでメッセージを送れるといっても日によってばらつきがあり、電話もまだ繋がらない状態だが、それでも10年前よりはマシになったらしい。
ご覧の通り、兄は妹の紫乃に関してはかなりの心配性である。
実際パシリをさせられているなどと言えば本当に海を越えて飛んできかねないので、学校でのことは秘密にしていた。
兄の長すぎるメッセージを見ていると、紫乃は心を強く保てる。どうやらアカデミーでも優秀な成績を残しているという燈真は、紫乃にとって自慢の兄だった。
(ギルドで依頼だって、燈真兄はファンタジーのど真ん中を生きているなぁ)
そうして紫乃は兄にメッセージを送り返す。
今日は電波の調子がいいらしく、すんなり感謝スタンプが押せた。
(……誕生日、もう明後日なんだ)
瞳の色の話は兄にもしていた。
けれど紫乃には、もう一つ誰にも言えていない心の内がある。
それは、誕生日を迎える毎に強まっていく心の違和感のようなもの。
昔から漠然と、自分は本当に自分なのかと疑問を感じることがあった。
なにか忘れてしまっているような、大切なものをすんでのところで思い出せない気持ちの悪さ。
これが一体なんなのかわからないが、以前こっそりネット掲示板の『ぐるぐる知恵袋』で投稿してみたところ――
《うわでたでた〜、現代魔法史が浸透し始めてから、こういう輩増えたよな。自分が何者か迷走しちゃうやつ》
《懐かしい。右手や右目が疼いたりしてる? 大丈夫、魔才がないなら一昔前に流行った中二病の類だと思われるから》
《多感な年頃だとある種陥りやすいものだから自然に治まるのを待て》
という回答が返ってきた。
自分以外にもいるんだ、という安心感と、あまり人前では言わないほうがいいという助言から、今まで自分の中でのみ解決していた事象だったものの。
(高校生になってもこれって、いつまで続くんだろう)
自然に治まるどころか、さらに焦燥感のようなものが生まれているので紫乃は困っていた。
誕生日は目前だ。
もし、それを過ぎても治まる気配がなかったら、今度は兄に相談しようと紫乃は決めた。
アカデミーに通う兄ならば、なにか原因を知っているかもしれないという希望を持って。
***
二日後の金曜日。
今日は紫乃の16歳の誕生日だ。
夜中に母親から「お誕生日おめでとう」という簡素なメッセージと、父親からのギフトメール以外はいつもと変わりない朝。
(誕生日なんだし、ちょっと髪を巻いてみる?)
姿見の前に立つ紫乃は、すでに制服を着ている。
学校では友だちゼロの寂しい状況だが、紫乃も年頃の少女なのでオシャレやメイクには興味があった。
(やっぱりやめよ、いつも通りでいいや)
しかし、いつも一歩踏み出せずに考えるだけで終わってしまう。
ため息を吐きながら髪を梳かし、結局ヘアオイルだけを塗る。最後に伊達メガネをつけて学校へ向かった。
二限目は現代魔法史の授業。外来の魔法士が授業をすることになっていた。
しかもポロネス大陸国から派遣された本場の魔法士ということでクラス中がいきり立つ中、教壇に立ったのはにっこりと笑みを浮かべた若い青年魔法士だった。
「なーんだ〜、えろい魔女とか期待してたのに男かよ」
いつも紫乃をパシっている陽キャ男がゲラゲラと笑いながら言った。
「でも、めっちゃかっこよくない!?」
「背高っ、足長っ、モデル並じゃんっ」
魔法士のローブを纏う青年の顔立ちに色めき立つ女子生徒たち。そして面白くなさそうな様子でいるのは、陽キャ男たちである。
「こんにちは。今回の授業を担当するエデン・ローザンドです。よろしくお願いしますね」
「はーい、エデン先生〜! 彼女いますかぁ?」
「彼女というより、婚約者がいます」
「婚約者ぁ!? 先生、いくつなの!?」
「今年で24歳になります」
「まだわけーじゃん! じゃあ婚約者とよろしくやってるわけだ」
「……」
エデン講師の返答にクラスメイトは面白おかしくざわついていた。
これでは授業が始められそうにないと、後ろで見学している担任や学年主任が頭を悩ませていた時である。
突然、教室内の光だけが、すべて消えた。
「きゃああっ!」
「え、なに!?」
「おい、なんで真っ暗なんだよ!」
そう、教室の光という光が消えたことにより、暗闇だけが広がっていたのだ。
取り付けられた窓や、廊下側の窓に目を向けると、縁取るようにある枠の外の景色が窺える。
しかし、教室内は依然として変わらず闇だった。
「はい、みなさん静粛に」
クラスメイトたちが光を求めて廊下に避難しようとした瞬間、暗闇から元の教室の風景が戻る。
