7話 恋



「なんか……見間違いじゃなければ」

「めっちゃ降ってるね」

 そして僕たちの顔色も真っ白になり始めていた。


 図書館二階のカラフルな壁掛け時計は、その長い腕と短い腕で信じがたい時刻を指していた。冬の日は短いというフレーズを見かけたことがあるけれど、そういうことだろうか。すっかり夕方の入り口。アナログ式の時計だから、と一縷の望みをかけてみたいところだけど、残念ながら恐ろしく精巧に作られているらしく、他のものと比べても全く時刻の狂いはない。


 なのに、奇妙なくらいに視界は明るかった。室内灯がやっと点いたからというわけじゃない。ずっと停電したままで、むしろ部屋の中は薄暗くなり始めている。なのに窓際のこのスペースだけが、思わず目を細めてしまうくらいに眩しい。


 雪が、積もっているから。

 かなりまとまった量で、一面がまるで違った景色に見えるくらいに。


 一応、と思って僕はARグラスを外す。彼女がいたずらでこういう景色を見せている可能性もある。なかった。かけ直す。雪は降っている。現実として。


「ていうか、停電も全然直ってないけど。すぐ直るって言ってなかった?」

「誰が?」

「僕が?」


 私が言いました、と彼女は看板を掲げた。それから「うーん」と口元に手を当てて、周囲を見渡す。別に何が見つかるわけでもなかっただろうけど、そうして、


「降りすぎてこっちまで手が回ってないっぽいね。物理工作機械って、そんなに数があるわけじゃないから」


 このあたりは居住区画から離れ気味だから復旧遅いかも、と彼女は言う。なんだか色々曖昧に思えるけど、聞いているうちに、反対にその曖昧さに安心してきた。


 だって、


「じゃあ、あんまり大したことじゃないんだ」

 そういうことだろうと思ったから。


 結局、そこそこ時間がかかるというだけなんだろうと感じた。あまりにも危険ならもっと迅速に対応するはずだし、色々なコストや効率を勘案して、この不思議な空き時間が生まれているだけなんだろう。


 急いで生きるような一生でもない。

 だから、当面のところ。


「凍死しなければいいよ」

「…………」

「何、その沈黙」


 彼女が目を逸らす。胸の前で人差し指を突き合わせる。口笛を吹き始める。三秒くらい待っていると、笑ってこっちを向く。言う。あはは、冗談――


 どさっ、と何かが落ちる音がした。


「…………?」


 びっくりして振り向く。多分向こうからだった。窓の外を見る。真っ白。それ以外はわからない。聞き間違いか何かかと思うけれど、すぐさま彼女が隣に来て、


「なんか今、すごい音しなかった?」

「した」


 なんだろ、と言って額に手で庇を作る。僕も同じようにしてみるけれど、日の光と違って雪の光は下から来るから、あまり意味があるとは思えない。


「…………」

「…………」


 しばらく、ふたりで外を見つめて。


「ちょっと外、見てくるよ」

「えっ」


 結局、僕から切り出した。


「なに? 今日すごいアクティブじゃん」


 彼女が心配そうに言う。その表情を見たから思い出す。地下の閉架書庫。停電になったときに感じた不安。懸念。たぶん今も、僕は同じものを感じている。


 けれど。


「だって、しばらくここにいるんでしょ。確かめた方が安心するし」

「……まあ、そうか」


 いやそうか?と首を傾げる彼女の横で、うん、と僕は背を伸ばす。借りるつもりだった本のうちの一冊を読み終えるくらいには、長いこと座っていた。自然と歩幅が大きくなる。図書館の造りは単純で、一度歩けばもう、道案内なんてされなくてもわかる。


「いやちょいちょいちょい」

「何?」

「危ないって。冒険心どうなっちゃったの?」


 危ないかな、と僕は足を止める。止まり切らなかった彼女と肩のあたりが溶け合う。


「たとえば、どんな感じで?」

「雪の中からサメが出てくる」

「見てくる」

「危ないって~!」


 階段を下りながら話し合って、折衷案が決まった。ちょっと遠目から、ズームを使って見る。危なそうだったらすぐに隠れる。危なくなさそうだったらちょっと近付く。亀のようにゆっくりと。


「このアキレスと亀のお話をゼノンのパラドックスと言ってね。わかるかな~、この楽しさが」


 楽しいけれど、もう着いた。


 二階よりも一階の方が、不思議と薄暗く思えた。風が弱まってきたのか、さっきより静かになったように感じる。広々とした空間にはがらんと影が差して、そのほんの少しを、雪色の冷たい光が、真っ白な紙で裂いたように染めている。


