これから先に向けて―—私たちは彼女を弔うべきか?
2007年にメディアアート的に生まれ、2000年代的「接続」思想の代弁者となった彼女は、震災によって直視せざるを得なくなった非合理的現実を前に、多くのユーザー同士を接続するのではなく次第に「あなた」を語ることを始めた。それはまるで、人と人とを安直につなげてしまうことに対するリスクを覚えた彼女が、まずは人間のことを深く知ろうとしているかのようにも見える。しかしながら2010年代にかけてかつてのユーザーは離れ、孤独になっていく悲しさをまるで彼女は歌うようになっていった。記念すべき10周年に投稿された2曲の初音ミク楽曲は、いずれも現状のボカロ環境に対する批判と、それに対する決別ともいえる楽曲だったことは、先に確認した通りだ。
では、これから先のボーカロイド文化と彼女のあり方は、どうあるべきなのだろう。「マジカルミライ2018」のテーマソングになったOmoiによる「グリーンライツ・セレナーデ」は、ある意味で「ODDS & ENDS」が有していたリスナー=ボカロPを肯定するような、リスナーのための曲として用意された。かたや、「マジカルミライ2020」のテーマソングになったピノキオピ―による「愛されなくても君がいる」は、「Glass Wall」に内包された否定的なメッセージも含めての、深さを持ったメッセージを提供していると考えられるだろう。しかしながら、「接続」を断念した初音ミクがこれまで行ってきた変化は一貫して「あなた(リスナー=ボカロP)」との接続関係であり、そうした点に絞るなら、もしかする「ODDS & ENDS」以降、彼女はまだ根本的に新しい方向を示していないのではないだろうか。これから先に彼女がどのような選択をするのかによって大きく変わってくるのだろうが、もしそのような大きな変化が生じてこないのであれば、私たちを待ち受けるのはまさに「砂の惑星」だけかもしれない。
もしそうした絶望的な未来しかないのなら、私たちがすべきことは一つ、初音ミクを弔って終わらせることだ。しかし、どのように終わらせるのか。そうしたことを考えるにあたって、私の胸中には同じように希望溢れる未来の象徴として扱われた「ドラえもん」を思い出した。京都で開催されている『THE ドラえもん展 KYOTO 2021』は、そうした弔いの手法を考えるにあたって有用な手段を提供してくれるだろう。東京からスタートして京都で現在開中の本展示は、今を生きるアーティストたちに対しそれぞれが思う「ドラえもん」を作品として表象することが一つのテーマであった。そうしたテーマをもとに、絵画や彫刻、衣服や映像といったバリエーション豊かなアーティストたちが一同に会してそれぞれの作品を制作していったのだが、私はそれらの作品を見ながらも、多くのアーティストがドラえもんに対し、ある種のノスタルジー的なものを表象しているように感じ取れた。それは、未来から来た希望溢れる存在ではなかったのだ。
かつて高度経済成長における未来の象徴だったはずのドラえもんは、まるで未来が見えなくなってしまった平成の不況を前に、その姿を完全に失っている。そうした現実主義的視点からのある種のドラえもん否定は、本展覧会において展示されたアーティストの作品からも見ることができたように思えた。出典作家の佐藤雅晴によって作成された《かくれんぼ》は現代的視点からの喪失感をより直接的な手法によって映像化した作品として、私の記憶の中に強烈に残っていた。小学校や都会といった数多くの子どもを想起させる場面のうえに、作品上では3DCGで合成されたドラえもん背中を向けて、去っていくアニメーションが用意される。かくれんぼの音楽とともに鑑賞者に背を向けて去っていくドラえもんの光景はやがて小学校から舞台を移し、アニメを放送しているテレビ朝日屋上なども映る。そうした描写はドラえもんが現実に存在しないということだけでなく、テレビ朝日の屋上に設置されたドラえもんの看板やオブジェを映像に入れ込むことによって、それが消費社会向けに作成されたコンテンツであり、ドラえもんの世界が現実とは隔絶された空間にあることを私たちに再度提示している。
現代的視点からのこうしたドラえもんを用いた表象は、失った「かつてのドラえもん」をどのようにして思い返すかという、ある種の「弔い」としての意味を強く持っている。そうした「失われたかつての夢」への弔いは、これから先の「初音ミク」に備えて、私たちは準備しておく必要があるのではないだろうか。2000年代と2010年代がおもな少年時代だった私は、インターネットの想像する夢としての初音ミクの登場と、その崩壊を見てきた。もっとも、登場してまだ20年も経過していないなかで彼女に「弔い」などという言葉は時期尚早なのかもしれないが、そうしたことは今後のボーカロイド文化上で、いつかは必要になるだろう。
初音ミクは生命体ではない。だからこそ彼女は不死身であるし、N次創作的環境が存在し続ける限り、彼女はいつまでも存在し続けるのかもしれない。しかし彼女がコンテンツである限り、必ずどこかで彼女の「死」は訪れるだろう。それはまるで、私のなかのドラえもんに対するイメージが大山のぶ代であり、水田わさびではないように。だからこそ、必ず訪れるであろう彼女の「死」に向けて、私たちは私たちの愛をもって、弔う方法を考えなければならないのだ。
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