教壇に立つエデン講師はにこやかに笑みを称え、人差し指には小さな魔法陣が浮かんでいた。そして、呆然とするクラスメイトたちにさらりと言ってのける。
「今のが、闇魔法です。僕は光と闇の属性を得意とする魔法士なので、挨拶程度に披露しました。そこの君、もう怖がることはないので席に着きましょうね? ああ、それともお手洗いですか」
「ああっ? ちげぇよ!」
一目散に廊下へ逃げようとしていた陽キャ男は、顔を真っ赤にして椅子に座り直す。
ほかのクラスメイトたちもようやく落ち着いたのか、各々席に戻っていく。ちなみに紫乃はその場でじっとしていた。兄から光消しの魔法は聞いていたので、もしかしたらそうかもしれないと思っていたのである。
「静かになったところで、授業を始めましょう。えー、本日は"現代社会のストレスと瘴気の関連性について"ですね」
先ほどの騒ぎが嘘のように静かに進められる授業に、ほとんどの生徒が釘付けになっていく。
紫乃も同じく、エデン講師の講義に耳を傾けた。
「この地球という場所は科学技術も高度に発達し、便利で快適な生活が実現しているわけですが、ストレス社会とも呼ばれています。競争社会、管理社会……君たちがこれから味わうであろういや〜な現実ですね」
あはは、と笑うエデン講師だが、聞く側からすればあまり笑えたものではない。
「ストレスとは様々な要因で引き起こされますが、もちろん集団生活を行っている君たち生徒も日々ストレスを蓄積しています。そして、ストレスから引き起こされる現象が――瘴気です」
エデン講師は、教卓の上にとある器具を置いた。
「こちらは魔導具と呼ばれるものです。この魔導具の中には、少量の瘴気を閉じ込めてあります」
魔導具の中には、霧を黒く染め上げたような「瘴気」があった。
教室中から、生唾を飲むような音が聞こえる。
普段瘴気というのは魔法が使えない者には見えず、魔素を取り込んで視力補助を行える魔法士だけが見えるものだった。
しかしエデン講師が持つ魔導具には、一般人でも瘴気を視界に捉える機能があるらしく、皆新鮮な反応をしていた。
「いわゆる"悪い空気"というもので、排気ガスとはまた違いますが、これは人々の精神に大きく干渉し、酷い場合は廃人になったりします」
さらには、とエデン講師は付け加える。
「瘴気が一箇所に密集すると、裂け目となり魔物や魔獣が現れ、これが瘴気ゲートになります。瘴気ゲートまでになると一般人でも目視可能になり、街中に出現する魔の生き物は、大抵が瘴気ゲートを渡ってきたものたちですね」
ストレスによる悪影響な空気は、大気中の魔素が染まりやすい。そして染まった魔素が瘴気となり、さらなる被害に繋がる。
「瘴気は多く発生する前に消さなければいけません。そして瘴気を消す行為を『浄化』といい、これができるのは魔法士の中でもさらに限られた人間だけです。あ、僕も少しなら浄化魔法が使えますよ。多すぎると逆に取り込まれてしまうので見極めは大切です」
授業はストレスと瘴気の関連性から、次の話題に移る。
「もし街中で瘴気ゲートが現れたら、速やかに浄化魔法を扱える近くの魔法士に報せましょう。浄化魔法が使えるか使えないかの区別は、このブローチでわかります」
そうしてエデン講師がローブに取り付けたブローチを皆に見せた。
魔法を司る者の頂点であり、全魔法士の最終目標ともなるのが『魔総師』。
その下には数多くの魔法士が連ねるわけだが、一括りに魔法士といっても、それぞれ階級があった。
一番下が九級位……これは魔法士アカデミーに入学した者が、初めに与えられる位。アカデミーの生徒は卒業までに、この数字階級の上位である一級位になることが規定として決められている。
そして九から一まで上がると、次は色によって分かれる。
それを
「僕は緑色の水晶石なので、
防災訓練と同じく、瘴気ゲートが出現した際の訓練は小学校低学年から何度か行っている。
紫乃はぼんやりと当時のことを思い出しながら、授業内容をノートに書き記した。
カッ、カッ、とひとりでにチョークが動いている様は奇妙であるが、これも魔法なのだと好奇心を押し込める。
「ここまでで、なにか質問はありますか?」
「エデン先生、じゃあ魔総師が紫水晶で一番強いってことでいいんですか?」
どこからか飛んできた問いに、エデン講師の動きが一瞬止まった。
「……それは少し、語弊がありますね」
ふと、黒板のチョークが方向を変えて、ある文字を書き始めた。
口を閉ざしたエデン講師は、その文字を見つめて目を細める。
「――紫の魔女?」
誰かが、ぽつりとつぶやいた。