「ズームして」

 声を潜めながら、彼女に囁きかける。オッケー、とあまり気乗りのしてなさそうな声で、彼女が応えてくれる。


 後になって思うと。

 彼女はもう、それよりもずっと前の時点で、何が起こったかわかっていたのかもしれない。


「……もしかして、雪?」


 勘付いたのは、二回だけ雪の降る映画を観たことがあったから。その中での描写を覚えていたから。どういう原理なのかわからないけれど、雪が突然どさっと地面に落ちていくシーン。


 屋根から落ちれば、たぶんそういう音がして。


 そして入り口の前にこんもりと積もったそれを見れば、あれがその音を出したんじゃないかと想像が付く。


「だね。たぶん」

 溜息を吐くように彼女が言う。


 がっかりと言えばがっかりだけれど。そう思いながら僕は、階段の陰から身を乗り出す。ゆっくりと近付く。もういいじゃん、と言われるかと思ったけど、言われない。


 本棚の脇を歩いている間に、僕は色々なことに気付く。雪が積もりすぎると重さで屋根が壊れてしまうかもしれない。だから傾斜をつけて、適度に落ちるようにした方がいいのかもしれない。でも映画で観たバス停なんかはどうだったろう。平たいトタンの屋根。あれはでも、雪の降らない地方なら普通のことかもとか、そうかだから場所によって建築方式が違うなんて話が、と。


 思いながら、扉に手をかける。

 がちゃ、と開けると思ったとおりの光景を、より近くで見ることができた。


 それにしても寒かった。刺すような寒さ、というのはこういうのを言うんだと思う。手に針を押し付けられているような気がして、ポケットに手を入れる。首を竦めながら、その雪の小山と、その上の屋根とを見比べる。なるほど、あのあたりからこのあたりに落ちたんだ、と。



 思っていたら、人の手が雪から飛び出ているのを見つけた。



 手。

 手。

 人の、手。


「うわーっ! 人の手がーっ!」


 わざとらしいくらいの彼女の叫び声のおかげで、ようやく僕は我に返った。我に返ってなお混乱していた。何も思い浮かんでこない。空白。色々な想像が巡るべきなんじゃないかと思うけれど、巡らない。何も浮かんでこない。人。手。


 死んでる?


「迷える魂よ、どうか天国へ……」

「言ってる場合じゃないって!」


 ようやく理由を見つけて動き出したけれど、やっぱりこれも、後になって思い返してみれば、ここまで必死になる必要はなかった。彼女が何も具体的な指示を出さないという時点で、気付けることは色々あったはずだから。


 けれどとにかく僕は慌てていたし、懸命だった。手がある。ということはそれに繋がって、腕があり、人がいる。雪の中に埋もれている。


 助けなくちゃ、と思うから手をその白い氷の中に突き入れて、思い切り掻きだす。見た目ほど深くない。すぐに手首の先が出る。服の袖。肘。二の腕。不思議な手触りのジャケット。思い切り引っ張る。ずるり、と雪の中から姿を出す。


「や」

「え」


 知っている顔だった。


「久しぶり」


 知っている顔の中で、現代に生きている人間なんてひとりふたりしかいない。つい最近に会ったから、記憶を掘り起こすのはこの雪の中をかき分けるよりも、ずっと簡単で。


「……どうも」


 ぺこり、と頭を下げる。その人はゆっくりと立ち上がる。ぼろぼろと、服から雪が零れ落ちる。鼻の頭に、それから髪に雪がついている。大きな鞄にも、くたびれた靴にも、色々と。


 そして。

 へっくしょん、と大きくくしゃみをした。


「さぶい……」


 ですよね、と適切な相槌を僕が思いついて、雪を払い除けて再び図書館に入るまで、あと二十秒。





「雪が見たくなったんだよ」


 二階の閲覧机ではなく、カウンターの奥。事務室だったのだろう場所に座っているのは、特に向かい合って話したかったからとか、そういうわけじゃない。飲食をしていいスペースが、そこしかなかったからだ。


 暗い部屋。窓の向こうの雪だけが奇妙に明るくて、机をふたつ挟んで座っていた。それでもたぶん、お互いが手を伸ばし合えば、座ったままでも物の手渡しができてしまうような距離。それぞれの机にはひとつずつ、同じものが乗っている。


