ただただ世界を旅したい
百日紅
第1話 景色
ある日、俺は夢を見た。
……いや、寝ている時に見たんで夢だと思うんだが、夢にしては妙にはっきりとしている。5年経った今でも克明に思い出せるその記憶は、人生を一変させるほどのインパクトを当時の俺に与えた。
それは世界を旅する夢。
自然の威容を感じずにはいられない山頂からの絶景、怒濤の勢いで降り落ちる大迫力の滝、神秘的な雰囲気が漂う霞がかった森。そのどれもが魅力的で、驚異的で、素晴らしかった。行ってみたくなった。
俺の心の奥底に眠っていた冒険心は奮え上がり、ベッドから起き上がった俺は家から飛び出し、にわかに明るくなり始めた道をひた走る。そして、近場にある海の堤防、その上へと辿り着いた。
その時、ただ海を見た。
いつもより早く起きたにも関わらず、不思議とはっきりとした頭で考えていたのは、昨日見た風景の記憶。俺の実家は海にほど近く、登下校は海岸沿いを歩くのが日常だった。だがしかし、意識の有無とはかくも大きく、日々の情景に溶け込んでしまった状況は、俺の心になんの感動も与えない。
つまりは海を見ても何にも思わなかった訳だ。今からすれば何とももったいない話だが、その日は違った。
俺の心に植え付けられた夢の景色は世界の美しさに対する期待を爆上げさせ、次に発生するであろう感動を爆発させるべくブーストをかけていた。
その時ただ海を見た。未だほの暗い空、黒い海。波が堤防に打ち付けられる音を聞きながら、汗をかいた体に爽やかな風を受ける。海の香りを感じながら、俺は言った。
「やべぇ」
死ぬ。俺の語彙じゃ言い表せないような感情が脳と心を満たしている。なんと言うか、今まで感じなかった情報が一気に流れ込んできたことによって、何らかのリミッターを超えてしまった感覚。
海や空の広さだったりだとか、鼻腔をくすぐるこの匂いだったりだとか、この心落ち着くような音だったりだとか。今まで意識していなかった感覚と知識を得た事によって、世界の神秘を実感している。
夢で見た景色とはスケールが違うが、そんなことは関係がない。世界に対する意識が変わるだけで、ありふれた景色はこんなにも煌めく。
自分でも何を考えてるか分かんないが、俺はその瞬間そう感じた。
そんな取り留めのない思考をしていると、空が段々と白んでくる。太陽の御降臨だ。こうなればいやが上にも期待は高まる。
堤防の縁に腰掛け、今か今かとその瞬間を待ち続け、きた。
空に光が差す。思わず目を細めた俺は、少しの情報も見逃すまいと神経を集中させる。
太陽が登る。海に光の道ができる。世界がどんどんと明るくなり、空が赤に染め上がっていく。
顔に風を受けて無意識に肺が空気を入れ始め、体の中に溜まっていた何かが抜けていくようなヘドロ混じりの息が口を出る。循環した酸素を受け取った脳が更に集中し、一時も見逃さないように、脳に焼き付けるように見続けた。
どんな時でも思い出せるように。
集中にベクトルが行き過ぎたせいで思考を忘れてしまった俺は、完全に日が昇って釣り竿を持ったおっさんが声を掛けてくれるまで海を見続けていた。人間としての思考能力が戻った俺は、純粋に思った。
ああ、今日は最高の日だ。新しい世界の見方を見つけた。新しい趣味を見つけた。新しい未来が開けた。
この日見た朝日を、俺は忘れないだろう。
そして、5年経った今。日本一周の帰り道、俺は実家からちょっと遠い場所にある海のベンチに座っていた。時刻は夜明け、眼前に広がる海に微かに雲がそよぐ空。登る太陽はまるであの日のよう。
唯一違うは俺。あの日から旅をするようになって、知識も経験も増えた。もちろん自然に対する姿勢も違う、膨大な情報を受け取れるように気を尖らせ、その集中力で全てを余すところなく堪能する。
そうやって旅を続けてきたわけだ。ましてや今日は思い出の場所に近く時間も同じ。更にはコーヒーを飲んでバフまで付けるおまけ付き。
そんな場所で、成長した俺は……
「ーーーーーーーー」
死んでいた。
ベンチの背もたれに腕を回し、全身の力が抜けた状態。微かに開いた目は太陽の眩しさと、単純なるまぶたの重さの二重苦に晒されていた。辛い。なんか嗅覚も鈍ってる気がする。辛い。
何か、肉体が朽ちていっているのを感じる。
一応言っておくが、本当に死んでいる訳では無い。家の近くまで来たため疲れた体に鞭打って早起きし、朝日を見た事によって生きた屍へと堕ちてしまっただけだ。なんの強化も受けていないどころか、むしろデバフがかかってしまっているヴァンパイアと言ったところか。存在価値ある?
初めてこの景色を見た時は心身ともに元気だった。何かすごい量の情報得て、すごい量の感動をしていた気がする。最高のパフォーマンスだった。
今?五感は鈍って情報の処理は遅くて、正直寝たい……と言いたいところだが。
「……綺麗だなぁ」
それでも感動の方が勝っていた。睡眠欲+疲労のダブルパンチにも打ち勝てる、自分の思い出に我ながら驚いている。
光を直視しないよう目を細め、世界を煌々と照らす太陽と黄金に煌めく海を見ていると、精神まで朽ち果てそうになる。身も心も崩れたら、正真正銘の屍になっちまうな。ははは。
日本一周を経て、少しは
そんなくだらないことを考えていても、太陽は平等に世界を照らしていく。海の表面が波に合わせて光を反射し、目を通して脳に感動を与える。低く薄い雲が光を反射して、橙色に自らを変色させる。そんな景色を夢中で見続ける。
父さんなら煙草でも吸い始めるんだろうが、生憎健康志向なもんで嗜んでいない。
母さんなら写真でも撮り始めるんだろうが、生憎刹那志向なもんでこの瞬間を見逃したくない。
同じ旅好きでも、違う楽しみ方を持つ両親のことを考えていると……無性に家に帰りたくなった。なんせここ2ヶ月くらい会ってない。ちょくちょく連絡はしているが、超能力が使える少年じゃないんだから、電話でホームシックは治らない。さっさと帰って母さんにハンバーグでも作ってもらおう。
「よっし……帰るか」
そこそこの高さまで昇った太陽から目を切り、ベンチから立ち上がってバイクへと向かう。
ようやくカフェインが効いてきた頭で家までの経路を考えながら、中身の入っていない黒い缶をゴミ箱に入れた。
掛けておいたヘルメットを被ってバイクに跨り、慣れた手付き(脚付き?)でキックスタートを切ってエンジンを掛け、心地よい振動が体に響くのを感じながら帰路についた。
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