記号のようなポロネス大陸国の文字の横には、読み仮名が書かれていたので難なく読むことができたものの、紫乃は目が離せなくなった。
「もともと紫水晶とは、ある一人の魔女にのみ贈られた特別称号でした。その魔女は短期間のうちに魔法文明の礎を築き、さらなる魔法の発展を追い求めたお方です。その方の尊称が"紫の魔女"といいます」
生徒たちは「へえー」と聞いていたが、紫乃は原因不明の胸騒ぎが治まらず、ぎゅっと胸元を押さえ込んだ。
「"紫の魔女"は亡くなり、その後に魔総帥が紫水晶となりましたが、現総帥と"紫の魔女"の実力には雲泥の差があると思います」
「つまり、その"紫の魔女"が一番強かったってこと?」
「……そうなりますね」
エデン講師は少しだけ嬉しそうに笑んだ。
(紫の魔女、紫の魔女……どうして、こんなに気になるんだろう)
自分の目の色が紫になりつつあるから妙に意識してしまうのかもしれない。
結局、急にやってきた胸騒ぎはなかなか治まらず、紫乃は授業が終了するまで耐え続けた。
「そこの君、どうかしましたか?」
授業後、堪らず席を立った紫乃は、階段付近でエデン講師に呼び止められた。
彼は不思議そうに首を傾げて、こちらに近寄ってくる。
「先ほどのクラスの生徒さんですよね。熱心にノートを取ってくれていたので覚えています。途中から様子が少しおかしかったような気がしましたが、もしかしてどこか具合でも……」
「な、なにも……! 大丈夫です!」
背の高いエデン講師が紫乃の顔色を覗き込もうとしたところで、慌てて首を反対方向に動かした。
勢い余って伊達メガネははずれ、音を立てながら階段下まで落ちていく。それすら今は気にならず、紫乃は下を向いたまま走り出す。
「わ、私、今日は早退します!」
「え、それ僕に言われても――」
唖然としたエデン講師の言葉を背に、紫乃は胸を押さえて学校を飛び出した。
***
紫乃は通学鞄も持たずに電車に乗り込んだ。幸いモバイル定期だったのでブレザーのポケットにあるスマホで帰路についたが、部屋のベッドで横になっても体調は変わらなかった。
治まるどころか肌は熱くなり、呼吸も疎かになっていく。
(頭、痛いっ……苦しい、熱い。どうしよう、これ、救急車呼んだほうが――)
紫乃が枕元に投げたスマホに手を伸ばそうと動いた瞬間だった。
『その紫の魔女って呼び名、なんだが慣れないなぁ』
『あーあ、この浄化が終わったらのんびり旅でもしたい。美味しいものを食べて、観光地行って、それで遊んだり』
『これを聖女だけの力にする? 教団の都合で? 確かに魔法技術は魔法陣の展開を中心に発展しているけど、精霊魔法があれば』
『そんなに、許せない? だからって、』
ぱちっと、紫乃は大きく目を開き、そして声をあげた。
「殺すとかありえないんですけど――!!!」
***
紫乃は思い出していた。
ずっと思い出すことができなかった、自分の記憶について。
これはいわゆる一つ前の人生――『前世』というものだと、記憶をゆっくり巡らせながら結論づけた。
紫乃の前世は、バイオレットという名前の魔女だった。
異世界――ポロネス大陸国の孤児として生まれ、紫の髪と目をしていたのでいつの間にかバイオレットと呼ばれていた。
バイオレットは魔法の才に溢れていた。次々とオリジナル魔法を編み出し、たった十数年で魔法文明を発展させた彼女は、いつしか『紫の魔女』と敬われ、多くの弟子たちを抱える立場になった。
やがて瘴気に関する研究に力を入れ始め、バイオレットは通常の魔法よりもさらに効果のある魔法があることに気がついた。
そしてそれは、瘴気をより浄化させることができる魔法でもあった。その魔法こそ『精霊魔法』といって、精霊と意識を共鳴させることにより、イメージを伝えて魔法を発現する方法だった。
魔法陣の展開がない精霊魔法は、発動速度もさらに上がり、なおかつ瘴気の浄化に適したものだった。
誰でも簡単に精霊魔法が扱えるわけではないが、バイオレットやその弟子たち数人なら十分に出来うる魔法だった。精霊魔法があれば世界中にいる瘴気に脅かされる人々を助けられるかもしれない。
そんな希望を胸に提案した精霊魔法は、とある教団によって一蹴されることになる。
聖女という古来に存在した女人を信仰する聖女教団。彼らの拠点をポロネス大陸国の西側にあり、街に住む民は信徒という特殊な集団だった。
聖女は国内、国外から特別視される存在であり、聖女が扱う浄化魔法は神のみわざとして称えられていた。
聖女の浄化魔法の正体こそが精霊魔法で、それを暴く形となったバイオレットは、教団から目をつけられてしまったのだ。