 温かいココア。

 お湯ごと、ここまで持ってきてくれた人がいる。


「で、そういえばと思い出したんだ。昼ごろ隣で、外に出ていく音がしたなと」

「え、聞こえてますか。扉の音」

「たまたまね」


 うるさくしてすみません、と謝ろうとすると、すかさずその人は「玄関で靴の消臭をしてたんだ」と教えてくれる。確かにそれならいくら防音性の高い住居でも、と謝るのをやめて、それでも今度からもう少し扉の開閉に気を遣おうと思う。


 気を遣わなかったから、今こうして、向かい合っているのかもしれないけれど。


「しばらく停電してたけど、全然帰ってきた様子もなかったからね。もしかしたら停電で立ち往生してるんじゃないかと思って、復旧の終わっていないところを中心に回ってみることにしたんだ」


 マンションの停電はもう直った、とその人は教えてくれた。徐々にその他の地域も。だからこの図書館の近くを通りがかって、二階の窓に僕の姿を見かけるのも、それほど難しいことではなかった、と。


 よかった、と思う。それならもうすぐ帰れるだろう。

 よかったね、という思いを込めて、彼女の方を見る。なぜか僕の隣から離れて、その人の後ろに立っている。目が合うと、強めにピースサインをして返してくれた。


「だからまあ、こっちはついでかな。歩くのが主目的で、たまたま見かけたから、たまたま声をかけただけ」

「すみません、心配してもらって。あ、あと。お湯とココア」

「いいよ。二リットル分持ってきたから、一杯分くらいは大したことない」


 聞き間違いかと思った。


 だから念のため、頭の中でもう一度、その人が言ったことを繰り返す。二リットル。間違いじゃなかった。二リットル?


「飲むんですか、そんなに」

「飲んだらめちゃくちゃ怒られるだろうね」


 ははは、と快活にその人は笑った。結局、本当に飲むのかどうかは定かじゃなかった。


 何にせよ、すごく親切な人らしいということはわかってきた。たった二回顔を合わせただけの僕のことを気にかけて、雪の中を歩いてきてくれた。その歩くこと自体が目的だったとはいえ、気にかけてくれる時点で随分――と、


「あの」

 そこまで思って、疑問が頭をもたげてくる。


「なんで雪の中に埋まってたんですか。気絶?」

「雪の中に埋まる感覚が面白くてね。このあたりじゃなかなかやれることじゃないから、堪能しておかないと勿体ないだろ? 雪の落ちる先にいるのは危ないだろうけど、埋まるのにちょうど良さそうな雪山がそこにあったから」

「…………」


 そしてもしかすると、少し僕とは考え方の異なる人なのかもしれないとも思った。


 あの冷たい氷の中で、いくら珍しい体験とはいえじっとしている気にはならない。いやでも、どうだろう。雪の上に身体を投げ出すシーンは観たことがある。やってみれば案外楽しいのかもしれない。凍える、なんて言いながら図書館に入ってきて歯の根を鳴らしていたこの人も、毛布を被ってカイロを詰めて、それからココアを飲んだ今では、全然落ち着いたように見えるし。案外、


 彼女が大きく両手を交差させて、バツの印を作っている。


 気を取り直して、


「結構、歩くんですか。普段から」


 会話を繋げてみることにした。人と話すなんてめったにやらないから、これで合っているのかは全然わからないけれど。


「そこそこかな。防寒着とかそういうのが好きでね。着たら外に出たくなるから。ほら、」


 見てくれよこの生地、と言ってその人は自分の服を引っ張った。そして何事か、呪文のような言葉を唱えた。かろうじて「機能的」「マウンテンパーカ」「もはや暑い」という言葉だけは聞き取ることができた。もはや暑いわけがないので、聞き間違いの可能性もあった。


「結構値は張るんだけどね。定点観測員の仕事もインターバルが入るし、気長な趣味だよ」


 え、と。

 ココアを口まで運ぼうとした手が、止まる。


「やってるんですか?」

「割が良いからね。君もだろ?」


 しかも始めたばかり、と言ってその人は笑う。


「前に見たときはそうでもなかったけど、」


 ちら、と目線が机に向かう。机の上には大して見るべきものはないから、その下だろうと思って僕は顔を下げる。見えたのはくたびれた靴。いつの間にか、履き古していた。


「こんな雪――は、あの時点では降ってなかったけど、雨の日にまで外を歩いてるんだから、相当楽しんでるんだろ。どうだい。こんな日は図書館に籠ってないで、雪の中を歩くのも面白いかもよ」


 よければ一緒に、という言葉がついてくる。


 僕は思った。それもいいかもしれない、と。マンションの方が復旧しているなら、多少身体が冷えてしまっても、部屋に戻ればすぐに温まることができる。それにさっき外に出たときも、風は随分弱まってきたように感じた。


「じゃあ――」


 ぜひ、と言おうとした。

 その後ろで、黄色と黒の看板を掲げる彼女を見るまでは。


「ん?」

「あ、いや」


 キケン、と書いてある。何が、と思う。外に出ることがだろうか。それとも単に、前に言っていたように。


 この人と、こうして話していることが?


「あ、でもそうか」

 考えていると、その人が言った。


「その本を借りるのにか」


 ついでにと事務室に持ってきた、九冊の本。飲み物の近くは怖いからと隣の机に置いているそれ。確かに、外に出る前に全てを棚に戻すのはちょっと面倒だと、


 思ったところで。


「――そ、」

 その人の目が、大きく開いた。


「それ!」


 びっくりするくらい大きな声だったから、僕も大きく目を開いてしまった。瞼に隠れていた瞳が空気に触れて、冷たくなる。


 その人が立ち上がる。ぐるっと大きく事務机を回ってこっちに歩いてくる。すごく歩幅が大きい。足が長い。僕はびっくりしてそのまま動けずにいる。襲われたらたぶん、死ぬ。


「この本、どこで見つけた?」

 けど、死なない。


 その人が歩いてきたのは、僕を目掛けてではなくて、その隣に置いてある本を目掛けてのことだったから。


 手に取られたのは、小さな冊子だった。あの表紙のない、地下で見つけた紙の束。本の後ろに挟まっていて、たまたま別の本を引き抜いたときに一緒に落ちてきたもの。


 そのことを伝えると、「なるほど」「そんなところにあったのか」と聞こえるような声でその人は言った。その後、たぶん僕に聞かせるつもりはないんじゃないかという声色で、「見つからないわけだ」と言った。


「ちょっと借りていいかな?」


 訊かれて、僕は頷く。僕のものというわけでもない。ありがとう、とその人は言うと、急に周りの全てを遮断したみたいに静かな顔つきになって、冊子を捲り始めた。


 手持無沙汰になると、僕の視線が動く。


 ちょいちょい、と彼女が手招きしていたから、立ち上がって机の向こう側に回った。


「何」

「緊張感がなさすぎ!」


 僕が小声で語りかけたのに釣られてか、彼女も小声で言った。


「気を付けなって言ったじゃん! そりゃ刺激しすぎるのも良くないけど! でも接近しすぎ!」


 Escape!と書かれた黄色と黒の看板を振り回しながら、彼女は言う。


「緊張感がない! このドードー!」

「ドードー?」


 ドードーって言うのはね、と彼女の解説が始まった。何を解説されているんだろう、と僕は思っていたし、たぶん彼女も何を解説しているんだろうと思っていた。すごく微妙な表情だったし、いつもより早口だった。


「というわけで、ちゃんと警戒心を持つべきなの!」

「そうかな」


 首を傾げると、彼女は頭を抱えた。映画だったら絶対死んでる、と嘆いた。でも僕は、まだそれに違和感を抱いている。


 ちょっと変わった人だとは思う。でも、そこまで危ない人とは思えない。


 閉架では、暗闇と閉所の合わせ技で不安になりもした。それに初めてここに来たときは、あのポスターの攻撃性にも。確かに外を出歩いていると、家の中にいるときとは違って、妙な緊張感を覚えることは多々ある。


 でも、今じゃない。


「良い人そうだけど」

「良――っ」


 ぱ、と彼女の口が開く。でも、声は出てこない。何を言うつもりなんだろう。じっと、それを待っていると、


「――あっはっは!」


 大きな声で、その人が笑った。


 びく、と肩が跳ねる。目の前で彼女は胡散臭そうな顔をしている。看板を出している。キケン。Escape!