結果的にバイオレットは教団に消された。
聖女の尊厳を保つことを使命とした信徒たちによって。
拘束されて殺される瞬間、バイオレットの心に浮かんだ感情は、恐怖や憎しみよりも、失望感が勝った。
この時のバイオレットは齢16。あまりにも短い生涯であった。
***
「……いくら教団以外には知られたくない魔法だったからって、殺すとかどうかしてるでしょ」
ぼんやりと部屋の天井を見つめる紫乃は、バイオレットだったときのことを思い出して苦笑する。
死ぬ間際のことはあまり思い出したくない。
嫌な記憶を振り払うように起き上がり、紫乃が向かったのは姿見の前である。
「もう、完全に染まってる」
今朝までは気持ち程度にあった瞳の黒も、今はすべてなくなって美しい紫に変わっている。
まるで前世のバイオレットの色をそのまま閉じ込めたような、懐かしくもある色だった。
(通りでずっと心がモヤモヤするはずだよ。私の心の半分が覚醒していなかったんだから)
もう、おかしな焦燥感はない。
気分はすっきりしていて爽快だった。あれだけあった胸騒ぎや息苦しさ、頭の痛みも消えている。
(最後の瞬間は結構覚えているけど、その他は案外薄いな。生い立ちはなんとなく残ってて……うーん、友だちとか弟子の顔は全く出てこないし、印象的な思い出もない)
それはおそらく、主体となる人生がすでに紫乃となっているからだろう。
(仕方ない、ひとまず諦めよう。前世の私を思い出しただけでもありがたいんだから)
紫乃はひたすら転げ回って皺になっていた制服のシャツを脱ぎ、部屋着に着替えた。
喉が渇いたのでリビングで水を飲もうとしたところで、インターホンが鳴る。宅配業者だった。
「重っ……燈真兄、こんなに何を送って……」
まさに兄の愛の重さ。ダンボール箱はありえない重量である。
中身を確認すると、化粧品や雑貨、小物が入っていた。
まるでオシャレに興味があった紫乃の気持ちを見越したような選択で逆に怖い。
箱の一番奥には、ほんのりと魔素の気配がある装飾箱が置かれていた。見たところポロネス大陸国で製造されたもののようだ。
「あ、これ!」
紫乃は声を弾ませた。
装飾箱にはブレスレット型の魔法具が入っており、一緒に添えられたメッセージカードに『お守りにもなるらしいから、これも誕生日プレゼントだ』と兄の字で書かれていた。
「燈真兄、ありがとう!!」
紫乃は装飾箱ごとぎゅっと抱きしめてにこにこ笑う。
その後、魔法具ブレスレットを手首に掛けて、ゆっくりと魔素を感じた。
「やっぱり空飛ぶのって、気持ちいい〜!」
場所は移り変わり、紫乃は空の上にいる。
いてもたってもいられず、兄から貰った魔法具を使ってさっそく空を飛ぶことにしたのだ。
魔導具に分類される魔法の絨毯や箒はないので、紫乃は部屋の丸いカーペットを代用した。
久しぶりの魔法なのでどうだろうと思ったけれど、感覚を思い出せば結構簡単に浮遊はできた。
「これこれ、やっぱりこうでなくっちゃねー!」
気分はどんどん上がって声も大きくなる。途中ですれ違った浮遊者からも変な目で見られはしたが、全く気にならなかった。
「こらー、そこの君! スピード出しすぎ!」
ふと、後ろから声がして振り返る。
箒に乗った警備隊が顰めた表情で近づいてくるのがわかり、紫乃はハッと我に返った。
(そうだ、空の警備隊がこうして巡回しているんだっけ! まずいまずい、今止まったら浮遊許可証を見せてって言われる!)
空を浮遊するには魔法士機関が発行する浮遊許可証がいる。つまり運転免許証と同じ役割なのだが、もちろん紫乃は持っていない。
捕まれば都内の魔法士機関支部に連行された挙句、警察署に行って事情聴取されるだろう。
未だに魔法の規定には曖昧なものが多く、浮遊許可証がなくても法律に触れたりはしていないが、補導されるのは面倒である。
(それにお母さんは、あんまり魔法士とかをよく思っていないというか……気味悪がってたし、まだ知られるのは……)
実をいうと、両親の離婚は兄に魔法の才能が発覚したことも原因の一つだった。紫乃の母親は当時よくわからない魔法の力を持つ燈真を恐れたのだ。
(ということで、ここは退散)
紫乃は上空の指定浮遊距離に気をつけながら公園の上を飛び回り、警備隊の目からなんとか逃れる。
急いで自宅マンションに戻ると、その日は久しぶりに魔法を使ったこともあり、カーペットの上で寝落ちしてしまった。
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