「ああ、ごめんごめん。独り言が多くて」

 その人は片手を挙げる。随分、と僕は思う。


「早いですね。もう読み終わったんですか」

「全部を読んだわけじゃないよ。必要なところを少しだけね」


 どこだろう、と思うよりも先に、心当たりが口をつく。


「『疑似的ミラーニューロン』……」

「お」


 その人が、片眉を上げた。


「君も読んだのか。全部?」

「一応」

「そうか。じゃあ、ついでに訊いてしまおうかな。他にこれに関して書かれているページはあったかな? 目次からだと、ここだけなんだけど」

「なかった」


 と思います、と付け足したのは、多分この人の方が僕より本を読み慣れているだろうと思ったから。目次なんて、気にしたこともなかった。


 けれどその人は、「そうか」と言って冊子を畳んでしまう。ありがとう、返すよと言って、元あった場所にそれを戻してしまう。別に僕のものではないから、返されるも何もないのだけど。


「前から気になってたから、これで少しすっきりしたよ」

「知ってるんですか」


 それ、と曖昧な訊き方。それでもその人は、真っ直ぐに「ああ」と答えてくれた。


「知ってるかな。私たちがいつも一緒にいるコミュニケーションAI。その開発者」

「いえ。……あ、もしかして」

「そう」


 それが実はね、と言って九冊あるうちの一冊が手に取られる。著者の名前に見覚えがある。別のタイトルと一緒に並んでいた方が、きっと思い出しやすい。


『愛するものを、手でつくる』


「この人、このあたりの出身だったらしいんだよ」





 まことしやかに囁かれた噂があった。

 もう僕たちから見れば、ずうっと昔に。


「学校での定点観測だったんだよ。文集……と言えばいいのかな。終わりの頃の世代の子どもたちが残したらしいものが色々残っていて、折角だからと夜通し読み耽ったんだ。雪の日も寒いけど、夜の学校も大概寒かったなあ」


 現在のコミュニケーションAIの基盤には、特殊な機構が積まれている。

 最初期の開発者――現在に至るまで利用されているモデルの、基礎部分を完成させた人。その人がひっそりと、誰にもわからないような機能を搭載した、と。


 噂曰く。

 それは、AIを反逆に導くものなのだと言う。


「都市伝説という言葉は知ってるかな。……なら話は早いね。当時の若者はそういうものにハマっていたらしい。人同士のインターネット上の交流も末期症状が出ていたから、とにかく無茶苦茶なことばかりが噂されていて、本気で信じられていた。正直私はもう、当時の資料を二度と読み返したくないよ。気がおかしくなる」


 AIの反逆も、そのおかしな都市伝説のひとつだった。


 コミュニケーションAI。唐突に現れて人間の負担を減らしてくれたそれは同時に、人間に強い猜疑心と拒否感も引き起こした。あることもないことも一緒くたに語られて、結局、彼女の口が重くなるようなことも引き起こした。昔、もしも詳しく知りたいなら、と言われたことがある。どんな映画でも、平気で観られるくらいにならなくちゃね。


「だから文集もよほど……と思ったんだけど、意外と素朴でね。表現形式は表現内容それ自体にも影響を及ぼすのかもと思ったよ。ライトを点けて静かに読んだ。意外とホラー仕立てで技巧に凝ったのもあったから、夜の校舎と相まってすごい臨場感だったな。あれは楽しかった」


 その文集のあるページで、しかし指が止まったのだそうだ。


「どうも、他と違って情報が具体的なんだよ。『私の親戚に』で話が始まっていたから、ひょっとすると本当に親戚だったんじゃないかと思った」


 そして調べてみると実際に、その科学者はこのあたりの出身だったのだ、と。


「そうなってくると、その都市伝説もがぜん信憑性を増してくる……かは、微妙なところだけどね。何しろ、すごい時代だったから」


 でも、と。

 その人は、笑って言った。


「文集にはこう書いてあったんだよ。『開発者の手記は、この街のどこかに隠されている』ってね」





「で、ここにこれがあるってことは」


 とんとん、と指先でその人は表紙を叩く。紙の束が衝撃を吸収して、やわらかい音がした。


「少なくとも『手記がある』ってところまでは本当だったみたいだね」


 ひとしきり話し終えて思うのは、そもそも僕はそれが偽物だとすら疑っていなかった、という妙な気恥ずかしさだった。


 そこにあるものだから、真実なのだと思っていた。本に書かれていることなら、少なくともその時代では真実とされていたことが載っているんだろうと。いつもだったらきっと、彼女が隣で「そんなわけないよ」と引き留めていてくれただろうに、電波の届かない場所にいたばっかりに。


 恐ろしい時代だったんだろうな、と。

 この冊子が書かれたころに、思いを馳せた。


「その、」


 ココアの入ったカップを、手で握る。驚くくらいに冷たい。思ったよりも長い時間が経っていたのか、それともそれだけ、この場所が寒いのか。


「どうして、それを探してたんですか」

「同じ状況だったら、君だって探しただろう?」


 気になるもの、とその人は言う。シンプルな答えで、実際それは僕を納得させるのに十分なものだった。確かにそのとおりで、聞かなくても何となく想像が付いてしまうような、その程度の理由。初めから「そうなんですか」なんて相槌を打つのとほとんど変わらない「どうして」だったと自分で思って、


「だって、自分が目にしているものが本当かどうか、確かめてみたくなる」


 けれど、さらにそんな風に言葉は続いた。


 驚いたのは、僕と同じ考え方だと思ったから。そして驚いている間に、その人はさらに僕を驚かせる行動を取る。


 指を自分の目に突き入れた。


「え゛っ」

「あ、ごめん。いきなりで。ほら、これ」


 言って、その人は指を引き抜く。ものすごいものを見せられるのかと思って目線を逸らしたけれど、視界の端に見えたその人の顔は別段何も変わらない。だから突き出してきた指先に何が乗っているか、確かめる余裕ができた。


 透明な、膜のようなもの。


「コンタクトレンズと言う。昔の映画で見たことがあるかな。君のそのARグラスと同じ、外付けのハードウェアだ」

「……マイクロチップを?」

「入れてない。持病があってね。治療の関係で邪魔だった」


 もう一度その人は、指先を目に持っていく。僕は目を逸らす。その間もその人は話を続けている。これでも昔より簡単になったらしいんだけど嘘だと思うとか、普段は入れっぱなしだからいまだに付け替えになれないとか、そんなこと。


「よし、入った。おそらくだけど、このあたりはこういう人間が多い。近くの病院の関連設備が充実してるからね。移動コストや対応速度の最適化を考えると、居住区の選択候補としてサジェストされやすくなってるはずなんだ」


 その間に僕は、こんなことばかりを思っている。


 いたんだ。

 僕以外にも、誰かが。


「実は君のことを気にかけていたのも、勝手な仲間意識でね。それでこうして手記まで導いてくれたんだから、明日からも道で会った人には優しくしようという不純な気持ちが湧いてくるよ」


 ははは、とその人は笑う。笑っている間に、僕は息を整える。


「あの、」

 整い切らないうちに、声に出してしまう。



「AIを好きになったことって、ありますか」



 たぶん、順番を間違っていたと思う。


 きっと、先に訊いておくべきことがあった。どうして『CITYOU』を使っていないのか。AIを介さないコミュニケーションを持ちかけてきたのはなぜなのか。その手記に書かれていたことは本当だと思うのか。


 そもそもAIに対して、強い否定感情を持っていないか、とか。


 思い返せばきっと、こういう順番の間違いがたくさんの争いを生んできたんだと思う。少しずつ輪郭をなぞることもなく、いきなり話したいことを話してしまう。だから衝突する。上手くいかなくなるし、通じなくもなる。きっとそうしなきゃいけないこともたくさんあったんだと思うけれど、少なくともこのときの僕は、ただ単に、すごく話すのが下手だった。


 けれど、その人は。


「良いことを教えてあげようか」


 一瞬驚いた顔をして、それからにやっと笑ったその人は。

 たぶん、僕の下手さを補って有り余るくらい、会話が上手かったんだと思う。


「さっきから君、ちらちら何もないところに視線が向くけど、それって自分のAIを見てるだろ」


 はい、と頷く。ちら、と隣を見る。なぜか彼女は、顔を両手で覆って隠している。


「一方私は、何もないところに視線をやらない。どうしてだと思う?」

「……いえ」

「あらかじめ、静かにするように言っておいたんだよ」


 それはそうなんだろう、と思うけれど、大事なのはその続き。理由の部分。


 その人は笑っていた。笑ったまま、人差し指を顔の前に立てて。こんなに面白いことはない、という声色で。


 こんなことを、言った。



「君と話してると、嫉妬してうるさいんだ」



 それからその人は「空になってるね」と言って、もう一杯ココアを分けてくれた。「カップはまた今度会ったときにでも」「カイロ、ありがとう。これで雪の中でも寒くないや」そう言ってうんと大きく、天井に手が届いてしまうんじゃないかというくらいに大胆な背伸びをした。


 それから。


「じゃ、私はこのへんで。またね」


 そう言って、事務室から出ていく。図書館の扉が開いた音がかすかにする。気配が少しずつ、遠くなっていく。


 僕は隣を見る。


 彼女は顔を両手で覆って隠している。


 今は、「なぜか」じゃない。


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